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第十二章 近づく影


夜半を過ぎても、王城の執務室には灯りが落ちていた。


窓の外では風が低く唸り、春の終わりを告げる雲がゆっくりと王都の空を覆っている。


机上に広げられた報告書の文字を追いながら、ルーカスは無意識に指先へ力を込めていた。


勇者一行はすでに王都外縁の宿場へ到着し、明日には正式な謁見を予定している。


噂は確実に広がっていた。


“森で奇跡を起こす治癒師”。


その存在が王城にあるのではないかという憶測は、すでに囁かれている。


偶然であるはずがない、と彼は思う。


まるで何者かが糸を引くように、出来事は彼女のもとへ収束している。


王として迎えるべき来訪者であっても、ひとりの男としては歓迎できない。


胸の奥で静かに燻るのは、警戒と、そして嫉妬にも似た独占欲だった。


彼女を探して来るのだとしたら、それは正義の名を借りた奪取ではないか。


思考を断ち切るように椅子を立ち、東翼へ向かう。


深夜の廊下は静まり返り、灯火だけが頼りない影を揺らしている。


扉の前で足を止めたとき、胸の内にある焦燥を自覚した。


確認せずにはいられない。彼女が、そこにいることを。


静かに扉を開けると、室内は柔らかな灯りに包まれていた。


アリアは窓辺の椅子に座り、風に揺れる雲を眺めながら、何かを考えているようだった。


「眠れないのか」


声をかけると、彼女は振り返り、小さく微笑む。


「少しだけ、落ち着かなくて」


その言葉に、彼の胸がひとつ重く鳴る。


「勇者のことを、考えているのか」


問うと、彼女はしばし視線を彷徨わせたのち、正直に頷いた。


「彼らが私を探している、私の、聖女の価値を再評価したと…」


その言葉にルーカスの指先が震える。


アリアという1人の女性が聖女の価値として他人に評価され価値があれば連れ去られ価値がなければ国から放り出される。


彼には許しがたく握る手に力がこもる。


彼女はここにいる。自分の腕の届く場所に。それだけでいい。


だが世界はそれを許さないらしい。


彼はゆっくりと歩み寄り、彼女の前に立つ。揺れる灯りが横顔を淡く照らし、その瞳の奥にわずかな不安が滲んでいるのが見えた。


守りたいという思いが、理性を押し流しそうになる。


「アリア」


名を呼ぶと、彼女は素直に見上げる。


その仕草が、あまりにも無防備で、胸の奥に甘い痛みが走る。


思わず、頬に触れる。指先に伝わる温度が、確かな現実を教える。


「たとえ誰が来ようと、お前が望まぬ限り、ここから動かすことはない」


誓いのような言葉だった。


彼女は目を伏せ、そっと彼の衣を握る。


「私は……ここが好きです。ルーカスの傍が」


その一言が、彼の内側を強く揺らす。


もっと抱き締めたい。

もっと深く触れたい。

自分だけの場所だと刻み込みたい。


そんな衝動が、確かにある。


だが同時に、彼女はまだ恋を知らないのだと理解している。


ここが好き。その言葉にもきっと言葉以上に深い意味はないのだろう。


前世でそれを経験する前に失われた時間。


だからこそ、急がせたくない。


自分の欲で、その純粋さを曇らせたくない。


葛藤の末、彼はただ彼女を抱き寄せる。


今夜は、言い訳をしない。ただ静かに、包み込むように。


「……離したくない」


無意識に零れた言葉に、自分で驚く。


彼女はその胸に頬を寄せ、「離れません」と穏やかに返す。


その声音に嘘はない。ただ信頼だけがある。


それが嬉しくて、苦しい。


彼は彼女の髪にそっと唇を落としかけ、寸前で止める。


欲が先走る前に、深く息を吐く。


「すまない。今は、これでいい」


そう言って額を重ねるに留める。その距離が、理性の証だった。


窓の外で雷鳴が響く。嵐は、もう王都の上空に差しかかっている。


明日、勇者は城門をくぐるだろう。


だが今はまだ、彼女の体温は腕の中にあり、その鼓動は穏やかに重なっている。


どこまでも甘く、どこまでも切ない温もりを感じる。

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