第四章 静かに重なる影
辺境の森は、春の気配を含みはじめていた。
雪解け水が細い流れとなって土を潤し、冷たさの奥にやわらかな匂いが混じっている。
視察を終えたはずのルーカスは、理由を明確に言葉にしないまま、再び森の小屋を訪れていた。
表向きは、近隣の民の健康状態、治療状況の確認。
王として不自然ではない名目。
だが本当のところ、自分が何を確かめたいのかは分かっている。
小屋の扉は半開きだった。
中では、紙をめくる音がする。
ルーカスが足を止めたとき、視界の奥にその仕草が映った。
机に肘をつき、資料に目を落としたまま、右手の人差し指で右のこめかみを、規則正しく、軽く叩いている。
考え事をするときの癖だ。
乾いた紙の匂い。
午後の淡い光。
静かな室内。
その小さな動きだけが、やけに鮮明に目に焼きついた。
――テスト前は、いつもそうだった。
机に向かい、難しい数式を前にして、同じように右のこめかみを指で叩いていた少女がいた。
焦ると早くなり、理解すると止まる。
そのリズムまで、なぜか覚えている。
目の前のアリアは、資料の一行を追い、ふっと指を止めた。
理解したときの止まり方まで、似ている。
偶然だ、と心のどこかが言う。
人は考えるとき、似た仕草をするものだ。
だが、胸の奥の別の声は否定しない。
ただ、静かに揺れている。
「難しいか」
不意に声をかけると、アリアは顔を上げた。
驚きはしたが、慌てる様子はない。
「いえ。新しい配合を試そうかと思っていて」
そう言って、少しだけ困ったように笑う。
その笑みの奥に、負けず嫌いな光があるのを、ルーカスは見逃さなかった。
変わらないな、と思いかけて、思考を止める。
結論を出すのはまだ早い。
そう決めたのは、自分だ。
その日の午後、ルーカスは小屋の棚の修繕を手伝っていた。
王が木材を支えている姿は滑稽にも映るが、辺境では誰もそれを咎めない。
アリアが背伸びをして、乾燥させた薬草を上段へ移そうとする。
「危ない」
ぐらついた彼女に無意識に手を伸ばし、支えるように距離を詰めた瞬間、思いのほか顔が近づいた。
互いの息が触れそうな距離。
アリアの動きが止まる。
次の瞬間、頬がみるみる赤くなり、彼女は片手でぱたぱたと顔元をあおいだ。
「す、すみません、今日は暑いですね……」
視線を逸らしながら、必死に平静を装っている。
その仕草が、あまりにも自然で、あまりにも懐かしい。
――そんなに褒めないでよ。
かつて、何気なく褒めただけで、同じように顔を赤くして、手でぱたぱたと仰いでいた少女がいた。
今と同じように暑いわけでもないのに、熱をごまかすように。
目の前のアリアは、やがて落ち着きを取り戻し、何事もなかったように作業を続ける。
偶然だ。
照れたときに顔をあおぐなど、珍しくもない。
そう思うのに、胸の奥がざわめく。
否定しようとするほど、輪郭が濃くなっていく。
その数日後、辺境の巡回中に小さな魔獣と遭遇した。
大事には至らなかったが、ルーカスの腕に浅い裂傷が残った。
小屋を訪ねると、アリアはすぐに手当てを始める。
「この程度の傷、治療するほどでもない。」
しかしその手を止めない彼女は包帯を巻き終えたあと、少し眉を寄せた。
「ちゃんと手当しないと治りが遅れてしまいますから、ね?」
叱責ではない。
責める響きもない。
ただ、心配が滲む声。
まるで、こちらの無茶を前提にしたうえで、それでも放っておけないというような、柔らかな諭し方。
その言葉を聞いた瞬間、時間がわずかに歪んだ。
――無理しないで。ちゃんと処置しないと、あとで痛むんだから、ね?
優しさと、少しの苛立ちと、深い心配。
同じ温度だ。
ルーカスは彼女の横顔を見つめた。
顔立ちが違う。
髪も違う。
声も違う。
それでも。
ふとした仕草。
会話の間。
叱り方の柔らかさ。
理屈ではなく、身体が覚えている。
魂が伝えてくる。
胸の奥で、何かが静かに揃っていく。
しかし、口には出さない。
確かめる必要はないのかもしれない。
ただ、目の前で誰かを救おうとする姿がある。
それが、あの頃と同じ温度を持っている。
それだけで、十分なのかもしれない。
小屋を出るとき、森の風が少しだけ暖かくなっていた。
ルーカスは振り返らない。
だが、もう否定はしていなかった。
確信は静かに、形を取り始めている。
紅焔の覇王の胸の奥で。
消えないまま。
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森に陽が落ちるころ、小屋の中は橙色の光に包まれていた。
薬草を煎じる鍋から、ゆるやかに湯気が立ちのぼる。
乾いた葉の匂いと、土の匂い。
火のはぜる音が小さく響く。
ルーカスは壁にもたれ、その様子を黙って見ていた。
アリアは鍋の縁を確かめ、火加減を調整する。
その指先の動きは無駄がなく、けれどどこか慎重で、患者の顔を思い浮かべながら作業しているのが分かる。
「ここは焦らなくていい場所です」
ふと、彼女が小さく笑った。
「ここなら、時間をかけられます」
その横顔を見た瞬間、胸の奥が静かに軋んだ。
時間をかけられる。
あの白い部屋で、何度も聞いた言葉に似ている。
――ここでゆっくり休んでるから大丈夫だよ。
そう言って、苦しいはずなのに、周りに気を遣って儚く笑った少女。
確かに記憶は、もはや鮮明ではない。
他人のそら似という言葉だってあるのだ。
けれど温度だけは残っている。
鍋の湯気の向こうに、その面影が重なる。
呼ぶつもりはなかった。
確かめるつもりもなかった。
もう十分だと、思っていたはずなのに。
「……あかね」
零れた瞬間、自分で驚いた。
ただ、心が先に動いただけだ。
アリアの手が止まる。
「?」
振り返る瞳に、深い意味はない。
ただ聞き慣れない響きに反応しただけの、ほんの一瞬の揺れ。
ルーカスは静かに息を吐いた。
――ああ。
分かった。
いや、もうずっと分かっていた。
そして今の一瞬で、すべてが綺麗に繋がる。
「いや、何でもない」
そう言うと、アリアは小さく首を傾げ、それ以上は追わなかった。
「そうですか?」
軽く笑って、火加減を直す。
大げさな動揺も、劇的な再会もない。
それでいい。
胸の奥が、静かに落ち着いていく。
確信を抱え込む痛みはない。
しかし迷いもない。
彼女が覚えていなくてもいい。
アリアとしてここにいるなら、それでいい。
守りたい理由が増えただけだ。
鍋の湯気が揺れて火がぱちりと弾ける。
アリアが何気なく右のこめかみに指を当て、とん、と叩く。
その姿を見て、ルーカスはわずかに目を細めた。
もう否定しない。
追及もしない。
確かめもしない。
ただ、傍にいる。
今度こそ、失わない。
それだけだ。
森の外では、夜がゆっくりと降りてくる。
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