見ぬ桜 心に咲けば 君の墓碑 死体を踏みて 美しかれと
桜の樹の下には死体が埋まっている。
この世界の、当然の理だ。
人も花も妖怪も、その美しさが極まると死の香りを放ち始め、漂う芳香に誘われるかのように死が集まり、それがさらに死の気配を強めていく。
ところがどうも、死体が埋まっているのは、桜の樹の下だけではなかったらしい。
これは、それを知ることになった、ひとつの事件の話である。
❀✿❀
年の暮れも押し迫ったある日。
この屋敷、白玉楼にも冬はすでに訪れていて、かすかに雪がちらついていた。
白玉楼の主である私は、いつものように縁側から湯呑み片手に庭を眺める。
広大な庭には、異様に巨大な桜の樹が一本、屹立していた。師走なのだから当たり前だが、とうに落葉していて、四方八方に伸びた枝のくすんだ褐色ばかりが目についた。
春になろうとも、この桜は決して満開に花開くことがない。
死を吸いすぎて妖となっているのだ。
決してうつろうことのない存在である私にとって、開花を忘れた巨木――西行妖――は、悠久の時間の中にあって私の心を鎮めてくれる、ほとんど唯一のものとなった。
桜の樹の下には死体が埋まっているという。だからこそ桜は美しいのだそうだ。
西行妖の根元にも、多くの死体が埋まっているはずだ。
誰のものともしれぬ死体達に思いを馳せながら、私は庭師が挿れた茶を口に運ぶ。挿れてから随分時間が経ってしまっていて、冬の気温で唇が痺れるほど冷えきっていた。だが、雪が降る季節に冷茶というのもまた乙なものだ。
その庭師は、妖怪桜の樹の下で、つまり死体の上で、二本の刀を振り回している。
こうして武芸の鍛錬をするのが、彼女の日課なのだ。
かすかに降り注ぐ雪の結晶の中、二つの刃が煌めき、残像が弧を描く。
無心に刀を振る庭師の様子は、まるで死者へと捧げる演舞のようにも見えた。
亡霊となって永遠に時を過ごす私の為の鎮魂か、半人半霊として生まれ、生も死もまっとうしえない自分の魂への慰霊なのか。
舞い踊る庭師の小さな身体を、私は眺め続ける。
今夜も私は彼女に自分の身体を抱かせるだろう。
意味のない行為ではあるが、そもそも人生には意味のある行為などない。ましてや私は亡霊なのだ。行為に意味など求めない。
それでもそうする理由を強いて言うならば、私の身体に没頭する彼女の表情を見たいから、なのかもしれない。快楽に溺れる彼女の悲しげな瞳が私に、「ここに在る」という実感を与えてくれるように思えるのだ。
剣の稽古を終えた庭師――私に忠誠を誓う従者、魂魄妖夢――が、こちらに歩いてきた。
激しい稽古のあとなので、彼女の額には汗が浮き、頬は赤らみ、肩で息をしている。吐く息が白い。幽霊にしては高い体温のせいで、雪は彼女に触れる前に消えていく。
「幽々子様」
呼びかけてくる妖夢の言葉に、
「なあにぃ?」
とのんびりと答えてやる。
『幽々子様の口調や表情は呆けてるように見えます、韜晦がすぎます、もっとしゃっきりして下さい』と妖夢は私によく抗議する。韜晦しているわけではない。むしろ飾ったり装ったりするのが嫌いなので、私はただ在るがままにここに在るだけだ。
縁側に座する私の前で、妖夢が跪く。だがそれだけではなく、地面にべったりとつくまでさらに頭を下げた。
私は少しばかり吃驚して、
「いやいや妖夢、どうしたの急に。私に何かお願いごとでもあるの?」
「そうではなくて、何か……」
妖夢は土下座をしたわけではなかった。
地面に耳をぴったりとくっつけるような体勢で、どうも床下を覗いているらしい。
「何か、いますね……」
「何かって、何かしら」
「鳴き声が、聞こえます」
何がいるというのだろう?
私は目を閉じ、耳を澄ます。
なるほど確かに、鳴き声のようなものが聞こえる。
「幽々子様、これは、猫……ではないですか?」
「いやいや、ただの猫が冥界に紛れ込んできたっていうの?
化け猫なら気配でもっと早く気づくだろうし」
「しかし、やはり、猫の鳴き声だと思います。それも、とても弱々しい……。
怪我でもしているのでしょうか?
どこから迷いこんできたのやら……どうします?」
「そうねえ。どうしようかしら」
妖夢の言うとおり、猫が床下で苦痛のうめき声をあげているようだった。
猫は、自分の死ぬ姿を飼い主に見せることを嫌う。
どこかの酔狂な幽霊が飼っていた猫が、自らの死期を悟り、身を隠すために白玉楼の床下に潜り込んだのだろうか。
死に場所にここを選んだというならば、好きなようにすればよい。
ここは冥界。死は忌むべきものではないのだ。
「そのままにしてやりなさい」
「しかし……少し、様子を見てきても、よろしいですか? かわいそうです」
妖夢はいてもたってもいられないようすで私にそう言った。
「いやいや妖夢、自分で選んだ死の時と場所を邪魔するものではないわ。
妖夢、あなたは優しいし、私はあなたのそういうところは好きよ?
