第八章 春の灯り
東翼の朝は、やわらかな光とともに訪れる。
高窓から差し込む陽射しが、白いカーテンを透かし、部屋を淡く染めていた。
アリアはゆっくりと目を開け、その光に包まれながら、ここが王城であることを思い出す。
けれどもう、胸が強張ることはない。
軽い足音とともに、控えめなノックが響いた。
「起きているか」
低く落ち着いた声に、自然と微笑みが浮かぶ。
「はい、陛下」
扉が開き、ルーカスが入ってくる。
朝の光を背負ったその姿は凛然としているが、彼の視線は王のものではない。
まっすぐに、ただ彼女だけを見ている。
彼は迷いなく歩み寄り、そっと手を伸ばした。
指先が、額に残る薄い傷跡に触れる。
「痛まないか」
「もう大丈夫です」
そう答えると、彼の指がわずかに動く。
確かめるように、惜しむように。
触れられることに、今はもう緊張しない。
その温度が、ここにいる証のように思える。
「今日は風が強い。冷えるかもしれん」
「では、少し厚手の外套をお借りします」
彼は頷きながらも、どこか納得していない顔をしている。
その視線に気づき、アリアは少しだけ眉を下げた。
「ご心配をおかけしてしまいますね」
「心配するなと言う方が無理だ」
低く返される声は、呆れにも似ているが、その奥には隠しきれない優しさがある。
医療顧問という立場を賜りマルグリットに教わった薬草等の治療の知識や聖女の治癒能力で訪れる人達の治療をする。
午前の治療室には、侍女や衛兵が代わる代わる訪れた。
怪我はどれも大事ではない。
けれど皆、どこか嬉しそうに礼を述べる。
「いつもありがとうございます」
「無理をなさらないでくださいね」
声をかけられるたび、アリアは戸惑いながら微笑んだ。
ある侍女は温かな茶を差し出し、別の者は季節の花を一輪、机に置いていく。
「お身体に触れるお仕事ですもの。冷えますでしょう」
その言葉に胸が温かくなる。
城は冷たい場所だと思っていた。
以前いた国では聖女のくせに治癒能力を使っても治療の効果が出るのが遅く役に立たないと言われていた。
けれど、ここで働く人々は皆、優しい。
午後、治療を終えて部屋へ戻ると、廊下の先にルーカスの姿があった。
壁にもたれ、腕を組み、静かに待っている。
「見ていたのですか」
「偶然だ」
そう言いながら、彼の視線はわずかに柔らいでいる。
「皆さん、とても良くしてくださいます」
アリアが素直にそう告げると、彼は一瞬、言葉を探すように沈黙した。
「そうか」
それだけの返事だったが、声はどこか低く、満ちている。
「侍女の方が茶を淹れてくださったり、今日は衛兵の方が花を……」
嬉しそうに語る彼女を見つめながら、ルーカスは静かに思う。
この城で、彼女が孤立していない。
恐れられる王の側にいながら、拒まれていない。
それが、思っていた以上に胸を満たした。
「嫌な思いはしていないか」
問いは短い。
「いいえ。皆さん、本当に優しいです」
少しだけ照れたように笑うその姿を見て、彼は胸の奥がほどけるのを感じた。
城に春を連れてきたのは、彼女かもしれない。
やがて、二人は庭へと足を向けた。
淡い陽射しの中、並んで歩く。遠くで衛兵が距離を保ち、侍女が静かに会釈する。
アリアはその一人ひとりに、丁寧に微笑みを返した。
その仕草を、ルーカスは横目で追う。
王の隣に立ちながら、決して気取らず、誰に対しても変わらない。
「陛下」
ふと呼ばれ、彼は視線を落とす。
「二人きりの時は……お名前でお呼びしてもよろしいですか」
風が、ゆるやかに吹き抜けた。
アリアの提案に驚き言葉が詰まる。
ルーカスが黙ってしまったことで失礼な事を言ってしまったかとアリアが早口で話す。
「その……陛下とお呼びすると、少し遠く感じてしまって」
彼は立ち止まった。
遠い。
その言葉が胸に落ちる。
「二人きりの時だけで構いませんので、その」
不安そうに見上げる瞳を、しばらく見つめてから、彼はゆっくりと口を開いた。
「呼んでみろ」
短く、低く。
「……ルーカス」
名を口にした瞬間、彼の瞳が深く揺れる。
「もう一度」
「ルーカス」
今度は、はっきりと。
彼は堪えきれないように息を吐き、彼女の手を引いた。
距離が縮まり、鼓動が近づく。
「俺と2人だけの時は、好きに呼んでいい」
「はい、ルーカス」
微笑みながら応えると、彼の手が強く絡んだ。
歩き出す足取りが、どこか軽い。
夕暮れ、東翼の部屋に灯りがともる。
淡く染まる雲を眺めながら、アリアは机に向かっていた。
扉が静かに開く。
振り返ると、そこに彼がいる。
「おかえりなさい……ルーカス」
彼は一瞬だけ目を細め、そのまま近づく。
腕が伸び、そっと包まれる。
強くもなく、弱くもなく、ただ離さないという意思だけがある抱擁。
「今日は、どうだった」
胸元で響く声に、アリアは安心して身体を預ける。
「皆さんが優しくて、温かいのだと感じています」
「温かい?」
「あなたの城で働く方々だな、と」
その言葉に、彼の腕がわずかに強まる。
「……そうか」
それ以上は言わない。
だが胸の内は、確かに満たされていた。
城は冷たい場所ではない。
彼女が笑い、名を呼び、人々が穏やかに接するその光景が、確かにここにある。
「ここは本当に温かい」
彼女が小さく呟く。
「お前がいるからだ」
自然に出た言葉だった。
彼女は目を閉じ、彼の胸に頬を寄せる。
鼓動が重なり、夜が静かに降りてくる。
今はただ、名を呼び合える距離の中で、二人の時間がゆっくりと溶け合っていた。
その温もりが、失いたくないものへと変わっていくことを、まだ誰も知らない。




