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第五章 近づく距離、ほどける温度


森に通う頻度が増えたことに、最初に気づいたのは側近だった。


「辺境視察が随分と念入りですね」


遠回しな指摘にも、ルーカスは表情を変えない。


「医療は兵站に直結する」


それは事実だ。嘘ではない。


だが森へ向かう馬の足取りが、以前よりも軽いことを、彼自身は自覚していなかった。


小屋の扉を叩くと、内側から軽い足音が近づく。


「はい、今開けます」


扉が開き、アリアが顔を出す。


冬よりも柔らかな色を帯びた空気の中で、彼女の頬もわずかに血色を増していた。


「また来てくださったんですね」


ふんわりと微笑む声音。


ルーカスは小さく頷く。


「報告を聞きに来た」


それだけ言いながら、視線は自然と彼女の手元を追っている。


細い指先に小さな切り傷があるのを見つけた瞬間、眉がわずかに寄った。


「それはどうした」


「え?」


アリアは自分の指を見て、ああ、と笑う。


「乾燥させた枝が思いのほか硬くて」


軽く言うが、赤くなった傷口は思ったより深い。


ルーカスは無言で距離を詰め、彼女の手を取った。温度が伝わる。


アリアが一瞬だけ目を見開く。


「王自ら、そんな……」


「動くな」


短く告げると、彼は棚から消毒用の酒精を取り、布で丁寧に拭った。


指先に触れるたび、彼女の呼吸がわずかに乱れる。


「ちゃんと手当しないと治りが遅れるから、な」


今度は彼の方が言う番だった。


アリアは少し驚いたように瞬き、それからくすりと笑う。


「それ、この前わたしが言った言葉ですよ」


「そうか」


自覚はなかった。


ただ、当然のように口をついて出た。


包帯を巻き終え、手を離すと、指先に残る温もりが名残惜しいと感じる。


その感覚に気づき、ルーカスは小さく息を整えた。



勝手に、守ると決めた。


今はただ病に蝕まれていく幼馴染の手を握るしか出来なかった。


高校生で、子供で無力だった。


好き子を助けられなかった。


仲村亮平じゃない。



今ここにいる彼女の些細な変化を追い、声の調子の違いに耳を澄ませ、疲れていないかと無意識に探ってしまう。



守りたい。

笑っていて欲しい。

今度はそれだけだ。


---


小屋の裏手には、まだ冬の名残を含んだ冷たい空気が漂っていた。


積み上げられた薪の束を前に、アリアは袖を軽くまくり上げる。


「それは俺がやる」


自然に出た声だった。


アリアは振り向き、少しだけ困ったように笑う。


「いつも助けていただいてばかりでは、申し訳ありませんから」


そう言いながらも、彼女の視線は薪とルーカスの間を迷っている。


自分でやるべきか、甘えるべきか、その境目を測っているようだった。


ルーカスは彼女の迷いを見て、小さく息を吐く。


「甘えろ」


短い言葉が、思ったよりも柔らかく落ちる。


森を抜ける風が、ふたりの間をすり抜ける。


鳥の羽ばたきが遠くで響く。


「……命令ですか?」


からかうようでいて、どこか探るような声音。


ルーカスは薪を抱え上げながら、肩越しに答える。


「助言だ。怪我をしては困る」


それ以上の説明はしない。


だが本当は、怪我をしてほしくない理由が自分でも少し多いことを、彼は自覚していた。


小屋へ戻ると、夕陽が窓から差し込み、室内を柔らかく染めている。


棚に並ぶ薬草の影が長く伸び、空気に温もりが宿る。


並んで作業を始めると、距離は自然と近づいた。


肩が触れそうになり、アリアが一瞬だけ息を止める。


重なった視線が思っていたよりもずっと近い。


アリアの頬がみるみる赤く染まり、彼女は慌てたように手で顔を仰いだ。


「すみません、もう春ですね、少し暑いくらいです」


春の森は、そこまで暖かくない。


そのぎこちない言い訳に、ルーカスはわずかに目を細める。


また熱を逃がすように、手でぱたぱたと仰いでいた姿が、ふと重なる。


だが今は、その記憶に沈まない。


目の前にいるのは、アリアだ。


赤くなった頬を必死に隠そうとする、照れ屋な少女。


「落ち着け」


低く告げると、彼女はますます慌てる。


「お、落ち着いています」


否定が少し早い。


その反応が可笑しくて、喉の奥がわずかに緩む。


戦場では決して浮かばない感覚だった。


作業を終えたころには、空は群青に変わっていた。


小屋の外へ出ると、冷えた空気が頬を撫でる。


「今日はこれで戻る」


そう告げると、アリアは頷きながらも、どこか言い淀むような気配を見せる。


「……あの」


ルーカスが振り返る。


彼女は少し視線を落とし、それから静かに言った。


「無理は、なさらないでくださいね」


柔らかいが、はっきりとした声。


その言葉は、心の奥にすとんと落ちた。


守ると決めたはずなのに、いつの間にか心配されている。


それが、妙に心地よい。


「お前がいるなら、無茶はしない」


軽く言ったつもりだったが、思ったよりも本音に近かった。


アリアはその意味を深く掘り下げることなく、ただ安堵したように微笑む。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥が静かに満たされた。


森を抜け、馬に乗る。


振り返れば、小屋の窓に灯りがともっていた。


小さな光だが、闇の中でははっきりと目に映る。


あの場所へ訪れる理由を、もう探す必要はない。


確信も、決意も、言葉にする必要はない。


ただ、あそこへ行きたい。


それだけで十分だった。


紅焔の覇王は、戦場では炎を纏う。


だが森へ向かうとき、その胸に灯るのは、燃え上がる炎ではなく、静かに温もる火だった。


そしてその火は、確実に彼を甘く変えていく。



---



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