でも、優しさと――」
半人半霊の妖夢は私に比べればまだ若く、物の道理をわかっていない。
「愉悦とを、混同しては駄目。
優しくしてやったという自己満足が大きいときには、
今一度その行動を見なおしなさい。
相手の意志を踏みにじってなす善行は時にこれ以上ないほどの悪行となるわ。
その猫はここを死に場所と決めたのでしょう、ここで死なせてあげなさい」
「でも、幽々子様……」
「妖夢。それをなせば自分が不快になることをあえてなすことこそ、
本当の優しさなのよ。
猫は中途半端に助けられても感謝しない。
ここで猫を死なせることは、あなたにとって不快でしょうけれど、
猫にとってはそれが願いなの」
「そうなのでしょうか……」
「そうよ。はい、この話はここでおしまい。
妖夢、あなた、今夜も私の寝所に来て夜伽なさい。
この鳴き声の細さから見て、猫はおそらく一晩もたないでしょう。
その子の最後の一鳴きを、ともに聞いてあげましょう。
それとも、私とあなたの嬌声で、かき消してしまうかしらね」
「…………」
納得のいかないようすで俯く妖夢に、私は急かすように言う。
「おなかすいたわ。夕食の準備を。あと、お風呂もね」
「はい」
とぎれとぎれに聞こえる猫の鳴き声を気にしながらも、妖夢は土間へと向かって行った。
❀✿❀
その晩、庭師は私の寝室に来なかった。
その代わり、床下から聞こえていた猫の鳴き声が、いつの間にか屋敷の中から聞こえるようになっていた。
未熟で幼稚で不器用で、強情なくせに軟弱。そんな妖夢の若さと弱さを私は愛していたので、苦笑いとともに私は一人で眠りについた。
❀✿❀
翌朝。
私は涙を流していた。
私の瞳からこぼれ落ちた涙の粒は、朝日の光を浴びてきらきらと輝きながらテーブルにしみを作った。
食事が毎日の最大の楽しみだというのに。
なのに、今朝の朝食は、釜めしだったのだ。
いや、きのこや山菜を炊きこんでいるような、そんなのではなく、白い米を炊いたそのままの釜が、どんとテーブルの上に置かれていたのだ。
塩の壺と梅干しの壺があるところを見ると、一升分の米をそれだけで食べろということらしい。
なんという悲しい食事だろうか、泣かずにはいられない。
しかも茶碗すら用意されてないので、釜に直接箸をつっこまなければならない。
しかたがないので、釜の中のごはんに塩をふりかけ、箸ではなくしゃもじでそれをもそもそと食べる。
実においしいのが、悔しい。
この食事を用意した当の本人は、居間の片隅で柔らかい布にくるまれた猫を覗きこんでいる。
私の食事よりも猫が大事らしい。
妖夢は幼く見えるおかっぱ頭の髪の毛を揺らして振り向き、
「幽々子様、この猫、震えてます」
「妖夢、せめてたくあん漬けくらいは用意してもらいたいわ」
「全身濡れてて、乾かしたのですけれど、身体が冷えきっていて……」
「それよりおかずよ」
「どうしたらよいのでしょう」
咬み合わない会話を続ける。
妖夢を見ると、目の淵を真っ赤に腫らしていた。
ほら、だから言ったのに。
「やはり、私が間違っていたのでしょうか」
「いやいや妖夢、人間も幽霊も、いつだって間違うのが正しいのよ。
間違いを犯さない人間がいたら、それはもう神様みたいな……」
とまでいって、知り合いの神様どもの顔を思い浮かべ、あいつらもろくなことしないわ、と思ったので、
「閻魔様みたいなものよ」
と言い直した。
「幽々子様、この子を診てもらえませんか? 私はどうしたらいいのか……」
しかたがない、私は妖夢の横に並んで猫の顔を見てみる。
子猫だった。
かなり痩せこけ、憔悴している。
もはや鳴き声を発する力もないと見えて、ヒューヒューという呼吸音だけを発している。呼吸のたびに上下する身体に合わせて、黒褐色の毛が震えた。
傍目にも、その生命力が限界まで失われていることがわかる。
死期は近いように思えた。
「妖夢、私がこの子に引導をわたしてもいいわよ。なるべく、苦しまぬように」
死を操る存在、それが私だ。この猫に対して、私ができることはそれだけだろう。
「…………」
私の愛する未熟な従者は答えない。
「このまま苦しみの末に死なせるというのも、自然の理ではあるから、
私はどちらでもいいけれど」
そう言って私は猫に手をのばす。
体毛に覆われた身体に触れ、すぐに私は気づいた。
「あら。この子、猫は猫でも……」
よくよく顔を覗き込む。
間違いない。
「妖夢、あなたは本当に未熟ね。この猫、化け猫じゃないの、気付かなかったの?」
「化け猫? ただの猫に見えるのに……?」
「水に濡れて力を失っているわね。気配に気づかなかったのはそのせいみたい。
でも、見なさい、この尻尾」
私は猫の細長い尾を持ち上げる。
「この根元。ちぎれてるけど、もとはもう一本尻尾があったのよ。
本当は尻尾が二本あったのね。猫又かしら。
それに、触ってみればわかるわ、わずかだけれど、妖気もまとっている」
「助けられますか?」
私は少し、考えこむ。
ここまで弱ってしまっているとなると、たとえ化け猫でも回復する見込みはない。
なまじ妖怪なだけに、すぐには死なないだろうが、それは苦しむ時間が長くなるというだけのことだ。
やはり、このまま死を与えてあげるのがもっとも良いのではないだろうか。
「諦めなさい。それより、朝食のおかず、
せめて塩ではなくごま塩がほしいのだけれど」
「幽々子様、お願いです、どうにか助けてあげて下さい!」
懇願する妖夢の顔は必死だった。
「どうにかといってもねえ」
「お願いします! もう、助ける方法はないのですか?」
「ないわけじゃないわ。一つだけあるわよ」
妖夢はぱっと顔を明るくし、
「なら、それを!」
「命を助けるというのは、
死を与えるよりも大きな責任や後悔を産むことになるわよ。
あなたにその覚悟がある?」
「あります!」
「どうかしら。この子はあなたに感謝しない。この子はあなたを喜ばせない。
この子はあなたの重荷になる。それでも、いいの?」
妖夢は真剣な眼差しで私を見、そしてゆっくりと、しかし力強く頷いた。
もうこの時、この化け猫を救うことで、何かが変化することは予測できていた。
安穏として、平和で退屈な毎日。
それはきっと壊れるだろう。
だが、私は飽いていた。
永遠に永久に続くこの日々に。
固定されてしまかったのように動かない私自身の精神に。
それに、死を操るという私の宿命に、少し逆らってみるというのも面白い、と思った。たまには生を操る真似をしてみるのも一興だ。
本来なら現から一度消え去り、再びこの冥界へ訪れ、そして去ってしまうべき命を、この手で救ってやろう。
それがこの若い妖夢の精神をずたずたに引き裂いてしまうことになろうとも。
退屈しのぎになるというのなら、それも良い。
「じゃあ、助けてやることにするわ」
「……どうやるのです?」
「この猫は化け猫よ。やりようはある。
助けるために、私の力を注ぎ込んであげる」
「力を……? どうやって?」
「あなたの力ではまだできないでしょうけど」
訝しげに私を見る妖夢に、私は言った。
「式を、打つわ」
❀✿❀
正直に言おう。
計算外のことだった。
数多くないとはいえ、猫の妖怪など幻想郷では特段珍しいことではない。
実際、八雲紫や古明地さとりは猫を飼っている。だが、目の前のこの化け猫と結びつけては考えなかったのだ。
式を打った化け猫は、私達の目の前で人の形を取り始めた。
私が力を流し込むと、ものの数分もたたぬうちにみるみる回復していく。
小柄な妖夢よりもさらに小さな体躯。
人間で言えば、十歳ほどの少女の姿だろうか。
ぷっくりとした頬は、死人のように青白い。しかし、私から力を受け取ると、だんだんと赤みがさして、生気が戻ってきた。
「やった、幽々子様、さすがです!」
「亡霊の霊力で息を吹き返すなんて、なんだかいろいろあべこべね……。
って、あら……? この子、見たことあるわ……」
茶色のショートカット、まだ思春期にも入ってなさそうな幼すぎる顔立ち。
めんどくさいことをしてしまった、と直感的に思った。
妖夢もすぐに気づいたようで、身体をこわばらせている。
当たり前だ、私達はこの少女を知っている。
というか、つい最近も酒を酌み交わした。
正確にいうと、八雲紫と酒を酌み交わしたときに、側にいた。
幻想郷で最も恐ろしい妖怪の一人、八雲紫。
その紫が使役する式神、式神といえどそれ自体が強大な力を持った妖獣、九尾の狐の八雲藍。
そして藍が式を打った、世にも珍しい『式の式』。
それが、今目の前で安定した呼吸を取り戻しつつあった、小さな化け猫の正体だった。
退屈しのぎにやったにしては、多少厄介なことになりそうだった。
紫がペット同然にかわいがり、藍が溺愛している少女に、私が式を打ってしまったのだ。
どうしてだか知らないが藍の式が剥がれて瀕死になっているところに、私が式を『上書き』してしまったことになる。
紫や藍がそのことに抗議してくるのは明白で、しかも一度打った式はすぐには剥がせない。
それに、式は剥がすときにそのものの生命力を多少なりとも奪う。
瀕死の状態から回復したとはいえ、式を剥がそうとすれば、体力が落ちている今のこの化け猫ではそれが原因で命を落とすことになりかねなかった。
「幽々子様……では……?」
「これを見なさい、妖夢。二本あるはずの尻尾が一本、ちぎれてるでしょう?
