第十章 はじめての揺らぎ
その日、王城の謁見の間には春の光が差し込んでいた。
高窓から落ちる柔らかな陽光が大理石の床に広がり、集う貴族たちの衣装を淡く照らしている。
政務の報告と軽い歓談が入り混じる穏やかな午後だった。
アリアは少し離れた場所で控えていた。
あくまで医療顧問として静かに同席している。
ルーカスは中央で貴族の話を聞いている。
その姿は凛としていて、穏やかで、揺るぎない。
――やはり、陛下なのだ。
そう思ったとき、一人の若い女性貴族が一歩前へ出た。
柔らかな金糸の髪。春色のドレス。彼女は少し身を寄せるようにして、ルーカスに何かを告げる。声は届かない。ただ、距離が近い。
ルーカスが微かに笑った。
それは社交の微笑みだと、頭ではわかっている。
けれど胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さった。
息が、ほんの少しだけ浅くなる。
――どうして。
自分でも理由がわからない。
いや、わかってはいる。
別に、何もおかしくない。
王として当然のやり取りだ。
女性貴族と話すことなど日常の一部なのだ。
意識を逸らすように視線を下げると、床の光がやけに眩しく見えた。
その感覚をうまく処理できないまま、時間が過ぎる。
やがて謁見は終わり、人々は散っていった。
廊下を歩きながらも、胸のざわめきは消えない。
自室へ戻ると、窓辺に立って深く息をつく。
「変よね……」
誰に言うでもなく呟く。
体調が悪いわけではない。
ただ、落ち着かない。
その時扉が控えめに叩かれる。
「アリア」
その声だけで、心が少し緩む。
扉を開けるとルーカスが立っている。
先ほどまでの公の顔ではなく、柔らかな眼差しで。
「謁見、お疲れさまでした」
自然にそう言うと、彼はゆっくり近づいてくる。
「どうした、表情が暗く見えるのは気のせいか」
そう言われて、少しだけ視線が泳ぐ。
いつも通りのつもりだった。
けれど、彼には伝わっている。
「なんでもありません」
小さく笑ってみせる。
ルーカスは一瞬だけ目を細めた。
会議までは普通だと思った。
ずっと真剣に聞いていたアリアが視線を落とした時になにか…。
ふとある光景が脳裏をよぎる。
謁見の間。金糸の髪の貴族令嬢。落とされたアリアの視線。
――まさか、嫉妬。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
彼女が自分に。
その事実を理解した瞬間、喉の奥がかすかに震えた。
いや、自分の思い違いかも知れない。
でも、だとしたら。
どうしようもなく愛おしい。
彼はゆっくりと歩み寄り、アリアの前に立つ。
「アリア」
名を呼ぶと、彼女は素直に顔を上げる。
その瞳は澄んでいて、けれどどこか揺れている。
「……俺が、何を話していたか気になったか」
静かな問いにアリアは一瞬、言葉を失った。
図星だったのか、それとも自分の感情にまだ名前をつけられないのか。
「気に、していません」
けれど声は、ほんの少しだけ小さい。
その差異を、彼は聞き逃さない。
胸の奥が満たされていく。
アリアが自分を意識している。
それだけで、こんなにも嬉しいのか。
無意識に腕が彼女の細い肩を引き寄せる。
いつもより、ほんの少しだけ強く。
「……ルーカス?」
戸惑いを含んだ声。
彼はそのまま抱き締める。
温かく柔らかい。
腕の中に収まる存在。
――もっと。
ふと、そんな衝動が胸をよぎる。
もっと強く抱きたい。
離したくない。
もっと意識してほしい。
自分だけを見てほしい。
独占に近い願望。
その感情に、自分で驚く。
「……すまない」
低く、掠れた声が落ちる。
「どうして謝るのですか」
彼女は不思議そうに問い返す。
本当に、わからないのだ。
その無垢さが、さらに彼を困らせる。
「少し……近づきすぎた」
そう言いながらも、腕はまだ離れない。
理性が遅れて追いつく。
彼女はまだ知らない。
この感情の重さを。
だからこそ、壊したくない。
彼はゆっくりと力を緩め、けれど完全には離れず、額を彼女の肩にそっと預けた。
「……他の者と話すのは、務めだ」
「はい」
「だが、お前がいるときは……」
言葉が途切れる。
欲と理性がせめぎ合う。
「お前の方を、見ていたい」
それが限界だった。
アリアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じる。
意味はわからない。けれど、嬉しい。
「……私は、ここにいます」
素直な言葉。
その無防備さに、彼は目を閉じる。
もっと抱き締めたい。
もっと名を呼ばせたい。
もっと、自分のものだと確かめたい。
だが今は、これでいい。
彼女が自分を見て、ここにいると言ってくれる。
それだけで。
「アリア」
「はい」
「……離れないでいろ」
それは命令ではなく、願いだった。
彼女は微笑む。
「どこにも行きません」
春の光が、静かに二人を包む。
胸のざわめきはまだ小さい。
けれど確かに、芽吹いている。
はじめての嫉妬は、
はじめての自覚へと、ゆっくり近づいていた。




