第二章 新しい始まり
深い癒しと、あたたかな灯り。
最初に感じたのは、火の匂いだった。
乾いた薪がはぜる音が、静かな空間に小さく響いている。
瞼を開けると、天井は木でできていた。
節目のある梁がゆるやかな曲線を描き、そこに吊るされた乾燥薬草が、かすかに揺れている。
自分はまだ、生きている。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
「目が覚めたかい」
その時、低く、落ち着いた声がした。
視線を向けると、白髪の老婆が椅子に腰かけていた。
背は曲がっているが、目は驚くほど澄んでいる。
「……ここは」
「森の奥にあるあたしの家さ」
老婆は立ち上がり、湯気の立つ木のカップを差し出した。
「ゆっくり飲みな。三日ほど熱が出ていたんだよ」
三日。
森で倒れてから、それだけの時間が経っていたのか。
カップを両手で包むと、温もりが指先から腕へ、胸へと広がっていく。
それだけで、涙が滲みそうになった。
「……どうして、助けてくれたんですか」
かすれた声で尋ねると、老婆は小さく笑った。
「死にそうな若い娘を見捨てるほど、あたしは冷たくないよ」
その言葉は軽やかだったが、どこか揺るがない強さがあった。
「名前は?」
「……アリア」
「そうかい。あたしはマルグリットだ。元・宮廷薬師をしていたんだ。」
その言葉に、アリアは息を呑んだ。
宮廷薬師。
それは王都の中枢に仕える存在だ。
聖女制度のすぐそばにいる立場でもある。
マルグリットは、じっとアリアを見つめた。
「……アリア、あんた聖女だね」
否定する気力はなかった。
小さく、うなずく。
「追い出されたか」
問いというより、確認だった。
「……役に立たなかったから」
言葉にした途端、胸が痛んだ。
マルグリットはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「魔力を少し流してみな」
言われるままに、掌に意識を集中させる。
淡い光が、部屋を照らした。
その光を見つめながら、マルグリットは呟く。
「なるほどね」
「……やっぱり、遅いですか」
戦場で何度も言われた言葉が、無意識に口をついて出る。
老婆は、ふっと息を吐いた。
「遅いんじゃないよ。深いんだ」
その一言が、胸の奥にまっすぐ落ちた。
「深い?」
「表面を撫でる癒しは、すぐ効く。その代わり、歪みを残す。あんたのは違う。骨も、内臓も、魔力の流れも、全部を整える」
時間がかかるのは当然だ、とマルグリットは言う。
「戦場では嫌われる力さ。でもね――」
暖炉の火が揺れる。
「生きるためには、一番必要な力だよ」
アリアは、言葉を失った。
戦場では意味がないと言われた力が、ここでは“必要”だと言われる。
「ったく、王都は本当に見る目がないね」
その声音に、怒りはなかった。
ただ、静かな失望だけがあった。
「聖女は、消耗品だよ。戦を長引かせるための歯車。癒せば癒すほど、命を削る仕組みになっている」
アリアは、初めて聞く話に息を詰まらせた。
「……そんな」
「だからあたしは出てきた。あんな場所で、人の命を数値で測るのはごめんだからね」
小さな小屋の中、暖炉の灯りだけが揺れている。
その温もりの中で、アリアは静かに泣いた。
自分の力を、初めて肯定されたから。
“役に立つかどうか”ではなく、“どういう力か”を見てもらえたから。
聖女では無く私自身を見てもらえた気がした。
マルグリットは何も言わず、ただ隣に座っていた。
その距離が、心をほどいていく。
---
それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
朝は森へ入り、薬草を摘む。
葉の形、茎の匂い、土の湿り気。
「見た目に騙されちゃダメだよ。触って、嗅いで、覚えるんだ」
マルグリットの声が、いつも背後にある。
煎じる時間。
火加減。
混ぜる順番。
ひとつひとつが、命を扱う作業だった。
アリアは前世の知識も活かした。
傷口を必ず洗浄し消毒をする事。
水を煮沸すること。
手を洗う習慣を広めること。
最初は怪訝な顔をしていた村人も、怪我の治りが早いと分かると、自然と従うようになった。
「ありがとう、アリア」
その言葉を受け取るたび、胸の奥に灯がともる。
自分は、ここにいていいのだと思えた。
夜になると、二人で暖炉の前に座る。
「聖女でなくても、人は生きられるのさ」
マルグリットは言う。
「肩書きがなくても、あんたはあんただよ」
その言葉が、アリアの空洞を少しずつ埋めていった。
笑うことも増えた。
食事の味も分かるようになった。
生きている実感が、ようやく体に馴染んでいく。
---
やがて、季節が巡る。
冬の気配が近づいたころ、マルグリットの咳が深くなった。
薬も煎じる。
魔力も注ぐ。
だが、アリアには分かっていた。
命の終わりは、癒せない。
ベッドの傍らで、手を握る。
「……泣くんじゃないよ」
かすれた声。
「すまないね…看取るのは、辛いだろう?」
アリアは首を振る。
「……ううん。そばにいる」
前世では、できなかったこと。
看取られる側だった自分。
「生きなさい」
マルグリットの指が、弱く握り返す。
「あんたは、生きて、愛される子だよ」
その言葉は、祈りのようだった。
涙が頬を伝う。
「ありがとう……」
震える声で、はっきりと告げる。
マルグリットは、静かに微笑んだまま、息を引き取った。
暖炉の火が、小さく揺れる。
小屋は、驚くほど静かだった。
---
一晩、アリアは泣いた。
声を殺して、何度も名前を呼んだ。
それでも、どんなに悲しくても朝が来て陽は昇る。
窓から差し込む光は、容赦なく新しい一日を始める。
(大切な人を失った。でも、終わりじゃない)
マルグリットが言ってくれた。
生きなさい、と。
愛される子だよ、と。
アリアは立ち上がる。
小さな家は広く感じる。
静けさは、胸を締めつける。
それでも彼女は、薬草を摘みに森へ入る。
前を向くことは、マルグリットの事を忘れることではない。
抱えたまま、進むこと。
それを、知ったのだ。
その日、森の奥に、重い馬の足音が響いた。
運命が、静かに近づいていた。
---