これが復活するくらいの状態になってからじゃないと、式を剥がすのは危険よ、
それまではまあこっそりとうちでこいつを飼うしかないわね」
化け猫は、その猫耳をピクピク動かして気持ちよさそうに寝ている。
そのほっぺたを指の先でつついて、
「あなたに私の名前を分けてあげるわ」
こうして、八雲紫の式の式、橙は、今は西行寺幽々子の式となり、西行寺橙となった。
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「ゆ……ゆぅ?」
「幽々子様」
「ゆゆ……しゃ……」
「幽々子様」
「ゆゆ……しゃま!」
「うーん、まあ、このくらいでいいか」
妖夢が橙に言葉を教えている。
私の式神となった橙は、言葉を含むほとんどの記憶をなくしてしまっていた。
それも体力が戻れば回復するだろうが、さしあたって共同生活をするには、言葉を一から教えなければならなかった。
「じゃあ、今度は私の名前ね。妖夢様、よ」
「よむぅ」
「妖夢様」
「むみょ?」
「妖夢様」
「みょん!」
「……わざとだったら怒るわよ」
「ご、ごめんしゃいぃ……」
凄む妖夢にびびったのか、怯えた表情の橙。
「今日からしばらく、あなたは私と一緒に幽々子様のお世話をしなければならないの。まずは、ひとつひとつ仕事を教えるからね」
先輩面をする妖夢がなんだかおかしくて、私は思わず「ふふふ」と笑ってしまう。
「幽々子様、笑っている場合ではありません。
この子をきちんとしつけるのは、発見した私の役目……」
「よむ、こわい」
橙がタタタ、と猫らしい素早さで妖夢の前から逃げ出し、こたつに入っていた私にすがってくる。
「まあ妖夢、いいじゃないの、どうせそのうち紫か藍に返すんだから、
お客様扱いしておきましょう」
「そんな! 幽々子様、甘すぎます! 橙は今は幽々子様の式神なのですよ?
しっかり幽々子様のために働けるようにしなければ」
「いやいや妖夢、愛玩用ってことでいいでしょう?
このモフモフの猫耳なんか、触るととても気持ちいいわよ」
「え、そうですか。……実はちょっと触って見たかったんですよね……。
じゃあ私もちょっと……」
「いやぁ!」
妖夢が手を伸ばしてくるのをあからさまに嫌がって、橙は両手で耳を覆う。
妖夢はむむうと口をへの字に曲げて、
「この化け猫、助けてやった恩も忘れて……」
「ほら、妖夢、そういうのはやめなさい。
恩の押し売りはよくないわ、あなたが助けたかったから助けたんでしょう。
その時点であなたの心は自己満足に浸ったはずだわ、
それでもう差し引きゼロなのよ。
そういうのは忘れて、はじめから関係を構築しなさいな」
私はのんびりそう言って、橙を抱き寄せる。
この寒い季節、橙の身体はとても暖かくて気持ちがいいのだ。
「私はこの子を抱いて少し昼寝をするわ、あなたはお昼ご飯の用意をお願いね」
「むぅ。わかりました」
私の胸の中で早くも寝息を縦始めた橙を恨みがましげにひと睨みすると、妖夢はドスドスと足音も高く土間へと歩いていった。
❀✿❀
「よむ、もってきた」
薪を腕いっぱいに抱えて、橙がふらふらと歩いてくる。
「ああ、そんなにいっぱい! あんたは力がないんだから、少しずつ運びなさいっていってるでしょ!」
妖夢がヒステリックな声をあげて橙に駆け寄る。
橙が私の式となってから一週間が過ぎた。
この子猫はまさしく子猫らしく、いろいろないたずらやら失敗やらを繰り返し、それを見て妖夢が怒鳴り、私が笑う。我が家はなんだか随分と騒々しくなった。
平和で陰鬱で静かな日常はどこかに消え去り、代わりに話し声や笑い声で屋敷の中が満たされている。
橙は猫らしい自分勝手さを発揮し、妖夢の手伝いをしていたかと思えばいつのまにかいなくなったり、探してみるとよりによって西行妖の枝の上で毛づくろいをしていたり。
夜には私の布団に潜り込んでくる。
さすがに見た目十歳の少女に夜伽させる趣味はないので、湯たんぽがわりにしている。
それもあって妖夢を夜伽に呼ぶこともなくなった。
でも、どうしてだか、逆に私と妖夢の関係はむしろ暖かなものになってきていた。
あいだに橙を挟むことで、主従というだけではない、健康的な関係が私と妖夢の間にできつつあったのだ。
私は知っている。
夜中、私が寝付いたと見ると、橙は私の布団からでていき、妖夢の寝室へと行くのだ。
そして明け方になるとまた私の布団へともぐりこんでくる。
気になったので訊いてみると、
「ゆゆしゃまより、よむの方が身体冷たい。冷たいの、かわいそう。
私、身体、暖かい。だから私、温めてあげてるの」
と、橙はたどたどしく言うのだった。
確かに、亡霊である私よりも、半分幽霊である妖夢の方が、体温は低い。
そもそも幽霊は触ると低温火傷するほど冷たいのが普通なので、それで妖夢が寒さにこごえるなどということはない。
だが橙は妖夢が低体温のせいで寒さに震えているのではないかと心配したようなのだ。
こっそり妖夢にそのことを教えてやると、妖夢は少し顔を赤らめ、
「ま、まあ、殊勝な心がけだとは言っておきましょう」
といっていた。
意地悪してやりたい気分になったので、
「じゃあ、もうあなたの布団には行かなくていいと命じていい?」
というと、妖夢は傍目にはっきりわかるほど動揺して、
「い、いや、その、ええと、幽々子様の式神の体調を、こう、なんというか、
直接触れて? 異常がないか、確かめるのも私のつとめですので!」
ものすごく無理筋ないいわけをしていた。
