第一章 白い天井の向こう側
白い天井の向こう側
冬の光は、どこか現実感が薄い。
病室の白い天井を見つめながら、佐伯あかねはゆっくりと息を吐いた。
消毒液の匂いが、静かな空気に溶け込んでいる。窓の外では、粉雪が絶え間なく降り続いていた。
高校二年の冬。
本当なら、友人たちと他愛もない話をして、進路や恋愛に悩んでいるはずの時間だった。
けれどあかねの世界は、もう何か月もこの部屋の中だけで完結している。
ベッド脇に置かれた椅子には、母が座っていた。
俯いた肩が、小さく震えている。
(泣かないで)
そう言いたいのに、声は出ない。
酸素マスク越しの呼吸は浅く、体は自分のものではないように重かった。
ふと、脳裏に浮かぶ顔がある。
仲村亮平。
幼馴染で、隣の家に住んでいる、少し不器用で、でも笑うと目が優しく細くなる人。
本当は、言いたかった。
ずっと大好きだよ、と。
でも言えなかった。
自分の命に限りがあると知っていたから。
病に勝てない身体の自分が、誰かの未来に寄り添ってはいけないと、どこかで決めていたから。
“できないこと”がある人間は、出しゃばらない。
それが、あかねの幼い頃からの性格だった。
窓の外の雪が、ゆっくりと地面に溶けていく。
(来世があるなら――今度は、ちゃんと生きてみたい)
誰かに遠慮せず、好きな人にはちゃんと好きだと伝えて、自分も愛されてもいいと思える人生を。
その願いを胸に抱いたまま、視界は白く霞み、やがて何も見えなくなった。
心電図が、長く平坦な音を引いた。
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次に目を開けたとき、世界は金色に満ちていた。
高い天井。
荘厳な装飾。
祈りの声。
「聖女様……!」
歓喜と祝福が、波のように押し寄せる。
アリア・エレフィーノ。
それが、今世で与えられた名だった。
神殿の中央で目覚めた彼女は、癒しの力を持つ聖女として迎えられた。
体は軽い。
呼吸は深い。
痛みもない。
(生きてる……)
ただそれだけで、涙が出そうだった。
今度は、丈夫な身体。
誰かの役に立てる力。
今度こそ、未来に希望を持って生きていい人生なのだと、信じた。
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だが、戦場は優しくなかった。
勇者エドヴァルド・レオンハルト。
王太子であり、聖剣を携える“光の勇者”。
そして勇者の仲間達。
大魔導士アルベリク・シュタイン。
数値と理論を信じる、宮廷筆頭魔導士。
聖騎士ガルド・ヴェルナー。
王家に忠誠を誓う、不動の盾。
弓使いリシェル・アストレア。
戦況を俯瞰する冷静な斥候。
彼らは王国の希望だった。
強く、優秀で、迷いがない。
アリアも、その一員として戦場に立った。
聖女の力で負傷兵に手を当て、祈る。
光は確かに溢れ、傷は塞がっていく。
だが、治療には時間が必要だった。
アリアが使える力は負傷した者を即座に立ち上がらせる奇跡の力ではない。。
身体の奥底から、ゆっくりと修復する癒し。
そして1人を治療するその間にも、別の兵が倒れていく。
アルベリクが冷静に告げた。
「効率が悪い。戦闘継続に支障が出る」
リシェルが肩をすくめる。
「戦場で“あとで治る”は意味がないんだ」
ガルドは何も言わなかったが、視線を逸らした。
そしてエドヴァルドは、静かに結論を出した。
「君はもう下がってくれ」
その声は怒りでも侮蔑でもない。
ただ、合理的な判断。
「戦えない存在は、足手まといだ」
その言葉は、刃よりも鋭く胸を貫いた。
アリアは反論できなかった。
前世でも、そうだったから。
“できないこと”がある人間は、黙って身を引く。
それが正しいのだと、どこかで思ってしまう。
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王城の裏門から外に出されたのは、パーティーから外された数日後のことだった。
聖女の証は剥奪され、勇者でもあり王太子でもあるエドヴァルドとの婚約も白紙となり、わずかな旅支度だけが手渡された。
形式は整っている。
誰も声を荒げない。
誰も彼女を責めない。
だからこそ、虚しかった。
門が閉まる音が、重く響く。
振り返る。
高い城壁。
翻る王旗。
曇天の空。
誰もいない。
誰も、見ていない。
あれほど多くの人が祈り、讃えた聖女は、
静かに“なかったこと”にされていた。
胸の奥が、ひどく静かになる。
悲しい、というより空っぽだった。
存在の輪郭が、薄れていくような感覚。
それでも足は前へ出る。
止まれば、本当に消えてしまいそうだった。
雨が降り始める。
冷たい雫が頬を打つ。
それが涙なのか雨なのか、もう分からなかった。
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森は深く、人気がなかった。
あてもなくただフラフラと歩く道は次第に細くなり、やがて獣道に変わる。
与えられたわずかな路銀はすぐに無くなり、食料は尽き、体力も削られていく。
五日目の夕暮れ、視界が揺れ足元に力が入らなくなってきた。
膝が地面に落ちる。
(また、終わるのかな)
前世の病室が重なる。
白い天井。
人に遠慮する生き方。
今世でも同じなら、何のための転生だったのだろう。
意識が闇に沈みかけた、そのとき。
「死ぬには、若すぎるね」
なんだかしわがれた声が、耳に届いた気がする。
温かな腕が、崩れ落ちる体を支えてくれているような……。
けれどそれがなにかわかる前に世界は、ゆっくりと暗転した。




