鏡子と飛鳥と文学の先生
親友との待ち合わせ場所の喫茶店で、虚ろな目をして鏡子はアイスをひと匙すくっていた。
ひとくち頬張るとこめかみから脳にかけて激痛が走る。これがなければアイスを食べた気にならないと、鏡子は躊躇うことなくもうひと匙。ついついアイスの塊を机の上に置いた原稿用紙の上に不注意で落としてしまい、じわりと汚す。
慌てることなく鏡子はアイスの塊を匙ですくうと汚れた原稿用紙を丸め、テーブルの脇へと手を払ってどける。紙の行く先など鏡子は興味がなかったし。紙の塊はころころと机の上を転がりながら鏡子の足元へと落下して、丸まった原稿用紙から薄っすらとインクの文字が裏返って見えていた。
小さな喫茶店は町の片隅ににわかに出来たモダンな造りの一軒家であった。厨房の奥では店長が暇そうな顔をして事務的に食器を洗っていた。
約束の時間を告げる店内の振り子時計。時間に厳しい性格の飛鳥を待てども現れないことに、鏡子は一切文句を垂れる様子は無い。むしろ待っている時間を楽しむかのようだった。
髪の毛先をいじりながら机に肘ついて、のんびりとまだ姿を見せぬ相手を待った。これでだめなら仕方がない。行動に移しただけでも、自分にとっては評価出来ることじゃないかと、一人で自分をほめてアイスをひと匙口にした。口の内側にアイスと鉄製のさじの冷たさがキンと伝わる。さっきの激痛とは違う快感に浮かれつつ、鏡子はアイスの山を匙でなぞった。
「ごめん!3分遅れた?」
何分遅れようが鏡子にとって飛鳥がここに来てくれたことが嬉しかった。木製の扉の音がやかましく店内に響く。給仕の「いらっしゃいませ」の声さえ聞こえない。
息を切らせながら飛鳥は鏡子のテーブルに向かい、対面して腰掛けると、鏡子が口にしていたものと同じアイスを給仕に頼んだ。頬を赤らめて肩で息をする飛鳥に対して、鏡子の方はのんびりとした構えだった。半ば室内の暖かさで溶けて形を成さないアイスだけが、マイペースに流れる時間を表現していた。
「飛鳥、どうだった?」
「結論から言うと、ダメでした!えへへ」
「ちっとは悔しがったら!?骨折って、ここまで来たんだぞ」
鏡子がドンと握った拳で机を叩くと、鉄の匙がバウンドしてガラスの食器に当たる。鏡子は押し込めていた感情をついつい露にしてしまったことを即座に反省したが、飛鳥は鏡子の乱心をさほど気にしなかった。空気を読んでか、それとも偶然のタイミングか、二人が口をつぐんだ間に給仕が飛鳥のアイスを持ってきた。和風と洋風を取り入れた白いエプロンが眩しい。
「アイスクリン!」
飛鳥は匙でざっくりとアイスをすくうと、口に入れると同時に両目をつぶって黙り込んだ。一方、鏡子は俯いたまま、飛鳥を直視できない状態のまま固まっていた。
「鏡子、落ち着いて」
友の声に救われて、鏡子は頷く。
安心した飛鳥は、目を輝かせながら話し出した。
「えっとですね。まず、ご挨拶にと羊羹を持って先生のところへ行くや否や、『わたしは弟子を取らない主義でしてね』とやんわりと断られました。でも、そこでのこのこと後ずさりするわたしではありません!『10分!いや、3分でいいので、わたしの作品を読んで頂けないでしょうか?』と頼みました」
「へえ。そして?」
「すると、先生はわたしを招き入れてくれたんです!やったね」
「やったねって……。飛鳥、それが目的じゃないでしょ」
「そうでした。でね、先生はわたしが差し出した原稿を丁寧に、ゆっくりと、そして真剣に読んでくれたんです。井草の香り漂う、静かな客間。まるでわたしの鼓動が響き渡りそうなぐらいの静けさなんです」
飛鳥が熱を込めてしゃべればしゃべるほど、アイスは自らの体を崩してゆく。身を削ることをよしとした潔ささえ感じられた。一方、鏡子の食器にはアイスのかけらなど見当たらない。