今夜も橙は私と妖夢の布団を往復するだろう。
二人きりの日常を送っていたときよりも、私達は楽しく過ごしていると思う。
いつか橙とは離れなければならないが、それまではせいぜい満喫してやろう、と私は思った。
昼食後、私達は三人はこたつに入ってくつろいでいた。
橙はみかんを積み重ねたりそれを崩したりして遊んでいる。
妖夢は堅物らしくこたつなのに正座で背筋をピンとのばし、静かに茶をすすっていた。
私は橙がつくったみかんタワーからひとつみかんを取ると、皮をむいてそれを口に放り込む。
私のせいでみかんタワーが倒れ、橙は「うわわ」と復旧工事に夢中だ。
「ねえ、橙。あなた、随分言葉も喋れるようになったし、むかしの記憶は戻ってきたのかしら」
私がそう聞くと、橙は、
「んー。ほんの、少し。ちょっと」
「前のご主人のことは?」
「ふかふかで、柔らかかった。しっぽがぴょこぴょこ、するの」
橙は宴会の途中でもよく藍の尻尾で遊んでいた。普段からそうしていたのだろう。その時の記憶は残っているようだ。
「なら、どうしてここの床下にいたか、覚えてる?」
「んー。あのね、たぶん、なにかを隠しに来た」
「なにかって?」
「わからない。で、私が死にそうになってたところに、よむがきて、私をつかんでひきずっていったの」
なんだろう。お宝でも隠しにきたのだろうか。
大判小判がざっくざく、助けて頂いてありがとうとそれを私に差し出してくれるのかしらね。
お酒やお米がいっぱい買えそうだ。
「妖夢、あなたあとで見てきなさい」
「だめぇ!」
橙が大きな声を出した。
「あれは、あそこに、ずっと埋めてなきゃいけないの。
見に行っちゃだめ、よむ、だめ」
「だから、あれって何なの?」
妖夢が困ったように訊く。
「わかんないの! 忘れた! でも、大事なもの……」
橙も同じく困ったような表情で答える。
「まあまあ、放っておきましょう。橙の記憶が戻ったら、そのときに教えてもらうことにしましょう。」
「うん、ありがと、ゆゆしゃま。
そうだ! ゆゆしゃま、うちでは、くりすます、やらないの?」
「クリスマス?」
言われてみれば、もうそんな季節ではある。
とはいっても、白玉楼でそんなイベントはしたことがない。
魔法の森の白黒魔法使いあたりは、はしゃいで松の木に薄気味悪い飾り付けをして喜んでいた気がするが、少なくとも私は興味がなかった。
「うちではやらないわね」
「えー……ゆゆしゃま、クリスマス、やらないの?」
がっかりしたようすの橙。
「ゆゆしゃま、くりすますぷれぜんとにマタタビをくれるっていってたのに」
そんな約束はした覚えがない。
「言ったよ! ゆゆしゃま、くりすますにはケーキ買って、
プレゼント交換するっていってた!
それに、あれ、誰だっけ、あの……、
偉いお姉ちゃんもなにかくれるっていってた!」
長い尻尾を振り回しながら抗議する橙の顔を、まじまじと見る。
大きな瞳に涙を浮かべ、ほおをぷうっとふくらませて睨んできている。
嘘をついているようには見えなかった。本気で、約束を違えたことを怒っているのだ。
うねうねと動く橙の尻尾に目をやると、ちぎれていた方の尻尾が、再生しかけていた。
身体の回復とともに、失った記憶が復活しかけているのかもしれない。
おそらく、以前の記憶と今の記憶が混在してしまっているのだ。
きっと、プレゼントの約束をしたというのは、藍だ。
藍と私とを、混同してこんなことを言い始めたに違いない。
残念だが、橙とのお別れも近いようだと思った。
完全に記憶が回復し、身体の怪我もなおりきったら、私は橙から式をひきはがし、そのまま紫か藍に橙を渡すことになる。
「橙、わけのわからないことを言って幽々子様を困らせちゃだめだからね」
妖夢が橙を叱りつける。妖夢は橙の記憶が戻りかけていることに気づいていないのだ。
私は少し考え、
「そうね、たまにはクリスマスもいいかもね。
ええと、あら、クリスマスイブまであと数日もないじゃないの。
いいわ、二十四日の夜に三人で宴会をしましょう」
「ゆゆしゃま、宴会じゃなくて、パーティ!」
「はいはい、パーティ、ね。じゃあ、お互いにプレゼント交換でもしなきゃね」
橙は嬉しそうに「くりすますぱーてぃ!」と叫んではしゃぎ回る。
「妖夢、あなたもプレゼントを何か準備しておきなさい」
「はい、そうですね……そうか、クリスマスパーティ……プレゼント……そういうの、いいですね、やったことないです」
妖夢までも少しウキウキとした口調でそういう。
私も、自分の頬が緩んでしまうのを感じていた。
きっと、クリスマスは楽しく過ごせることだろう。
三人揃って過ごせれば、の話だが。
❀✿❀
次の日、妖夢がどこからかこぶりなモミの木をもってきた。
訊くと、古道具屋で安く売っていたものだという。
前の持ち主がただ同然で置いていったものらしい。
そもそも幻想郷でクリスマスツリーを飾ろうという酔狂な人間がいるとは思っていなかった。古道具屋に売ってしまったところを見ると、すぐに飽きたのだろうが。
「あとですね、このモミの木を、こういうもので飾り付けるものなのだそうです」
妖夢が木製の箱からいろいろな小物を出して見せる。
「ふーん、やったことないけど、そういうものなのね。
いろいろあってかわいいわ。ええと、星と、これは、靴?
あとは、なにかしらこれ、金色の玉……?
よくわからないけど、とにかく飾っておこうかしらね」
「幽々子様、なかなか綺麗なもんじゃないですか?
