第十六章 選ばれるという恐怖
勇者エドヴァルドの再訪は、静かだった。
かつてのような怒号も剣戟もない。
正式な使節団を伴い、国と国の均衡を保つための話し合いという形で現れたその姿は、以前よりもずっと落ち着いて見えた。
強さを誇示するのではなく、背負うものを理解している男の顔だった。
それが、ルーカスには何よりも厄介だった。
会談の席でエドヴァルドはまっすぐアリアを見る。
所有ではなく、確認するような眼差し。
アリアもまた、逃げない視線で応じる。
あくまで穏やかに、礼節を保ち、距離を守りながら。
それでも、ルーカスの胸の奥にわずかな違和感が灯る。
力で奪いに来る相手なら、排除すればいい。
正義を掲げて押し通す相手なら、対峙すればいい。
だが――
「君がここで穏やかに過ごせているなら、それでいい」
エドヴァルドはそう言った。
「だが、もし苦しい時があれば、国はいつでも受け入れる」
その言葉には強制がない。
ただ、扉を開けておくという宣言。
ルーカスはそれを聞きながら、己の内側で何かが軋むのを感じる。
選ばれる余地を残すという行為。
それは、奪うよりも強い。
会談は滞りなく終わった。
形式上は友好的、国同士の関係も悪化しない。
エドヴァルドが立ち上がり、最後にアリアへ向き直る。
「今は、君の選択を尊重する。だが、選び直すことは罪ではない」
柔らかな言葉。
その瞬間、ルーカスの指がわずかに動く。
無意識にアリアの腰に手が回る。
触れたあとで、自分でも気づく。だが、離さない。
会談の場であることも忘れたわけではない。
もちろん理性もある。
だが、引き戻す衝動が勝った。
アリアが小さく息を呑むのがわかった。
怯えはない。ただ、驚きと、ほんの少しの熱。
勇者はその様子を見て、静かに笑った。
「……大切にされているようだ」
「当然だ」
ルーカスの声は低い。
「俺の、国の宝だ」
それは王の言葉だ。だが、その手の位置は王のそれではない。
エドヴァルドはそれ以上何も言わず、踵を返した。
扉が閉まり室内に残るのは、わずかな余熱。
アリアがそっと囁く。
「……ルーカス様」
ようやく、彼は自分の手に気づくが離すのは遅い。
指先に残る温度が、妙に鮮明だ。
「すまない」
口ではそう言うが、声はどこか掠れている。
「無意識だった」
嘘ではない。
だが本当の理由も理解している。
選ばれない可能性があるという事実が、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。
アリアはゆっくりと首を振る。
「嫌ではありませんでした」
その一言が、胸を強く打つ。
彼女は続ける。
「私は、今ここにいます」
選び直すという余地を、静かに閉じる言葉。
ルーカスは視線を逸らさない。
理性では尊重すると決めている。
彼女の選択を縛らないと誓っている。
それでも――
「……選ばれたいと思うのは、傲慢か」
低く零れた本音。
アリアは目を瞬かせる。
「傲慢ではありません」
一歩近づく。
「私も、選んでほしいと思っています」
互いの呼吸が近づく。
勇者は誠実だった。強く、成長していた。
だからこそ、もし彼女が揺れれば止められないと、ルーカスは理解している。
だが今、彼女は揺れていない。
その事実が、胸を締め付けるほどに愛おしい。
彼は再び、そっと彼女の腰に触れる。
今度は意識的に。
強くは抱かない。ただ、そこにいると確かめるように。
「……帰ろう」
声は穏やかだが、わずかに低くそして温かかった。
ルーカス自身もまだ知らない。
選ばれない恐怖は、やがて失う恐怖へと変わり、
その先に、溺愛という名の決意が待っていることを。
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