第十三章 選ぶということ
謁見の間の扉が開いた瞬間、アリアの胸の奥に沈めていた記憶がぞわりと浮かび上がった。
忘れていたわけではない。
ただ、触れないようにしていただけだ。
中央へと進み出た青年の姿を視界に捉えたとき、その事実を否応なく思い知らされる。
勇者エドヴァルド・レオンハルト
かつて自分を聖女として迎え入れ、そして力不足と判断して切り捨てた人、そして婚約者でもあった王太子でもある。
あのときと変わらぬ剣を携え、まっすぐな顔で立っている。
「聖女アリア殿。ようやくお会いできた」
その呼び名に、胸の奥が静かに冷える。
役割としての名で呼ばれるたび、かつての自分に引き戻されるような感覚がある。
それでもアリアは視線を逸らさなかった。
逃げれば、また誰かの判断に身を委ねることになると思ったからだ。
玉座から立ち上がったルーカスが、一歩前へ出る。
その動きは自然で、威圧ではなく、しかし明確に彼女の前に立つ位置だった。
「彼女は今、この国に滞在している客人だ」
低く、揺るぎない声だった。
勇者はわずかに口元を歪める。
「客人、ですか。覇王が聖女を囲っているという噂は、誇張ではないように感じられますが」
その言葉に、アリアの中で小さな怒りが燻る気配がする。
囲う、という響きは、まるで自分の意志がなくルーカスに強要されているかのように聞こえた。
「私は囲われてなどいません」
広間に落ちた自分の声が、思ったよりもはっきりしていることに、アリア自身が驚く。
勇者の眉がわずかに動いた。
「国はお前を必要としている。聖女制度は続いているのだ。民は救いを待っている」
理路整然とした正論だった。
かつての自分なら、それを使命と呼んで従っただろう。
だが今は、その“必要”という言葉の中に、自分という人間が含まれていないことを知っている。
「お忘れですか。その制度が、私を森へ追いやったのだと」
静かな言葉だったが、確かな重みを持っていた。
勇者はすぐに言い返す。
「あの時点では力が確認できなかった。故にそれは判断だ。国家とはそういうものだ」
国家。その理屈は分かる。けれど、その理屈の下で自分がどんなふうに扱われたのかも、忘れてはいない。
そのとき、ルーカスの声が割って入った。
「確認できなければ、切り捨てるのか」
勇者の視線が鋭くなる。
「国家とはそういうものだと言ったはずだ」
「彼女には国家としてではなく、一人の人間として生きる権利がある」
ルーカスは続ける。
「聖女である前に、アリア・エレフィーノという名の心優しい人間だ」
その言葉が胸に落ちた瞬間、アリアは自分の足元が確かに支えられていることを感じる。
守られているというより、選択を尊重されている。
だからこそ、自分はここに立っていられる。
勇者の内側で、何かが軋む音がする。
理屈ではなく、もっと別の感情が顔を出していた。
噂に聞く覇王像を持ち出すことで、目の前の光景を否定しようとする。
「甘言で惑わされているのではないか。覇王の評判は聞いている。冷酷で、情を利用し、奪う王だと」
ルーカスを卑下する言葉、それを聞いた瞬間、アリアの中で決定的に火が灯った。
「訂正してください」
広間が静まる。
「ルーカス陛下はそんな方ではありません」
声は震えている、それでも目は逸らさない。
「噂で人を決めつけないでください。価値で私を捨てた方」
勇者の呼吸がわずかに乱れる。
彼女は覚えている。
そして、傷ついたままここに立っている。
その事実が、胸を締めつける。
「目を覚ませ、アリア。お前は騙されている」
言葉と同時に、勇者は剣を抜いた。
理性より先に感情が動いているのだ。
ルーカスも剣を抜くが、その構えは静かだ。
「剣を引け、勇者エドヴァルド・レオンハルト。
彼女の意志を侮辱するな」
刃が交わる。鋭い衝撃が広間に響く。
勇者の剣は速く、重い。
激情がそのまま力になっている。
一方でルーカスは受け流し、逸らし、決して無駄に踏み込まない。
勝つためではなく、守るための剣だった。
「離れろ、アリア!」
「離れません!」
叫びが重なる。
だがアリアは一歩も退かない。
怯えているのに、逃げない。
ここは自分で選んだ場所だから。
刃を押し返しながら、ルーカスが低く告げる。
「彼女は俺のものではない」
一瞬、空気が止まる。
「だが、お前やお前の国のものでもない。彼女がここを選ぶ限り、誰にも奪わせない」
所有ではない。
その言葉にあるのは、ただ選択を守る意志だけだった。
勇者の剣がわずかに震える。
目の前にいるのは、奪われた聖女ではない。
自分の意志で立つ1人の女性だ。
そしてその隣には、自分ではない男がいる。
「……なぜ、そこまで」
思わず漏れた問いに、アリアは静かに答える。
「私は、自分でここにいます」
その一言が、勇者の胸に重く落ちた。
「私は、ここが好きなんです」
奪われたのではない。
選ばれなかったのだという事実が、ようやく形を持って迫ってくる。
剣の震えが、ゆっくりと止まっていった。
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