第六章 奪還の使者
春の森は、まだ朝の名残を抱いていた。
やわらかな陽が梢を透かし、芽吹いたばかりの若葉が淡く光を返している。
小屋の前では、干した薬草を裏返すアリアの指先が、慣れた手つきで葉の状態を確かめていた。
乾きすぎないように、けれど湿り気は残さぬように。
少し離れた場所で、その様子を眺めている男がいる。
ルーカス――紅焔の覇王と畏れられるその人は、今はただ、ひとりの少女の背中を静かに目で追っていた。
森へ通う理由を、彼はもう探さない。
ここに来れば、胸の奥に灯る火が穏やかに揺れる、それで十分だった。
だが、その穏やかさは、唐突に裂かれる。
遠くから響く馬蹄の音は、規律正しく、数も多い。
森の呼吸とは合わない硬質な響きを伴っていた。
小鳥が一斉に飛び立ち、風の流れがわずかに変わる。
アリアが手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
木立の向こうに現れた一団の旗が、陽を受けてはためく。
その紋章を目にした瞬間、彼女の頬から色が引いた。
「……あの紋章は」
それは、彼女がかつて仕え、そして放り出された国の印だった。
先頭の男が進める馬は鎧は磨き上げられ、それなりの地位を示す。
声は礼節を装っているが、目の奥には計算の色が宿っている。
「アリア・エレフィーノ殿。ようやくお見つけいたしました」
名を呼ばれたとき、彼女の肩がわずかに震えた。
その名は、かつて“期待外れ”の烙印とともに囁かれたものだ。
「我が王国は、あなたの治癒の才を正式に再評価いたします。王命により、帰還を要請いたします」
再評価。
その言葉が森の空気を濁らせる。
値踏みし、切り捨て、必要になれば拾い上げる――その傲慢さが、聞く者の胸を冷やした。
ルーカスはゆっくりと前に出る。
土を踏む靴音は小さいが、空気の密度が変わる。
「評価、だと?」
低い声音は、怒鳴りもせず、ただ静かに落ちた。
だがそれだけで、兵の何人かが無意識に息を呑む。
使者は視線を向けるが、表情を崩さない。
「これは我が国の内政問題にございます。どうか干渉はお控えください」
干渉。
その言葉に、ルーカスの胸奥で炎がわずかに揺れた。
干渉ではない、彼にとっては、もう他人事ではない。
だが彼が口を開くより先に、アリアが一歩前へ出た。
「私は戻りません」
声は震えていない。
森の風に紛れず、はっきりと届く。
「私は今ここで、自分の意志で生きているのです。戻りたいとも戻る気もありません」
その言葉に、ルーカスの心が静かに熱を帯びる。
“誰かのために”ではなく、“自分で選んだ”という響き。それが何よりも尊い。
しかし使者の目が冷える。
「拒否は認められておりません。あなたは国家の資産です」
資産。
その響きが彼女を物のように扱うことを、ルーカスは許せなかった。
兵が進み出る。
森の土を踏む音が近づき、金属の擦れる気配が張りつめた空気を裂く。
ルーカスが動こうとした瞬間。
兵の一人が彼女の腕を掴み、引き寄せようとする。
振り払おうとした彼女の足が、石段の縁にかかった。
まるで世界がスローモーションになったように、時間が歪んで見える。
アリアの身体が後ろへ傾き、白い衣がひるがえる
そして次の瞬間、鈍い衝撃音が森に落ちた。
石に打ちつけられた額から、赤が溢れる。
その色が、やけに鮮やかだった。
ルーカスの世界から、音が消える。
駆け寄り、彼女を抱き上げたとき、腕の中の軽さが現実を突きつけた。
温もりはある、だが意識が遠い。
血が彼の指を伝う。
その温かさが、胸の奥で何かを引き裂いた。
怒りが爆ぜかける。
森の空気が震え、兵の膝が軋む。
しかし彼はそれを押し留める。
腕の中の小さな呼吸が、彼を覇王ではなく“ひとりの男”に引き戻す。
「……アリア」
名を呼ぶ声は、驚くほど低く、震えていた。
かすかに瞼が動く。
その微細な反応に、胸が締めつけられる。
「俺の側にいてくれ」
それは王の命令でも、覇王の宣言でもない。
ただ失う恐怖に縋る声だった。
「誰にも渡さない。あの国にも……あの男にも」
かつて彼女に聖女の名を与え、身勝手に居場所を奪った婚約者の存在が脳裏をよぎる。
そして今さら奪い返そうとする国への嫌悪が、炎に油を注ぐ。
「お前は……俺が守る」
独占したい訳ではない、これは誓いだ。
そのとき、アリアの指が、弱く彼の衣を掴んだ。
掠れた声が、ほとんど息と変わらぬほどに零れる。
「……あなたのそばに、いたい」
その一言で、何かが決定的に変わる。
それが彼女の願いなら、その願いを必ず叶える。
ルーカスはゆっくりと立ち上がり、使者を見据えた。
瞳の奥に宿る紅は、もはや隠されていない。
「二度と現れるな」
静かな宣告だったが、その背後に揺れる魔力が森を震わせる。
兵たちは視線を逸らし、使者は言葉を失う。
ルーカスの覇気に馬が足踏みをする音が聞こえる。
「要件はお伝えしました。また改めて迎えに参ります」
ルーカスはそっとアリアを抱き上げた。
胸に抱く体温の重みが、決意を固めていく。
アリアを、目の届く場所へ。
誰の手も届かぬ場所へ。
王城へ――。
春の森に残ったのは、踏み荒らされた足跡と、まだ乾かぬ血の色だけだった。
そしてその赤は、やがて王都をも巻き込む嵐の予兆となる。
勇者たちが動き出す、その少し前の静寂だった。




