雨蛙
ランドセルを置いたヒロシは、自転車の籠にプラスチックの飼育ケースを入れ、右手に虫取り網を持ったまま自転車のハンドルを握りしめて家を出た。
梅雨が始まってから一週間降り続いた雨がようやくやんだ。
ヒロシは嬉しかった。やっと外で遊べる。
空は曇っていた。雨の匂いがまだ残っている。このまま晴れてくれるといいのになとヒロシは空を見上げた。
なかよしの友だちの家へ寄ってチャイムを押してみたが、誰も出てこない。ヒロシはしかたなく一人で行くことにした。
一軒家が並ぶ住宅街のきつい坂を越え、バス通りの道を渡り、崖沿いの未舗装の坂道をくだった。
坂を降りたところに、藪に囲まれた用水池がある。
その池のなかには、透明なエビやヤゴがたくさんいて、網ですくうとおもしろいほどに獲れた。だが、ヒロシはこの用水池にはもう入りたくなかった。
先月、教頭先生が全校朝礼の時にこの池で遊んではいけないと言った。教頭先生によれば、破傷風菌という恐ろしいばい菌が池のなかにたくさんいて、それが体へ入ると、体中が腐って三日で死んでしまうのだそうだ。
この話を聞いた時、ヒロシは青ざめた。
朝礼の前日、用水池で遊んだばかりだった。
倒木が水面に浮かんでいて、ちょうど橋のように池の両側にかかっている。ヒロシはこの倒木の上を歩き、網で池のなかをすくって遊ぶのが好きだった。
いつものように倒木の上からエビを捕っていると、ふとした拍子に足を滑らせてじゃぼんと落ちてしまった。とっさに倒木にしがみついたのでおぼれることはなかったのだが、胸から足の先まで池の水にどっぷりつかってしまった。
三日で死ぬ。
頭がくらくらした。
不安でしかたなかったが、誰にも言えない。池に落ちたなどと言えば、こっぴどく叱られる。
ヒロシはどきどきしながら過ごした。手のひらや足の指を見ては腐り始めていないかどうか確かめた。
池に落ちて四日目の朝、目が覚めたヒロシは助かったと胸をなでおろした。どこも腐っていない。もうあの池には入るまいと誓った。
用水池の隣には広い田んぼがならんでいる。
ヒロシはあたりの様子を伺いながら、田んぼの向かい側の崖の下に自転車を止めた。
この崖には蛇が時々あらわれた。青大将だ。
蛇は苦手だった。
いくら捕まえようとしても蛇は身をくねらせて逃げてしまう。友だちは頭の後ろを押さえてやれば青大将は逃げないと言って実演してみせてくれたのだが、ヒロシは何度やってみてもうまくできなかった。
さいわい、蛇はいなかった。
ヒロシは飼育ケースを肩にかけ、虫取り網を持って田んぼのあぜ道へ入った。
一週間こなかったうちに稲はぐんぐん伸びて、ヒロシの膝の上までになっていた。田んぼは満々と水をたたえている。青い稲の匂いが鼻をくすぐる。あぜ道を歩きながら、田んぼのなかを注意深く見つめた。
田んぼをぐるりと一周してみたのだが、なにも見当たらない。ヒロシはザリガニを捕まえて飼いたかった。
ザリガニの脱皮は神秘的だ。
ザリガニは夜中に脱皮する。
朝、水槽を覗くと、からっぽの皮があり、そのとなりで薄い色をしたザリガニがはさみを動かしている。きれいに脱皮した抜け殻を見るたびに、ヒロシは「やった! 」と感動を覚えた。脱皮したザリガニは日毎に濃い色になり、やがてまた脱皮する。
たまに脱皮に失敗するザリガニがいる。
古い殻を脱ぎ捨てられなくて、古い殻をまとったまま死んでしまうのだ。脱皮は命がけだった。生き物の命は不思議だった。
ヒロシは田んぼをもう一周した。
やはり、なにも見つけられない。
ザリガニの穴とおぼしきところへ網を差し入れてゆすってみたが、なにも出てこなかった。