「先生は原稿用紙を置いて、このように語りました。『もし、文学で自分の人生を悩ませる覚悟があなたにあるのなら、物書きを続けるのがよいだろう。もし、ないのなら文学はあなたの人生を楽しむために他所へとって置くべきだろう』と。なんだか、背筋に電気が走る心持ちだったです!」
「そうなんだ。いいなあ……飛鳥は。ずるいよ」
空になったガラスの食器の中を匙でかき回しながら、鏡子は飛鳥の話を耳に焼き付けていた。
自分自身の結果はどうなんだろうと、鏡子は自分の胸の中できょう起こったことを繰り返す。あまり思い出したくは無い。思い出すと切なくなる。その結果は足元にある鏡子が丸めた原稿用紙が物語っているのだから。鏡子は飛鳥の話に嫉妬して、思わず自らの足で丸まった原稿用紙を踏み潰した。
陰鬱な気持ちの鏡子とは裏腹に、飛鳥は単なるバニラアイスをまるでこの世で一番の食べ物であるかのように、寒い季節に桜が咲くくらいの笑みを浮かべていた。
「先生は素敵です。丁度、3分きっかりでわたしの書いた作品を読んでくれたんだよ」
「……え?」
「え?って……。だって、だめ?」
「じゃないと、思うよ」
真面目な飛鳥は鏡子がどうでもいいと感じることに喜びを感じる。鏡子は飛鳥がアイスを食べ終わるのを見て、次なる予定を相談した。
「わたしは帰るよ。だって、書くこととずっと付き合ってゆきたいからね。先生の教えだし」
せっかくのチャンス、逃がしてはいけないから。名立たる文学の先生たちと出会い、自分の書いた作品を読んでもらい、あわよくば弟子入りという千載一遇のチャンスをみすみす手放すつもりはない。
だから、まだ帰らない……と。揺るがぬ決意を示すように、飛鳥はチンと匙を置いた。
「でも、きょうの出来事は一生忘れない。鏡子もきっと、わたしと同じ気持ちだよね」
「……うん」
消えてしまったアイスクリームの器を匙で掻き回している鏡子の気を引こうと、飛鳥は手持ちのバッグから一冊の文庫本をわざとゆっくりと取り出した。鏡子は飛鳥の行動に目を丸くして、両手を付いて立ち上がり、飛鳥の名前を呼んだ。
「まあまあ。実は……先生からサインを」
「ちょ、ちょっと!それはご法度……」
文庫本を鏡子の目の前で飛鳥はばっと開くが、サインどころか文字一つ何も書かれていない中表紙が広がっていた。鏡子は寿命が縮まる思いをしたのちに、ドンと握った拳で机を叩き、安堵のため息をついていた。
「いくらなんでも先生にこの本見せちゃいけないよね!」
「もう!」
「でも、未来の世界で『文豪』と呼ばれる人に出会えたこと、ちょっとした幸せじゃん!!」
飛鳥の声が鏡子には心地よく響いた。まるで自分がもやもやとわだかまりを残してたことを代弁するかのような気持ちよさ。はあ……と、息を上げた飛鳥の顔を一生忘れまいと鏡子は誓った。
胸にそっと飛鳥の声をしまい、鏡子は席を立ち、コツコツと足音を鳴らして店の玄関へと向かう。飛鳥は鏡子を黙って見送っていた。
「じゃあね、飛鳥。もう一度、ちょっと弟子入りのお願い行ってくる。一週間後のこの時間に会おうよ。もし、弟子入りがだめなら一緒に帰ろ。人生諦めが肝心」
「頑張って気に入られてね。鏡子の本が図書館に並ぶのを待ってるから。店長!百年後までお願い!」
飛鳥は厨房奥へと声を飛ばすと、側でその光景を見ていた給仕がちいさく頷いて、鏡子が落とした紙の塊を拾っていた。
鏡子は玄関の扉を開き飛び出して店内の方へ振り向くと、残された飛鳥が大きく手を振っているのが見えた。扉を閉めるにつれて飛鳥の姿が遠くなる気がしたが、店を離れると喫茶店の建物が霞にかかったように姿が薄くなり、やがてまるで何もなかったように消え去った。喫茶店の跡を振り返る鏡子の目の前を品の良い婦人が乗った人力車が横切り視界をさえぎっていった。
鏡子は「飛鳥のことだから、きっちり一週間後のこの時間にやってくるんだろうな」と思いつつ、明治の世で暮らす覚悟をした。飛鳥が置いていった文庫本の作者に会うために。
おしまい。