ふふ、西洋のお祭というのも、悪く無いですね」
「そうね。あら? これは……、
ああ、これが西洋の神様をかたどったものかしらね」
私は赤い衣装を着た小さな人形をまじまじと見てみる。それは白ひげの老人をかたどったものだった。
「西洋の大黒様みたいなものかしらね」
「まあまあ。気分ですから、それもツリーにぶら下げておきましょう」
妖夢とそんな会話をしている自分が心底楽しんでいることに気づいて、私は思わず「ふふ」と笑いを漏らした。
橙が我が家に来る前までには、こんなに楽しく妖夢と時間を過ごすなんて、ほとんどなかったことだ。
私達がそんなふうにツリーの飾り付けに夢中になっていると、橙が部屋に飛び込んできて、
「ゆゆしゃま、ゆゆしゃま! 私ね、プレゼント、考えたの? なんだと思う? なんだと思う?」
私の周りをぐるぐる走り回り始めた。
ここまでまっすぐ懐かれるというのも、なかなか気分がいいものだ。
「あら、なにかしら?」
「へへ、秘密! いいもの! 今、頑張ってるの、藍しゃま、楽しみにしててね!」
そう言って、また部屋を飛び出していく。
「ちょっと、橙……! ……幽々子様、今……藍って……」
「ええ、そろそろ、かもね」
「そんな……しかたがないとはいえ、せめて、あと二日は……」
妖夢の顔が陰る。
私の式としての橙に、よほど情が湧いてきてしまったのだろう。
「そう、今、あなたが言ったとおり、しかたがないのよ、妖夢。
その時がきたら、諦めましょう。
よく考えたら八雲家でもクリスマスの準備をしていたことでしょうし、
本来の主の元で過ごすのが本人にとっても一番幸せなことなのよ」
「はい……」
橙が去っていった庭に目をやる妖夢の横顔は、寂しそうというよりも、悔しそうなものに見えた。
「で、妖夢、あなたは橙へのプレゼント、なにか考えたの?」
「はい、ほら、今冬ですし、橙って素足にスカートではないですか。
足元が寒そうなので、タイツを……」
「あら、いいわね、私はリボンにしておいたわ。
あの尻尾に飾るときっとかわいいもの。で、妖夢、私には?」
「ええと、ヤツメウナギの蒲焼き無料券を」
「なんか、しょぼいわね、いや嬉しいけど。
あなたには……まあ、お休みとお給金でもあげようかしらね」
「やったあ! 幽々子様、ありがとうございます!
……って、それって、クリスマスじゃなきゃもらえないものなんですか……。
どうも、白玉楼の労働条件って悪いような……。
ん、あ。橙のやつ、また戻ってきた」
その自由奔放さはまさに猫。
橙は庭からダダッと部屋に入ってきて私に抱きつくと、
「ね、ゆゆしゃま、うまくいかないの。
よむへのプレゼント、うまく穫れないの。手伝って」
そう言いながら、私に頭をゴシゴシとこすりつける。
「あら、手伝うのはいいけど、何を穫るの?」
「へへー、それはねー……」
いいかけて、そばに妖夢がいることに気がつくと、
「よむには秘密! ね、ゆゆしゃま!」
「はいはい、どれ、少し妖夢のために手伝ってあげることにしようかしらね。
あら、橙、この尻尾……」
「あは、ゆゆしゃま、くすぐったいぃ」
嬉しそうに身をよじる橙をよそに、私は彼女の尻尾を手に取る。
昨日は生えかけの状態だった尻尾が、今はもう半分ほどのところまで成長してきていた。
思ったよりも回復が早い。
妖夢はそれを、険しい顔で見ていた。
❀✿❀
「ね、ね、ほら! この池! ここにね、でっかいお魚が棲んでいるみたいなの!
だから、そのお魚を獲って、よむにあげるの!」
橙が私を連れてきたのは、冥界のはずれにある大きな池だった。
たしかに、ここには主ともいえる大きなナマズが棲んでいる。
だが、冥界に棲んでいるだけあって、普通に妖力を持っている存在だ。正直、化け猫の手には余るはずだった。
「あら、いい考えね。で、どうやって獲るつもりなの?
私はどう手伝えばいいのかしら」
「あのね、私がね、こうしてね、……尻尾をね、池に垂らすの!
そうするとね、私の尻尾をエサだと思って魚がくるから、
ゆゆしゃまはそれを捕まえて欲しいの!」
ああ。
なるほどね。
屈託のない笑顔でにこにこと計画を語る橙に、私は優しく微笑みかけた。
なるほど。
それが、尻尾がちぎれていた、そして床の下でずぶ濡れになっていた原因か。
式神は水に弱い。
濡れると、式が剥がれてしまうのだ。その時、当然生命力も持っていかれることになる。
私は慎重に言葉を選びながら、訊いた。
「で、それを藍にプレゼントするつもりだったのね?」
「うん! でもね、前は失敗しちゃった。
魚にひっぱられて、池に落ちちゃったの」
「一人であの魚を釣り上げるのは難しいわ」
「ううん! 仲間がいたよ。でも、あれ、どうなったんだっけ」
橙は首をかしげ、目を泳がせる。曖昧な記憶を手繰り寄せようとしているようだ。
「いいわ、あのね、いいことをおしえてあげる。
ここの魚ね、妖夢はあんまり好きじゃないの」
「え……」
「だからね、妖夢が喜ぶ、もっといいものを教えてあげるわ。
妖夢が飛び上がって喜ぶような、とても素敵なものがあるのよ」
「本当? じゃ、そっちのがいい!」
「でしょう? さ、それは屋敷の中にあるから、一緒に行きましょう」
私はそれでも名残惜しそうに池を振り返る橙の手を引き、屋敷へと戻った。
屋敷の居間では、妖夢が一心不乱に千代紙をハサミと糊で輪っかにしていた。これを鎖状につなげ、部屋の中を飾るのだそうだ。
橙も喜んでその作業を手伝う。
ぴょこぴょこ動く橙の尻尾を眺めながら、私も手伝おうかしら、と思った。
千代紙が何枚かほしいしね。
❀✿❀
イヴの朝が来た。
いつも私がこたつでみかんを頬張っていた和室は、今や完全にクリスマスモードになっていた。
千代紙でできた飾りで部屋中が埋め尽くされ、クリスマスツリーはキラキラと輝く。
そしてその中で、私達は朝食を摂っていた。
「ねえ、妖夢。あのね、こんな日の朝が、お茶漬けっていうのは、ちょっと」
「幽々子様、本番は夜です。ケーキも注文したし、夜にいっぱい食べられるよう、
朝と昼は軽いものにしておきましょう」
その妖夢の膝の上に乗った橙が、
「ケーキ! ケーキ!」
と笑顔ではしゃいでいる。
女の子の膝に猫が乗っている、といえば字面はいいが、橙は十歳くらいの女の子の大きさで、妖夢も小柄な女の子だ。
となると、正座している妖夢の膝の上に橙が座っているその光景は、微笑ましいというよりも、
「ちょっと、橙! 膝、膝が、重い、痛い……」
「でも、よむ、あったかいでしょ?」
「あったかいけど! 前が見えない! あれ、お茶漬けどこ?」
「もう少し、右だよ」
「あ、あった、これか、えっと、どうやって食べればいいんだろ……。
えーと、いいや、橙、まずお前が食べればいいわ」
「うん、じゃあよむ、たべさして。
って、そこじゃない、そこは鼻、もっと下……!
