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第十四章 選ばれなかった痛み


剣の震えが止まったあとも、広間の空気はすぐには緩まなかった。


勇者は刃を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。


自分の腕がわずかに重く感じるのは、力を使ったせいではないと分かっている。


視線の先にいるアリアが、怯えていないことが何よりも答えだった。


庇われているのではない。


強いられているのでもない。


彼女は自分でそこに立っている。


その事実が、胸の奥に鈍い痛みを残す。


やがて勇者は剣を納めた。


「……感情的になった。非礼を詫びる」


言葉は整っているが、その声はわずかに掠れている。


誇りを傷つけられた怒りではない。


もっと別のものだと、自分でも気づき始めていた。


ルーカスも剣を収める。だが視線は逸らさない。


「詫びる相手は俺ではない」


その言葉に、勇者の喉が詰まる。


ゆっくりとアリアへ向き直るが、かつてのように当然の位置に彼女がいるわけではない。


今の彼女は、自分の隣に立つ存在ではなく、自分と対峙する場所にいる。


「……アリア、すまなかった」


短い謝罪だった。


けれど、それは勇者が初めて彼女を“役割”ではなく“個人”として見ようとした証でもあった。


アリアはすぐに返事をしなかった。


許すとか、責めるとか、そういう単純な感情ではなかったからだ。 


森で過ごした日々、

マルグリットと分け合った静かな食卓、

雪の朝に一人で薪を割った時間、

そしてルーカスと交わした何気ない言葉たちが胸に浮かぶ。


それらが今の自分を形作っている。


過去も否定しないが、そこに戻る理由はもうない。


「私は……聖女である前に、私なのです」


静かな声だった。


「国を救う力があるのなら、使うことを拒むつもりはありません。でも、それは私が選びます。命じられるのではなく」


その言葉に、勇者は息を呑む。


あの頃、自分の隣に立っていた少女は、もっと従順だったはずだ。


いや、そう思い込んでいただけなのかもしれない。


彼女は元から、こういう目をしていたのではないか。


ただ、自分が見ていなかっただけで。


「……国は、お前を必要としている」


最後の拠り所のように口にした言葉は、しかし先ほどまでのような強さを持たない。


ルーカスが静かに言う。


「国が必要とするのは力だ。だが人が必要とするのは、尊重だ」


その視線はアリアに向けられている。王としてではなく、一人の男として。


「彼女が望むなら、俺は力を貸す。だが望まぬものを背負わせることはしない」


その言葉の裏にあるのは、甘さだけではない。


もし彼女が国へ戻ると言えば、それを止める権利は自分にないと理解している理性だ。


それでも胸の奥では、選んでほしいと願っている。


その相反する感情が、わずかに声の低さを深くする。


勇者はその微妙な変化を感じ取る。


守ると言いながら、縛らない。


その距離感が、妙に腹立たしいほど誠実に見える。


「……俺は、お前を見誤った」


ようやく零れた本音は、誰に向けたものか自分でも曖昧だった。


アリアか、ルーカスか、それとも過去の自分か。


「力が足りないと決めつけた。役に立たないと判断した。だが森での噂を聞いたとき、最初に浮かんだのは……」


言葉が途切れる。続きを口にすれば、誇りが崩れる気がした。


アリアはただ静かに待つ。


責めるでもなく、急かすでもなく。


「……お前だった」


その告白は、国のためでも制度のためでもなかった。


個人的な感情が滲んでいた。


遅すぎる自覚だと分かっている。


それでも、言わなければならなかった。


広間に沈黙が落ちる。


ルーカスは一歩も動かない。


ただ、アリアのわずかな呼吸の変化を感じ取っている。


彼女が揺れるなら、支える。


だが代わりに答えることはしない。


やがてアリアはゆっくりと首を振った。


「私は、もうあの時の私ではありません」


柔らかな拒絶だった。


「必要とされることは嬉しいです。でも、それだけでは戻れません」


勇者の胸に、ようやく理解が落ちる。


必要だったのは力ではなく、彼女そのものだったのだと気づいたときには、もう遅い。


自分は一度、その手を放している。


「……分かった」


絞り出すような声だった。


「すぐに結論を迫ることはしない。ただ、国はいつでも門を開いている。それだけは伝えておく」


それは撤退宣言ではない。


だが強奪でもない。


初めて彼は、彼女の選択を待つという立場に立った。


勇者が踵を返す。


重い足音が遠ざかる。


扉が閉まったあと、広間の空気がようやく緩んだ。


アリアは小さく息を吐く。張り詰めていたものがほどけ、指先がわずかに震える。


それに気づいたルーカスが、静かに近づく。


「無理をしたな」


責める響きはない。


ただ、労わる声だ。


アリアは小さく笑う。


「少しだけ。でも……言えてよかったです」


その表情を見た瞬間、ルーカスの胸の奥に、安堵と同時に別の感情が芽生える。


彼女が選んだ。


自分の意志で、ここに立つと示した。


その事実が、どうしようもなく嬉しい。


だが同時に、勇者の言葉が引っかかる。


国は門を開いている――。もし彼女が、いつかその門へ向かうと決めたなら。


理性がそれを許容しようとする一方で、胸の奥では強い衝動がささやく。

離したくない、と。


アリアが顔を上げる。


距離が近いことに気づき、わずかに目を瞬かせる。


その無防備さが、さらに心を揺らす。


「……ルーカス?」


呼ばれた名が、胸に落ちる。


彼は一瞬だけ迷い、それからそっと彼女の手を取った。


強くは握らない。


ただ、そこにいると確かめるように。


「ここにいてくれて、感謝している」


王としてではなく、一人の男としての言葉だった。


アリアは戸惑いながらも、指を重ねる。


その小さな触れ合いの中で、二人は同時に理解する。


選ぶということは、誰かを傷つける可能性も孕む。


それでも、それでも――今この瞬間、自分の足で立っているという確かさが、何よりも尊いのだと。


そしてその尊さを、ルーカスはもう手放す気がなかった。



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