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第九章 静かな波紋


春は、気づかぬうちに深まっていた。


王城の石壁は相変わらず冷ややかであるはずなのに、東翼だけはどこか空気が違う。


窓辺に置かれた小さな花瓶の花も、廊下に漂う薬草の匂いも、すべてが穏やかに混じり合い、そこに確かな生活の気配を宿していた。


ルーカスは政務の合間、無意識のように視線を東の塔へ向ける自分に気づいていた。


以前ならば、王としての責務だけが一日の軸だったが今は違う。


終われば向かう場所がある。

扉を開けば、名を呼んでくれる声がある。


それだけのことで、足取りがわずかに軽くなるなど、かつての彼は想像もしなかっただろう。


その日もまた、政務を終えた彼は書簡を閉じると、侍従の制止も待たずに席を立った。


廊下を進むたび、衛兵たちが深く頭を垂れる。


王の足取りが、最近は決まって東翼へ向かうことを、誰もが知っている。


扉の前で一瞬だけ足を止める。


中からは、控えめな話し声が聞こえた。


「ありがとうございます。本当に助かりました」


アリアの声だった。


続いて、若い侍女の少し弾んだ声が返る。


「いいえ、こちらこそ……! お身体が良くなられて、本当に安心しました」


やがて扉が開き、侍女が出てくる。


ルーカスの姿を認めると、慌てて頭を下げた。


その頬はどこか赤い。


彼は短く頷き、部屋へ入る。


「……今のは」


問いかけると、アリアは振り返って微笑んだ。


「先日、転んでしまった方です。もう痛みはないと」


机の上には、焼き菓子がいくつか並んでいる。


「お礼にと、皆さんが」


その言葉に、彼はわずかに目を細めた。


城の者たちが、自発的に彼女へ贈り物をする。


それは義務でも命令でもない。純粋な好意だ。


「随分と慕われているな」


低く落ちた声に、彼女は困ったように首を振る。


「皆さんが優しいのです。侍女の方々も、衛兵の方々も……私のことを気遣ってくださって」


その瞳は本心からそう言っている。


ここで孤立していない。


それどころか、自然に受け入れられている。


ルーカスの胸に、静かな安堵が広がる。


彼の側に立つ者は、常に畏怖と緊張の視線に晒される、それが当然だった。


だが彼女は違う。


笑い、頭を下げ、穏やかに言葉を返す。


その姿が、城の空気を少しずつ変えている。


「嫌な思いはしていないか」


思わず口をついて出る。


アリアは不思議そうに瞬きをし、それからゆっくりと首を横に振った。


「いいえ。とても居心地が良いです」


その答えを聞き、彼の内側で何かが静かにほどけていく。


守ると決めたのは自分だ。


だが彼女が自らここに留まりたいと思っているのなら、それは何よりも強く誇らしい。


彼は歩み寄り、自然な動作で彼女の手を取った。


指先は温かい。


「陛下」


柔らかく呼ばれ、彼は眉を寄せる。


「二人きりの時は名前で、という話だったが」


彼女は少しだけ視線を揺らし、それから小さく息を吸う。


「……ルーカス」


その名が唇から零れた瞬間、胸がわずかに疼く。


王としてではなく、ひとりの男として呼ばれる感覚に、まだ慣れない。


それでも、その響きが欲しくて仕方がない。


「よくできた」


思わずそう呟くと、彼女はくすりと笑った。


「褒められることではありません」


「俺にとっては違う」


彼はそのまま彼女の手を引き、長椅子へと座らせる。


隣に腰を下ろすと、距離は自然に縮まる。


窓の外では、夕暮れがゆっくりと城を染めていた。


「ルーカスは……嬉しくありませんか」


不意に、彼女が尋ねる。


「何がだ」


「皆さんが、こうして受け入れてくださること」


彼は一瞬だけ言葉を探した。


王としてなら、答えは簡単だ。


城の秩序が乱れないのは良いことだ、と。


だが今、胸にある感情はそれではない。


「……嬉しい」


低く、率直に。


「お前が、この城で笑っていることが」


彼女は少し驚いたあとゆっくりと微笑んだ。


その表情を見た瞬間、彼は想いが強くなるのが自分でもわかった。


この笑みを守るためなら、何でもできると。


そのとき、扉の外で足音が止まった。


「陛下」


控えめな呼び声。


ルーカスはわずかに眉を寄せ、空気が変わる。


「何だ」


「西方より、報せが」


短い言葉だったが、その響きは軽くない。


彼は立ち上がりかけ、しかし一瞬だけアリアを見下ろす。


「すぐ戻る」


「はい」


彼の不安を見せまいとする微笑みに、胸がざわつく。


扉を開け、廊下へ出ると、侍従が一通の書簡を差し出した。


封蝋には見慣れぬ紋章。


開封し、目を通した瞬間、空気が冷えた。


“森の治癒師、王城に在りとの報告あり”