そう、はむっ……あち! あちちち!」
なんだこの二人羽織り。
ほんと、仲良しになったなあ、この二人。
私はその様子を、微笑ましくも悲しく思いながら、お茶漬けを口に運んだ。
「あーもう! いいわ、橙、どきなさい。
里でケーキ注文してるんだから、ちょっととってくる。
朝ごはんは……我慢して、パーティの時にいっぱい食べる」
「ケーキ! やった!」
橙は妖夢の膝から飛び降り、
「いってらっしゃい!」
と叫ぶ。
「はいはい、わかったわよ、橙、
お前いたずらして幽々子様を困らせたりしちゃ、駄目よ」
「うん!」
橙は二本の尻尾を、猫のくせに犬のようにパタパタと振った。
……二本の、尻尾。
完全なる化け猫の尻尾。
それが、完全に回復し、元通りになっていた。
妖夢も気がついたらしく、それを見て目をすがめる。
「妖夢、タイムアップね」
私はそう言った。
妖夢は唇を噛むと、
「今日、一日くらいは、大丈夫ですよね」
「まあ、どうかしらね。
回復した以上、式を剥がして八雲に返してあげるのが筋というものでしょうね。
今は私の式なわけだから、ずっとこのまま式神でいさせることもできるわ。
でもそうすると紫はともかく、藍とは決定的に敵対することになる」
「ふん、化け狐の一匹や二匹……」
「というほど、簡単な相手でもないわよ。わかってると思うけど。
それに、胸を張って藍に言えるの? この子はうちの子だって」
妖夢は黙って首を横に振る。
私達の会話を聞いて、橙が首をかしげた。
「あれ? 紫様と、藍しゃまも、くるの?」
妖夢がびくっと身体を震わせた。
夢のように楽しく騒がしかった日々の、終わりを告げる一言だった。
妖夢が、呻くように橙に尋ねる。
「あんた、八雲紫様と、藍のこと、覚えてる?」
「うん! だって、藍しゃまがクリスマスパーティをするって!
藍しゃま、私に……あれ? でも、今の私のご主人は、ゆゆしゃま?
でも、だって、あれ?」
橙は心底わけがわからない、といったようすで、耳をピクピク動かしながら自分の記憶と現状との齟齬に戸惑っているようだった。
「頃合いね。私も無駄に紫と敵対したくはないし、
まあこの子に式を打ったのは命を助けるためだったから
感謝されてもいいくらいだけど、これ以上はね。
そろそろ、帰してあげましょう」
私は努めて冷静にそう言った。
努めて?
そう、私だって、橙を手放したくはない。
橙がここに来るまで、私と妖夢は、重くて暗い雰囲気の中で暮らしていた。
今になればわかる。
はりつめて冷たい空気、主従とはいえ、どこか距離があった私と妖夢の仲。
視界はすべてモノクロで、あらゆる事柄が寒々しく感じられた。
以前、春を集めて西行妖を無理やり満開にさせようとしたことがあったが、あれだって結局のところはこんな沈鬱な毎日が、嫌になったからなのだ。
亡霊と、半人半霊。
陰気な時間が流れるのは当たり前といえばそうなのだが、しかし、やっぱり私も、そんなのは好きではなかったということだ。
だけど橙がこの屋敷の住人となって以来、眩しいくらい輝いた笑顔を見せる橙のおかげで、すべてが一変した。
妖夢はよく笑うようになった。
私自身も、じゃれあう妖夢と橙を眺めつつ、いつのまにか口の端に笑みを浮かべていることに気づくことが多々あった。
でも。
それでも。
いや、それだからこそ。
橙は、居るべき場所に、帰るべきなのだ、と思う。
本来なら死んでいたはずの化け猫は、私が式を打つことで命を永らえた。
だがその恩は、妖夢にいった通り、ひとつの命を救ったという自分勝手な満足感に浸れたことで、差し引きゼロなのだ。
これ以上、私の、私達の悦びのために橙を縛り付けておくべきではない。
「……橙の怪我が治ったから、ですか」
「そうね、妖夢、最初からそう決めてたでしょう?
今の橙なら式を引き剥がしても、少し痛いくらいですむわ。
妖夢、あなたは少し、橙を愛しすぎてるようね。
でも、それは自己満足のための愛でしかなさそうだわ」
「愛とは、そういうものではないですか。……橙」
妖夢の呼びかけに、橙は「ん?」とふりむく。
「橙、あんた、……私のこと、好き?」
「うん、私、よむのこと、好きぃ!」
屈託のない笑顔で答える猫の少女に、妖夢はさらに尋ねる。
「ずっと私といたい?」
「うん! そりゃ、よむは怖いし細かいしうるさいけど、でも一緒にいたいよ!」
「紫様や藍と、私と、どっちがいい?」
橙はピタリと動きを止め、じっと妖夢を見つめた。
そして、気詰まりになるほど長い時間をかけてから、
「えっとね、私はね、……」
「橙!」
思わず私は声をあげていた。
「答えなくていいわ。妖夢、あなたも、そんなことを訊くべきではない。
それを訊く時というのはね、もう、愛ではないのよ」
妖夢は納得いかない顔で、
「好きな……相手に、自分のことをどう思うか訊くのは、愛ではないのですか?」
「ええ。それは愛ではなく……自己愛とか執着とか呼ぶべきものよ。
特に自分を誰かと比べさせる時はね。それは最初、愛とは区別がつかない。
でも、時間が進めば自己愛や執着はその触手を伸ばして
相手も自分自身もからめとっていく。
最後にはお互い、一歩も動けなくなるわ。
やはり、頃合いだと思う。橙を、手放しましょう」
妖夢は俯く。
このかわいい私の妖夢は、若く未熟だが馬鹿ではない。
わかっているはずだ。
妖夢が橙のことを好きだということに疑いはない、が、同時に、妖夢は橙を通して、自分をもかわいがっていたのだ。
橙に自分を仮託し、そしてそれを愛でたのだ。
この化け猫を喜ばせるためではなく、自らの心を慰めるために愛くしんだのだ。
「……私自身も、反省しなきゃね」
それは、私が妖夢を使ってしていた行為と、そう変わりはなかった。
千年の時を過ごしてきた私ですら、その執着を振り切るのは困難なことで、いまだにできていないのだった。
思えば妖夢に夜伽させているとき、私は妖夢自身の悦びや幸福をどれだけ願っただろうか?
