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第十八章 触れていなければ届かないもの


アリアが寝台から身体を起こせるようになった午後、部屋にはようやく穏やかな光が戻っていた。


窓辺のレース越しに差し込む陽射しが白いシーツを淡く照らし、そのやわらかな明るさの中で、ルーカスは相変わらず寝台の横の椅子に腰かけて書類を捌いている。


政務の量は減っていないはずなのに、彼は一歩も執務室へ戻ろうとしなかった。


そこが今の彼の定位置であるかのように、自然に、疑いもなく。


紙をめくる指先が、いつのまにか横へ伸びていることに、アリアは気づいていた。


視線は書面に落ちたままなのに、彼の手は無意識に彼女の手を包み、指を絡める。


その動作にはためらいがなく、かといって強引でもない。


ただそこに在ることを確かめるように、静かに触れている。


触れられていることに気づくたび、アリアの胸は小さく震えた。


嫌ではない、むしろ安心する。


その温度があることで、倒れていた夜が遠ざかっていく気がするから。


それでも、鼓動が少しだけ早くなるのは隠せなかった。


「ルーカス様」


呼びかけると、彼はすぐに顔を上げる。


その反応の早さが、彼の意識の重心がどこにあるのかを物語っている。


「疲れたか」


声は低く落ち着いているが、目の奥にはかすかな緊張が残っている。


アリアは首を振りながら、絡められたままの手元へ視線を落とした。


「その……お手が」


言いかけた瞬間、彼もまた自分の指先に気づいたらしい。


ほんのわずかに眉が寄り、それから小さく息が漏れる。


「またか」


苦笑に近い声音で呟きながらも、彼は手を引かなかった。


「気づけば触れている」


その言い方は弁解ではなく、ただ事実を認める響きだった。


視線を伏せたまま、彼は静かに続ける。


「倒れたお前を見たとき、思い出した」


何を、とは言わない。


けれど、あの森での出来事は二人の間に共有されている。


低く落ちた声の奥に不安と悔しさが垣間見えた。


アリアはそっと身を乗り出し、自分から彼の手を握り返した。


その仕草に、ルーカスの視線がゆっくりと上がる。


「わたしは、ここにおります」


静かに告げると、彼の瞳の奥で何かが揺れる。


「消えません。勝手にいなくなったりしません」


柔らかな声でそう言いながらも、アリア自身もまた、彼の温度に安心していることを否定できない。


触れていることで、二人ともが過去の痛みに溺れずに済んでいるのだ。


ルーカスは椅子から立ち上がり、寝台の縁に腰を下ろした。


距離が縮まり、呼吸が混ざるほど近づく。


彼の指先が頬へ伸びるのを、アリアは避けなかった。


熱を測るようなその仕草は、けれど医師のそれとは違い、どこか切実だった。


「触れていなければ不安になる」


それは弱さの告白だった。


覇王と呼ばれる男が、自分の不安を隠さずに差し出す。


その重みが、アリアの胸に静かに落ちる。


「わたしも……安心します」


そう答えたとき、彼の指がわずかに強まった。


抱き寄せたい衝動が、確かにそこにあるのが分かる。


彼の腕が一瞬、彼女の背へ回りかけて、しかし止まる。


その躊躇いが、逆に熱を帯びる。


越えない一線を自覚しているからこそ、その距離は甘く、濃い。


「俺の隣にいろ」


低く、深い声だった。


命令ではなく、選び取る覚悟を伴った響き。


アリアは彼の胸元に手を置き、その鼓動を感じる。


規則正しいはずの鼓動が、わずかに速い。


「ルーカス様の側にいたいです。この先も、ずっと」


その言葉が落ちた瞬間、彼の瞳に宿る光が変わる。


守るという決意だけではない。


失わないために、手放さないために、何かを選び取ろうとする強さがそこに滲む。


彼はゆっくりと身を屈め、彼女の額に口づけを落とした。深くは触れない。


けれど、その一瞬に込められた熱は隠しきれない。


触れていなければ不安になる夜は、もう終わりつつある。


触れることで確かめるだけでなく、隣りを当然にする未来へと、彼の心は踏み出しかけている。


寝台の横の椅子は、今日も動かない。


けれどそれは、過保護だからではなく、ここが彼の選んだ場所だからだと、アリアはようやく理解していた。


そしてその選択は、きっと次の決断へと続いていく。



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