三周、四周して、なにも獲れないとがっかりした。今日はあきらめて家へ帰るしかなさそうだ。
ヒロシは田んぼと用水池の間にある短い雑草の生えた斜面に腰掛け、去年この近くで捕まえた牛蛙をぼんやり思い出した。
図鑑で牛蛙のことは知っていたが、実物を見るのははじめてだった。ずんぐりむっくりとした図体に似合わず、動きはすばやかった。クラスメイトの何人かで牛蛙を追い込んで捕まえた。みんなで捕まえた生き物だから、教室で飼うことにした。
牛蛙はふてぶてしい面がまえをしている。しかもよく鳴いた。授業中でもテスト中でもかまわずに我が物顔で喉を鳴らした。牛蛙の声はよく響いた。
食欲も旺盛だった。
校庭で捕まえた虫やいろんな生き物を水槽へ入れると、牛蛙は片っ端から喰べてしまう。大きなかたつむりを食べたのには驚いた。かたつむりは殻ごといなくなっていた。ひとりぼっちではさびしいだろうからと田んぼで捕まえた赤蛙を水槽へ入れたところ、牛蛙はこれも食べてしまった。休憩時間に水槽を覗いたら、赤蛙の脚が牛蛙の口から伸びている。まるでパイプをくわえているようだ。牛蛙は赤蛙を丸呑みにしたのだった。なんでも食べてしまう牛蛙は怪物だった。
結局、夏休み前に田んぼへ帰すことにした。田んぼの中へ逃すと、牛蛙は飛び跳ねてあぜ道を越え、草むらへ消えていった。
もう一度牛蛙を見つけたらどうするだろう。
今度は捕まえたりしないと思う。
牛蛙を飼うのはなんだかおっかない。
ふと、なにかが緑の斜面を動いた。
ヒロシはあたりを見渡した。
小さな雨蛙だった。
雨蛙は愛らしい瞳をくりくりさせる。あごの下をふくらませてはあたりを見回す。
緑の斜面がいっせいに動いたように見えた。無数の雨蛙が斜面をはいあがろうとしていた。
「田んぼのおたまじゃくしが全部雨蛙になったんだ」
ヒロシは嬉しくなった。
やっと遊び相手が見つかった。
虫取り網はいらなかった。
手当たり次第、素手で捕まえては飼育ケースへ放り込んだ。ヒロシは夢中になって雨蛙を追いかけた。びっしょり汗をかいた。ほどなく飼育ケースはあざやかな黄緑色の雨蛙で埋まった。雨蛙はよく泡立てたしゃぼんの香りがした。
ヒロシは飼育ケースを持ち上げ、雨蛙たちを見た。みんなヒロシのものだった。雨蛙たちは思いおもいに手足を動かしている。
ヒロシは雨蛙を家の庭に放つところを想像した。
庭のあじさいの植え込みのあたりがいい。あじさいの花と雨蛙はよく似合う。あじさいにはかたつむりもやってくる。クレヨンで雨蛙とかたつむりとあじさいの絵を描こう。雨蛙は庭にずっといてくれるだろうか。それはむずかしいかな。雨蛙たちは散らばってどこかへ行ってしまうだろう。それでも小さな飼育ケースに閉じ込めておくよりは庭に放したほうがよさそうだ。何匹かは庭に残ってくれるかもしれない。
ヒロシはうきうきした。自転車にまたがり、大急ぎで家へ帰った。
雨蛙を庭に放そうとして、飼育ケースを見たヒロシは呆然とした。
雨蛙は全員、白いお腹を上へ向けて水に揺れていた。
死んだふりをしているのかもしれないと思い、飼育ケースをゆすってみたが、一匹も動かなかった。みんな窒息死してしまったのだ。
ヒロシはしょんぼりした。
雨蛙がかわいそうだった。
さっきまで元気に飛び跳ねていたのに、自分が殺してしまったのだ。
「ごめんなさい」
雨蛙たちにあやまった。
むなしかった。
心の中に穴が開いたようだった。
あじさいの植え込みのそばに穴を掘り、雨蛙の墓を作った。雨蛙たちを埋め、その上に土をかき集めてほんの小さな塚を作った。ヒロシは手を合わせて、雨蛙たちが無事に永遠へたどり着くように祈った。
ヒロシは二度と田んぼへ行かなかった。




