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第十七章 付き添い覇王の夜


それは流行り病が城下に広がり始めたとき。


城や市民の空気は目に見えない不安を含みはじめていた。


報告は日に日に増え、咳と熱に倒れる者の名が帳面に並ぶたび、アリアの横顔はわずかに翳る。


その翳りを見つけるたびに、ルーカスの胸の奥には言葉にならない焦りが滲んだが、彼女は必ずこちらを振り返り、やわらかく微笑むのだった。


「大丈夫です。まだ、私にできることがありますから」


その声は決して強がりではなく、誰かの痛みを見過ごせないと決めた人間の静かな覚悟に満ちている。


王として命じれば止められると分かっていながら、ルーカスがそれをしなかったのは、彼女の誇りを折りたくなかったからだ。


だが同時に、胸の奥では別の感情がくすぶる。


守りたいという衝動と、失うことへの不安が、同じ色で絡み合っていた。


そして、その予感は夜半に現実となる。


「陛下!アリア様が、お倒れになりました」


慌ただしい声を聞いた瞬間、視界がわずかに揺れた。


心臓が強く脈打つのに、体はひどく冷えていく。


廊下を進む足取りは速いはずなのに、どうしてもあの日の記憶が追い越してくる。


白いシーツ。

消毒の匂い。

細く冷たい指先。

名前を呼んでも返事はない、あの静寂。


寝室の扉を押し開けたとき、目に飛び込んできた光景が、その記憶と重なった。


薄く落とされた灯りの下、白い寝台に横たわるアリアの頬はあまりにも静かで、息をしていると分かっていても、胸の奥が強く締めつけられる。


大切な人を失うかもしれないという感覚は前世も今世も変わらず、同じ重さで心を圧した。


ルーカスは寝台の傍らに椅子を引き寄せ、静かに腰を下ろす。


王座ではなく、飾り気のない木椅子。


そこに座り、彼は彼女の手を取った。


ひやりとした温度が掌に伝わるその冷たさに、知らぬうちに指先へ力がこもる。


壊してしまわないようにと理性が制しながらも、離した瞬間に二度と掴めなくなるのではないかという恐れが、手を解かせなかった。


「命に別状はございません。力の過度な行使による衰弱です。しばらく安静にしてゆっくり睡眠をとれば大丈夫です」


医師の説明を聞きながら、彼はようやく息を吸う。


それでも、胸の奥の震えは完全には消えない。


命に別状はない――その言葉を何度も内側で反芻しながら、彼は彼女の手を包み続けた。


その夜、執務はすべて寝台の横で行われた。


報告書が運ばれ、横のアリアを気遣いながらの小さな声で決裁を求める声がかかる。


そのたび、ルーカスは短く指示を出すが、視線は一度もアリアから離れない。


ときおり無意識に、額へ触れ、頬へ触れ、呼吸を確かめる。


触れすぎだと分かっている。


それでも、温度を感じていなければ、胸の奥の影が濃くなるのだ。


かつて冷酷覇王と恐れられた男が、夜通し椅子に座り、ただ一人の少女の傍を離れない。


その姿を、出入りする使用人たちはそっと見つめ、やがて小さく囁き合うようになった。


「本日の陛下は……」


声を潜めながらも、どこか微笑みを含んだ響き。


「過保護覇王、でございますね」


誰も否定しない。


国の最高峰に位置する医官が休めば大丈夫と診断してもその横を片時も離れず見つめ続ける。


軍議よりも寝台を選び、玉座よりもこの椅子に根を下ろしている姿は、もはや揶揄ではなく、ひとつの事実だった。


戦場でも政権でも冷酷な覇王だと噂される主は国の事を考え民を大切にしてくれる。


国に住まうものとして、側で仕えるものとして主は尊敬するお方だ。


そんな主が1人の少女を想い人間らしさが増していく日々。


陛下を変えたのは春の様に温かく柔らかい少女。


使用人達もアリアを心配はするものの、陛下が側にいるから大丈夫。


2人は皆にとってそうゆう存在になっていた。




夜明けが近づくころ、指先にわずかな動きが返る。


絡めていた手が、かすかに力を帯びるのを感じた瞬間、ルーカスの心臓は強く跳ねた。


「……ルーカス様?」


かすれた声に、彼は顔を上げる。


その瞳に宿るのは威厳ではなく、抑えきれない安堵と、まだ消えない恐怖だ。


「起きるな。まだ寝ていろ」


低く落ちた声は厳しく聞こえるが、その奥に滲むのは叱責ではなく、失いかけたことへの震えだった。


「ご心配を、おかけしました」


申し訳なさそうに微笑む彼女を見たとき、胸の奥で何かがほどけると同時に、強く締めつけられる。


「謝るな」


短く言い切ってから、彼は視線を逸らさず続けた。


「国よりも、何よりも……お前が大事だ」


王としての言葉ではない。ただ一人の男として零れた本音が、静かな部屋に溶ける。


アリアの瞳がゆっくりと潤み、その視線が彼を捉える。


彼は自分でも気づかぬまま、彼女の頬に触れていた。


熱を確かめるふりをしながら、確かめたいのは存在そのものだと。


触れていなければ、また遠ざかってしまう気がするから。


「ずっと、居てくださったのですね」


その言葉には責める響きはなく、むしろ嬉しさが滲んでいる。


「当然だ。お前が目を覚ますまで、俺は動かない」


迷いなく言い切る声に、アリアはかすかに笑う。


「心配性ですね」


冗談めかした響きに、彼はわずかに眉を動かすが、否定しない。


「どう呼ばれても構わない。お前の隣なら」


そこで言葉が柔らかく沈む。


「悪くないどころか、離れる気がしない」


その声音に宿るのは、守るという決意だけではない。


触れていたいという欲求と、隣を当然にしたいという願いが、静かに、しかし確実に混ざり合っている。


彼は彼女の指を絡め直し、額をそっとその手に寄せた。


王が誰かに額を預けるなど、かつては考えられなかったことだ。


それでも今は、それが何より自然だった。


「……俺より先に逝くな」


掠れた願いが、ほとんど吐息のように零れる。


アリアはゆっくりと指を握り返し、静かに答える。


「一緒に、生きましょう。これからも、ずっと」


その言葉が胸の奥に深く沈み、確かな重みを持つ。


この夜は、まだ理性の内側にいる。


だがその理性の下で、溺れるほどの愛が形を取り始めていることを、彼自身が一番よく分かっていた。


椅子はもう動かない。彼の居場所は、ここだ。


そしていつか、当然の隣へと変わり、誰にも揺るがせない誓いへと姿を変えるだろう。


その始まりの夜が、静かに、しかし確かに刻まれていた。



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