いいや、そんなものは微塵もなかったと認めざるをえない、私は寂しかった、寂しすぎて、妖夢の身体をした私自身を愛した、性行為でも愛を育む行為でもなく、ただの自慰行為だったと認めるしかない。
今更ながら、妖夢に説教していたことを私自身ができていなかったことに気づき、そしてその説教までもが、妖夢ではなく自分へ向けてのものだったと、ようやく私も発見したのだった。
「妖夢、今から、式を剥ぐわ。いいわね。橙、今までありがとうね」
私は橙に近づき、私と橙をつなぐ霊力を切るための念を練る。
だがその瞬間、妖夢が背負っていた長刀――楼観剣を、抜き払った。
「尻尾をもう一度斬れば……もう少し一緒に……」
ああ。
私の胸が痛む。
この妖夢は、私だ。
執着する者と一緒にいたいがために、相手を傷つける。
意識的にせよ、無意識的にせよ、私もきっと妖夢をたくさん傷つけてきた。
時には未熟者と小馬鹿にし、時には魂魄妖忌と妖夢を比べ。
私の所有物なのだからと自慰行為の道具に使い。
そうすればするほど若年の妖夢は私への依存を深め、離れられなくなる。それを知っていて、あえてそうしていた。
私はため息を吐く。
橙は何が起こっているのか全く理解していないようで、ぽかーんとした表情で私と妖夢の顔を交互に見比べている。
妖夢が楼観剣を振り上げる、私は橙の前に立ちはだかる、妖夢は振り下ろそうとした刀を止める、私はそんな妖夢――小柄な庭師の少女――に、抱きついた。
「妖夢、ごめんね」
「……幽々子様……?」
そこに、橙が割って入ってきた。
「ケンカはだめだよー?
ね、ほら、ゆゆしゃまも、よむも、ケンカはだめ、仲直り」
やっぱり、橙はいい子だ。
私は橙の妖夢よりさらに小さな身体も抱き寄せ、
「ふたりとも、今までごめんね、ありがとう」と言った。
そして。
橙から、式を、引き剥がした。
瞬間、橙の全身がガクガクと震え始める。
「あ、あ、ああ……なに、これ……」
「大丈夫よ橙、怖がることはないわ。少しだけ、在りようが変わるだけよ」
優しくそう言ってやる。
妖夢は楼観剣を背中の鞘にしまい、橙の手を握った。
「ゆゆしゃま、よむ、仲直りした……?」
ああ。
橙。
本当に、いい子だ。
心の奥底に、善良なる芯を持っている。
私と妖夢は顔を見合わせ、そして二人同時に橙に笑顔で頷いた。
「よか……った……」
橙が人間の形を留めておけなくなってきた。
人間の姿をしているのは式神としてのありようで、もとは化け猫なのだ。
どんどんと橙の身体は縮んでいき、そしてついには猫に戻っていく。
褐色の毛並みの猫は、二本の尻尾を畳にだらりと這わせて横たわる。
そこからは、思い出すだけでも唖然とするほどあっという間の出来事だった。
一拍もたたぬうちに、突然空間が歪んだのだ。
何もなかったはずの空中に、見ようによっては卑猥な形の割れ目ができあがり、そこから手が伸びてきてヒョイと化け猫の首根っこを捕まえた。
割れ目の中の人物と目があう。
私はそいつに肩をすくめながら笑ってみせ、そいつもまた私に苦笑を送って、猫ごとまた宙の中へと消えていった。
「……あっさりでしたね、幽々子様」
「そうね、さすが紫、わかっていたのね。
ま、この幻想郷であいつに隠し事なんて、そうそうできないってことね」
「手のひらの上ってことですか」
「いやいや。
手のひらの上だからってこっちが完全に負けてるわけじゃないのよ?
その上で踊ればくすぐったいだろうし、
そうね、例えば手のひらの上にゴキブリが乗ってきたら、
どっちかというと負けっぽくないかしら」
「私はゴキですか。はあ。この部屋も、どうしましょう」
「せっかくだから、二人でクリスマスを祝うわよ。
ほら、早くケーキを取りに里へ行ってきなさい」
その日の夜、ふたりきりのクリスマスパーティは、なんだかとても侘びしく感じられたので、冥界の幽霊達を集め、さらに騒霊三姉妹を呼んで演奏させたりして、私達はなんとかクリスマスイブを乗り切ったのだった。
集まってきた幽霊の中に、ひとつだけ、やけにしつこく私や妖夢にまとわりつくのがいた。
私はパーティのあいだじゅうそいつを膝の上でかわいがり、宴会が終わったあとに、特別に順番を飛び越して成仏させてやった。
橙がいないこと以外に、そのパーティで不満があったとすれば、ケーキが小さかかったことくらいだろう。
三人分、ということで注文していたらしいが、普段の私の食生活を見ていればそんなもので足りるわけがないことくらいわかるだろうに。
騒霊姉妹どもにもつまみ食いされ、結局私が口にできたのは、ほんの一口だけだった。
気をきかせてもっと大きな段々重ねのケーキでも買ってくればよかったのに。
やはり、妖夢は未熟者なのだ。
きっと主人に似たのだろう。
❀✿❀
師走の二十六日。
クリスマスなんてものはもう誰も思い出さないほど過去のものとなり、私と妖夢は普段の生活を取り戻していた。
正月には博麗神社で大宴会を催すという。
当然紫や藍も来るだろうし、それならあの化け猫もついてくるに違いない。
もとが自分勝手で気ままな猫なのだ、もう私達のことは忘れてしまっているかもしれないし、どうも思っていないかもしれないが、それでも藍のそばにぴったりとくっついているだろうあの子を見れば、私達の執着もなくなるかもしれない。
私はため息をついて、庭を見る。
西行妖の樹の下で、以前と変わらず妖夢が剣の稽古をしている。
橙がいた頃の喧騒はもう、白玉楼のどこにもない。
冬の冷たい風が吹く音、そしてそれを切り裂くような二本の刀の音ばかりが私の耳に届く。
ただ、橙が来る以前よりも、妖夢の振る刀の軌跡は軽やかなものとなっていた。
どこがどう違うとまでは言えないが、何か心境の変化でもあったのだろう。
ただ一人の観客たる私は、愛する若いパートナーの演舞をただ見つめる。
と、突然妖夢がピタリ、と動きを止めた。
そして、
「誰か来ましたね。侵入者でしょうか」
と言った。
何者かが白玉楼にやってきたらしい。
そいつは、堂々と正門から歩いて入ってきていた。
