「後悔」10円小説家で検索
「後悔」10円
スーツ姿で通勤という、毎日繰り返される行動。電車の窓から外を眺めていると、不思議とどこか遠くに出掛けたくなる。脳が刺激を求めているのかもしれない。会社に行く気満々だったのだが。思いきって、会社に電話を掛けてみた。マナー違反の冷ややかな視線を感じつつ。
コール音が聞こえる。
「はい。木村商事、営業課谷村です」
「おはようございます。小野寺です」
「あ、小野寺さん、どうかされました?」
「今日は、体調不良で有給休暇を使いたいのですが」
「私から、課長に話しておきますね。ゆっくり休んで下さい」
「ありがとう」
電話を切った。
休みをもらったが、これからどこへ行こうと言うのだろう。宣言通り家に帰っても、一人暮らしで趣味もない。
車掌が次の駅を案内する。
「次は、立花、立花」
立花駅で乗り換えをしなければ、家に来た道を戻るだけだ。乗り換えのために電車から降りた。
駅のホームで電車を待っていたら、髪の長い色白の女性が目についた。黄色の線より外側に立っている。短いスカートがセクシーに見えた。
駅の構内放送が聞こえた。
「まもなく電車がまいります、黄色い線までお下がり下さい」
色白の女性は、ホーム下に飛び込んだ。
「危ない」
私は女性を助けようと、鞄を投げ捨てホーム下に降りた。
ガタンゴトン、電車はもう来ている。緊急停止ボタンが押され、運転士が汽笛を鳴らす。
無我夢中で、彼女を線路から引っ張った。
「うぉりゃ」
死ぬための覚悟もできないぐらい一瞬だった。
電車がホームに停車した。
体が震えていた。係員と民衆に、ホーム上まで救助される。
「お二人とも大丈夫ですか?」
小野寺は、彼女をすぐ気にかけた。
「私は、元気です。お嬢さんは、怪我ないですか?」
「ないです」
彼女は驚いた表情をしていた。二人は、かすり傷程度だったので、軽い手当てだけを受けた。
鉄道警察の事情聴取も終わり、開放された。このまま、彼女を一人にするのも心配だった。
「お嬢さん、コーヒーでも飲みませんか?」
「いいですよ」
喫茶店に入り、テーブル席に座った。
「私は、小野寺と言います。あなたのお名前は?」
「私は、三上です」
「なぜ、自殺など考えたのです。もし良ければ、お話だけでも聞かせてもらえませんか?」
彼女は涙ぐんだ。
「私の弟が、海で溺れて死にました」
「それはお気の毒に。他にご家族は?」
「両親は、私が10歳の時に亡くなり、これまで二人だけで力を合わせて、暮らしてきました」
「ご両親も亡くなっているのですか……」
「正義感の強い弟でした。友人と海水浴に行き。海で溺れた子供を助けに海に入り、弟も子供も亡くなりました」
「そうだったのですか」
「私は、半身をもがれた思いで、精神病を患い。毎日苦痛の日々を過ごしています」
「それで」
「とうとう、病院の帰りに死んでしまいたいと思い、電車に飛び込みました」
「なるほどです」
「関係のない小野寺さんを、危険な目に合わせてしまい申し訳ありません」
「いやいいんですよ。助けるのが当たり前」
「はっ!小野寺さんは通勤途中だったのじゃありませんか?」
「いえいえ、私は通勤をしていたのですが」
「やっぱりじゃあ」
「聞いて下さい。電車の外の景色を眺めていたら、何だか休みたくなり。有給休暇を使って、どこか遠くに行こうと思っていたのですよ」
「それじゃ、私が邪魔をしてしまって」
「偶然、三上さんを見かけて、ほっとけなくてですね」
「私なんて、死ねば良かったのですよ」
小野寺は咳払いをした。
「三上さん、あなたは生きる理由があります」
三上は、怒りだした。
「天涯孤独の私に、理由なんてありません」
「弟さんは、あなたの心の中にいます。弟さんの分まで生きるべきじゃありませんか」
「他人に言われたくないです」
「恩着せがましいかもしれませんが、あなたの命は私が助けました。従って、あなた一人の命ではありません。生きて下さい。ここは、誘った私が勘定を払いますので」
小野寺は席を立つ。
「それは困ります」
「私は、あなたのような美しい女性にコーヒーをおごれて幸せです」
三上は、頬を赤らめた。
「まぁ」
「では、さようなら」
「さようなら」
三上が、だんだん遠ざかっていった。
私は、彼女と別れた後、一つだけ後悔した。連絡先を聞けばよかったと。
完