そしてその下に記された名。


若き勇者の名が、確かにあった。


書簡を握る手に、力がこもる。


遠くで芽吹いた小さな波紋が、やがてここへ届く。


ルーカスは静かに息を吐き、東翼の扉を振り返った。


あの部屋の中には、春がある。


温かく優しい春が。


だがその温もりに触れようとする存在がいるのなら、春の空気を曇らせる者がいるのなら___


彼の瞳に、かすかな焔が灯る。


守ると決めた。


それは今もこの先も変わらない。


むしろ、以前よりもずっと強く、深く。


---


書簡を閉じたあとも、ルーカスはしばらく動かなかった。


薄く差し込む夕陽が廊下の石床を朱に染め、その上に落ちる影が、いつもより長く見える。


西方の森。

若き勇者。

森の治癒師が王城に在るという報告。


焦燥は、表に出さない。


王である前に、彼女の前では――ただのルーカスでありたいと、そう願ってしまう自分がいる。


深く息を整え、扉を押し開ける。


部屋の中は、先ほどと変わらぬ穏やかさに満ちていた。


夕暮れはさらに色を濃くし、窓辺の花弁を柔らかく染めている。


アリアは小さな燭台に火を灯しているところだった。


その仕草が、あまりにも静かで、あまりにも日常で。


胸の奥のざわめきが、ほんのわずかに鎮まる。


「おかえりなさい、ルーカス」


振り向いた彼女の声は、さきほどよりもさらに柔らかい。


その一言が、どれほど救いになるか、彼女は知らないだろう。


「……ああ」


彼は歩み寄り、自然にその手から燭台を受け取った。


火が揺れる。

影も揺れる。


「何かありましたか」


問いは静かだが、彼女は聡い。


わずかな空気の変化を感じ取っている。


ルーカスは一瞬だけ視線を落とし、それから彼女を見つめた。


嘘はつきたくない、だが不安も与えたくない。


「小さな報せだ。すぐに片付く」


それは半分本当で、半分は願いだった。


アリアはそれ以上追及せず、ただ小さく頷く。


「お忙しいですね、無理はなさらないでくださいね」


ただ優しく労わる響きだけがある。


その声音が胸に沁みる。


「……お前がここで笑っていてくれるなら、それでいい」


思わず零れた本音。


彼はゆっくりと彼女の頬に触れる。


指先に伝わる体温が、確かな現実を伝えてくる。


短い相槌の裏に、深い安堵があることを、彼女はまだ知らない。


沈黙が落ちる。


だがそれは気まずさではなく、穏やかな静寂だった。


燭火が揺れ、窓の外で風が枝を鳴らす。


やがて彼は、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。


抵抗はない。彼女は素直に身を預ける。


その重みが、信頼そのもののようで。


「ルーカス?」


「少しだけ、こうしていろ」


声は低く、わずかに掠れていた。


王としてではなく、ひとりの男としての弱さが滲む。


彼女は何も問わず、ただ彼の胸に頬を寄せる。


鼓動が重なり温もりが混じる。


外では、目に見えない波が確かに広がっている。


勇者の名が、森の噂が、やがてここへ辿り着くかもしれない。


だが今、この部屋の中には春がある。


柔らかな光と、穏やかな呼吸と、触れ合う体温。


「離れないでくださいね」


不意に、彼女が小さく呟いた。


冗談めかした響きのようで。どこか、願いのような。


彼はその言葉に、はっきりと答える。


「離さない」


迷いはない。


たとえ嵐が来ようとも。


彼は彼女の髪に口づける。


甘さは静かに、深く、染み込むように。


窓の外で夜が降りていく。


城の石壁は再び冷たさを取り戻すが、この部屋だけは違う。


揺れる灯りの中で、二人の影がひとつに重なる。


嵐はまだ遠い。


けれど確実に近づいている。


それでも今は――


この温もりだけを、確かめるようにルーカスは静かに目を閉じた。



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