「いやいや妖夢、どう見ても侵入者じゃなくてお客様でしょ?」
そいつはピクピクと猫耳を動かし、ぴょこぴょこと二本の尻尾をリズミカルにうねらせながら、妖夢の前に立つ。
「橙……」
橙は何も言わず、一枚の封筒を妖夢に差し出す。
ついで縁側の私のところにくると、私には二枚の封筒。
そして、橙はいつも聞かせてくれていた快活な声で私に言う。
「紫様が、正月の宴会の招待状をもっていけって。
あと、もうひとつの方は、えっと、
クリスマスの時に渡しそこねたプレゼントね。
で、……幽々子様に聞きたいんだけど」
「何かしら」
「菊丸のこと」
「思い出したのね」
「うん。私のせい」
「そうかもね。でも、ここでクリスマスを一緒に祝って随分楽しんでいたわ。
今はもう成仏して天界にいるはずよ。
そうそう、菊丸ちゃんからあなたへの言付けがあるの。
『ずっと一緒に遊んでくれてありがとう、
気に病むな、あたしはこっちで気楽にやるから』だって」
「…………うん、ありがとう、幽々子様」
橙は寂しそうな笑顔で頷く。
あの日、橙は友人の猫である菊丸を連れて、冥界のあの池へとやってきた。
尻尾をエサに巨大ナマズを釣ろうと思ったが、逆に池に引きずり込まれ、尻尾は食いちぎられてしまったという。藍が橙に打った式は、その時に剥がれたようだ。
そんな橙を菊丸が池に飛び込んで助けたのだが、巨大ナマズにひどく噛まれ、致命傷を負ってしまった菊丸は、橙の目の前で絶命したという。
式の剥がれた橙は猫の姿のまま、その遺骸を白玉楼の床の下までひきずってきた。それを床下の土に埋めた頃には橙の体力も限界だったという。先に息をひきとった友のそばで、橙は自らの死を待つことにしたのだった。
「ねえ……幽々子様」
「ん? なにかしら」
「菊丸のお墓なんだけど」
「いやいや、こんなにも立派な墓標があるじゃないの、気にすることないわ。
猫には立派すぎるくらいでしょう」
白玉楼の広大な屋敷は、主である私も気づかぬうちに、橙の友であった猫の死をいたむための墓標となっていたのだ。
「桜の樹の下には死体が埋まっている、というけれど。
案外、どこにでも埋まっているものね。
ここは冥界、死したものが集まる場所。こちらにはこちらの理があるのよ。
気に病むことはないわ。
あなたは紫や藍の元でしっかりと働きなさい。
たまに菊丸ちゃんへのお祈りも忘れずにね。
そういうのは、きちんと届くことになってるんだから」
「うん、ありがと、幽々……ゆゆしゃま。じゃあ、私、帰るね」
身を翻して走り去ろうとする橙に妖夢が大声で叫ぶ。
「橙、待ちなさい、これを!」
その手には、綺麗にラッピングされた袋が二つ。
クリスマスに渡そうと思っていた、私と妖夢のプレゼントだ。
可愛らしい柄のリボンと、厚手のタイツ。
橙は嬉しそうにそれを受け取ると、
「うん、ありがと、よむ!」
と言った。
にっこり笑う橙に、妖夢も笑顔を返した。それは私も見たことがないほどの、純真な笑顔だった。
❀✿❀
その晩、久々に妖夢を夜伽に呼んでみた。
というか、布団の中が寂しいので、ひとつの布団で身体を寄せあって寝ることにしただけだったが。
「あの、幽々子様」
「なあに?」
「橙が渡した封筒、見ました?」
「ええ。なかなかいいものだったでしょう? たった一枚の千代紙なのにね」
「そうですね……。ふふ、そうだなあ、私も、もっと単純でいいのかなあ」
妖夢が嘆息とともにそういう。
「そう思うわよ。もっと単純に、笑ったり泣いたり怒ったりしながら
過ごすほうが、きっと正しいのね。
橙のおかげできづいたわ、ああいうのをまっすぐな性格っていうのね、
ああいうのは、いいわよね」
「幽々子様は性格がねじ曲がっておいでですから」
「失礼ね、ただねじれてるんじゃなくて、
複雑怪奇な幾何学模様を描いてねじれてるのよ、私の精神は。
芸術作品と呼んでもいいわ」
「そうですか」
「でも、あの子の心の真っ直ぐさのほうが、きっと美しいわね」
「そうですね」
ただの下賎な化け猫風情に、この西行寺幽々子が学ぶことがこんなにもたくさんあったとは。
ああ、この世界は、とてもおもしろい。
私は妖夢の冷たい身体を抱き寄せた。
そうね、こんなにも冷えているのだもの、暖かくしてあげたくなるわよね。
「幽々子様?」
「今日は、もう寝ましょう。明日は、お正月の準備ね、私も手伝うわ」
「はい」
妖夢に私の体温は奪われたが、むしろ心はぽかぽかと暖かくなった。
ここは冥界、白玉楼。
私達が生活する屋敷にして、猫の墓碑。
桜の樹の下にも、屋敷の下にも死体は埋まっている。
死体が埋まっているならば、その上に在るものは美しくなければならないはずだ。
私も妖夢も、美しい存在であるべきなのだ。
心の、美しさ。
美しくなろう。
あの化け猫のように。
❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀
よむへ。
いつも、ありがとう。
たすけてくれて、ありがとう。
よむがいちばんほしいものをゆゆしゃまがおしえてくれたので、
それをあげます。
めりーくりすます。
★ずっとともだちでいてあげる券★
ゆうこうきげん ずっと
ちぇん
❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀✿❀
ゆゆしゃまへ。
いつも、ありがとうでした。
ゆゆしゃまがごしゅじんで、よかったとおもいます。
ゆゆしゃまがいちばんほしいものをよむがおしえてくれたので、
それをあげます。
めりーくりすます。
★さびしいときはそばにいてあげる券★
ゆうこうきげん ずっと
ちぇん
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〈了〉
お読みいただきまして、ありがとうございました。
なにぶん久しぶりのなろう投稿ですので、よみやすいレイアウトがいまいちよくわかっていません。
ので、しばらくレイアウト関係いじくりまわしますが、なにかアドバイスあったらぜひお願いします。