過去の物語
非常に後味の悪い話のため、ご注意下さい。
苔の生えた石段を一段ずつ駆け下りて、向かう先は水面の下。
透き通る白の花々が揺れる中、私は急いで走る。
もうすぐそこまで来ている。
どうかどうか、兄様が無事でありますように。
足がもつれて膝を付く。
冷めた石段は硬く、流れ落ちそうになる涙を必死にこらえて立ち上がった。
赤い血が肌を伝っても立ち止まるわけにはいかない。
早く、早く!!
野辺に咲く花だけが平穏を保っていた。
空も風もこんなにも穏やかなのに…どうして私の心は荒れているのだろうか。
紐の切れたサンダルで、私はとにかく急ぎ走った。
水底にある祭壇までは後もう少しなのに、その少しの距離がもどかしい。
小さな門をくぐると、上から無数の光が差し込む幻想的な庭園が広がる。
頭上には澄み渡った青空のかわりに、幾重にも絡まって光る水面が見えた。
色鮮やかな花たちと萌え立つ木々の緑の合間をすり抜けて、美しく磨かれた神々の祭壇へと走り寄る。
色とりどりのガラスに装飾されたこの神殿は、人々から「神の御わす所」と呼ばれ、それは親しまれていた。
「兄様!」
必死に叫んだ言葉は拡散する光のように何度もこだましたが、その言葉に対する答えは遂に帰ってこなかった。
祭壇に捧げられた白い花が揺れる。
その花弁だけが何も知らないと主張するように、白く白く透き通っていた。
無垢な花は何も知らないまま、美しく咲き誇る。
何処へ行ってしまわれたのか。
私を置いて、何処へ行ってしまわれたのか。
彼の人は私を残して何処へ。
不安に揺れる瞳からこぼれた涙が、頬を伝って肌を濡らす。
背後から追っ手の迫る足音が聞こえても、私の足は動かなかった。
窓に嵌め込まれた鮮やかな色ガラス。
そこから差し込む極彩色の光に貫かれ、私は動くことが出来なかった。
「あそこだ!御子が居たぞ!!」
神の御前に相応しからぬ出で立ちの者どもが、私を容赦なく包囲した。
重く苦しい甲冑に、死の匂いをこびり付かせた剣を手に。
その切っ先は私の喉元へと突きつけられた。
「邪神の愛し子に告ぐ。聖なる我らが神に忠誠を。
愚かな神に仕えた過去を悔やみ、これからの生を改めよ!」
軍隊長と思わしき者が声高らかに誓言を要求した。
「私はうぬ等が申す神に仕える気は無い!この体と心は私の信ずる神にのみ捧げるもの。
先ほどから邪神と申すが、いったい我が神が何をしたと?何もしていないでは無いか!」
「やはり、言うだけ無駄か。」
「この地はこれほどまでに穏やかで、花は咲き木々は青々と茂っているのが分かろう?
人々は笑顔を見せ、平穏に暮らす。我が神がいったい何をしたと言うのだ。」
私たちはただここで平和に暮らしていただけ。
日々の生活は多少苦しくとも、家族が健康で幸せであるならば多くは望まないと皆が言う。
家畜の牛や羊を育て、子供達は家の手伝いをしながら友と遊ぶ。
日が暮れれば仕事をやめ、帰路について家族と今日一日あった事を話し合う。
そんな暮らしをしながらこの地に伝わる神々に祈りを捧げ、そして恩寵を受ける。
それの何がいけなかったのか。
「仕方あるまい。これほどまでに清らかで力の強い巫女はいないというのに…。」
喉元に突きつけられた剣に力がこもる。
「行くぞ。…邪神の教徒は全て滅した。」
虚ろに開かれた瞳は上を見上げ、一筋ばかり涙を流していた。
力の抜けた四肢は石の床に投げ出され、もう二度と動くことはない。
それを見下ろすように、神の姿を写した天窓のガラス細工だけが美しく光っていた。
…兄様、兄様。
私たちが信じた神は邪神だったのですか?
私が信じた神は邪神だったのですか?
僅かな収穫と人々の祈りを捧げ、ほんの少しの恩寵を賜ることは罪だったのですか?
兄様、兄様…。
私に兄様の顔を見せてください。
あなたは私を残して何処へ行ってしまわれたのですか?