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第三章 紅焔の覇王と、森に残る光


ヴァルキュリア皇国の冬は長い。


石造りの城壁に吹きつける風は鋭く、兵たちは常に緊張の中で日々を過ごしている。


その中心に立つ男――ルーカスは、戦場では「紅焔の覇王」と呼ばれていた。


敵国にとっては悪夢の象徴であり、自国にとっては絶対的な勝利の保証。


その剣は苛烈でありながら無駄がなく、怒号も激情も伴わない。


ただ冷静に状況を見極め、最短の手で勝利を奪う。


それゆえに、彼は畏れられていた。


炎のように強く、氷のように冷たい。


そのルーカスが、辺境視察の途中で立ち寄ったのは、森の奥にある小さな薬師の家だった。


怪我人の治りが異様に早いという噂を聞き、確認のために足を運んだだけのこと。


特別な意味はないはずだった。


だが、小屋の前に立つ少女を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


冬の光の下、金色の髪がかすかに揺れている。


質素な服装、華奢な身体。


手には薬草の籠。


彼女は視察団に気づき、驚いたように目を見開いたが、怯えてはいなかった。


そしてすぐに頭を下げた。


その瞳の色を見た瞬間、呼吸が一拍遅れた。


どこかで、知っている。


理屈ではない。

記憶でもない。


ただ感覚だけが、確かにそう告げている。


「ここで薬を作っているのは、君か」


自分でも驚くほど穏やかな声だった。


少女は顔を上げ小さく頷いた。


「はい。アリア・エレフィーノと申します」


アリア。


その名が胸の奥に落ちた瞬間、別の名が喉元まで込み上げる。



――あかね。



だが、声にはならなかった。


あり得ない。


あの名は、もう二度と呼ぶことのないものだ。


雪に閉ざされた病室で、細い手を握りながら、確かに失ったはずの名。


例えようのない感覚が自分の内側から揺らがしてくる。


ルーカスは視線を逸らし、感情を押し込めた。


「怪我人の治りが早いと聞いた」


「時間はかかります。でも、後遺症は残しません」


静かな声だった。


その言葉に、心臓が強く打つ。



__大丈夫、時間はかかっちゃうけど……。



かつて、似たような言葉を聞いたことがある。


雪の匂いと、薬品の匂いが混ざる部屋で、笑いながら言われた言葉。



――ゆっくりでもいいから、ちゃんとよくなるよ。



思考が、そこで止まる。


目の前の少女は別人だ。


顔立ちも違う。

髪の色も、声の高さも。


なのに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのか。


ルーカスは小屋の中に入った。


整然と並べられた乾燥薬草、丁寧に洗われた器具、無駄のない動線。


生活の匂いがあるが、乱れはない。


「教えは誰から受けた」


問いかけると、アリアの指先が一瞬止まった。


「育ての親からです」


ほんのわずかな沈黙があった。


その人を失ったのだと、直感した。


その喪失の影が、彼女の声の奥に沈んでいる。


そして不思議なことに、その影が、自分の胸の痛みと共鳴した。


彼女を守らなければならない、と、思った。


これはきっと王としてではなく、一人の男としての感覚。


理屈はない。


ただ本能に近い衝動だった。


彼女が再び孤独の中に立たされる未来を想像しただけで、心が軋む。


「この辺境は俺の領地だ」


アリアが顔を上げる。


「困りごとがあれば、申せ」


命令ではない。


保証でもない。


ただ、置いていかないという意思表示だった。


アリアは戸惑ったように瞬き、それから小さく微笑んだ。


「ありがとうございます」


その笑顔が、痛いほどに優しかった。


帰路につく直前、ルーカスはもう一度振り返った。


アリアは小屋の前に立ち、静かにこちらを見ている。


その姿が、なぜか遠くへ行ってしまいそうに思えた。


また失うのは、もう嫌だ。


まだ何も始まっていないのに、そんな感情が胸を占める。


「……また来る」


無意識に口をついて出た言葉に、自分でも驚く。


アリアはわずかに目を見開き、それから柔らかく頷いた。


「お待ちしています」


その声が、深く胸に落ちた。


馬を走らせながら、ルーカスは無意識に胸元を押さえた。


戦場で感じる痛みとは違う、内側からじわじわと広がる感覚。


あの仕草。

言葉の選び方。

他人を思いやる視線。


あり得ないと否定するほど、心は確信に近づいていく。


違う、まだ証はない。


だが、確かに何かが重なり始めている。


紅焔の覇王の胸に灯った小さな火は、まだ誰にも見えない。


しかしそれは、確実に彼の内側を変え始めていた。






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