伯爵
私が住むアパートメントの、回廊に囲まれた中庭を挟んだ反対側の棟に、その老人は住んでいる。
ピカピカに磨き上げられた革靴、シワひとつないワイシャツ、仕立てのよいジャケットと言う装いに、鷲鼻の険しい彫刻のような顔立ち、その老人がピシリと背筋を伸ばし、威風堂々と歩いてゆく姿には何か近寄りがたい威厳がある。
通りで、カフェで、トラットリアで、よくその老人をよく見かける。
老人はいつも一人で、彼の周りだけ別の時代の、別の世界の空気が漂っている。
ウェーターも店の主人も、敬意を込めて老人を『コンテ』(伯爵)と呼ぶ。
実はこの老人、父方はボローニャの伯爵、母方がオーストリアのハプスブルグ家所縁の貴族という家柄で、ボローニャだけでなく、ローマやオーストリアにも屋敷や城を所有しているのだそうだ。
伯爵・・・
そんな称号はイタリアにはもはや存在しない。貴族階級は遠い昔に消滅し、伯爵や伯爵夫人などと言う呼び名自体が、時代遅れで滑稽なものなのだ。
にもかかわらず、彼にはこれ以上相応しい呼び名はないように思われる。
伯爵はこの古めかしい建物の主要階と呼ばれる2階に住んでいる。
部屋中の天井が華麗なフレスコ画で飾られた豪奢な住居には、コンピュータやファックスは勿論、テレビや洗濯機などの文明の利器は一切なく、冷暖房すらないそうだ。
冷房はともかく、冷え込みの厳しいこのボローニャで、80過ぎの老人が暖房なしでどう冬を乗り切るのだろうと人事ながら心配になったものだ。
さて、俗事にはおよそ縁遠そうに見えるこの浮世離れした伯爵の身辺で何やら不穏な噂を耳にした。
なんでも、この伯爵、この建物の一棟をめぐってローマにいる親戚と壮絶な相続争いを繰り広げていると言うのだ。
伯爵の住むアパートメントは4つの棟から成る15世紀のルネサンス様式の建物で、これらの棟が口の字型に中庭を囲んでいる。
伯爵は元々その内の一棟の所有者なのだが、最近、もう一棟の所有者であった伯爵の従兄が亡くなり、本来なら最近親者である伯爵がこの棟を相続するはずだった。
ところが、従兄が遺言状を残していたために、ローマに住む遠縁の親戚が相続することになったのだ。
ここで伯爵が異議を申し立てた、「遺言状は偽物だ」と
伯爵によれば、若い頃から親交があり、近所に住んでいた従兄の署名を見惑うはずはなく、遺言状にある署名は『絶対に本人の筆跡ではない』と言うのだ。
もし、本当ならこの遠縁は文書偽造を行ったことになり、とても信じられない話だが、イタリアでは遺産をめぐって骨肉争いをするのは日常茶飯事と言うから、あながち老人の妄想ではないのかもしれない。
とにかく、伯爵は従兄の名誉にかけて断固、裁判で戦う決意をした。
ただし、イタリアの民事訴訟は長い。相続争いともなると短くて5年、長いと何十年もかかる。
ちなみに伯爵に子や孫はなく、余計なお世話かもしれないが、老体に鞭打ち、何年かかるか分からない訴訟で戦う意味があるのかと言いたくなる。
今日も中庭で伯爵を見かけた。
寡黙で威厳あるその物腰からは、きな臭い訴訟の渦中にいるとは微塵も感じられない。
毅然とした老伯爵の姿に、失われたイタリア貴族の誇りを垣間見たような気がした。




