28話
實がこの村に来てから10年が経った。その頃には實は、村の一員として穏やかな日々を過ごしていた。
實が村で行ってきた農業開発も最終段階に入り、今では實の農業が当たり前になっていた。それでも数人はまだ實の元へと訪れる。「本物を知りたい」と数日かけて教えを乞う若者に、實も丁寧に応えていた。少しの時間でも若者と話すだけで、實は活力をもらえる気がして嫌いではなかった。元々暇が嫌いだったこともあり、村で農作業をしながら誰かと話ができるこの生活は性に合っていた。
そんな實にも最近いいことがあった。最初に出会ったアンナが22歳になり、ついに結婚が決まったのだった。いつからかアンナが本当の孫娘のように思えていた實にとっては、アンナの晴れ舞台が楽しみで仕方がなかった。心を躍らせて、スルツキに頼んで新しい服を拵えたほどだ。もう二度と着る機会なんてないこともわかっていたのに、新たな装いを作るために、神に頼んでカーボロネロ(黒キャベツ。ケールに似た葉をしている。)という野菜を育てて物々交換とした。
カーボロネロは気候的には作りやすい野菜だが、アブラナ科特有の虫の多さで管理が大変だ。蝶が卵を産みつけて孵化した青虫が葉を食べたり、どこかに潜んでいるナメクジに葉を全部食べられたり。農薬を使わないと虫を避けるのが難しい。
そんな苦労をわかっていながらも、手間をかけて育てて服と交換してもらった。これくらいはしないと対価が釣り合わないと思ったからだ。評判になった時に困るのは實だというのに。
カーボロネロは虫に食われやすい葉物野菜で、種が取れるようになるまで時間もそこそこかかる。それまでに葉をすべて食われてしまったら、種を作ることはできなくなるし、食用と採種用に分けておかないと、種ができる前に病気などによって枯れてしまう可能性もある。年によってはうまく育つ時と育たない時がある。少数農家ではいずれ廃れてしまう。この世界で広めない限りは一時的な植物になる。實もそんなことは理解していたが、村人が今後も育てられる方に賭けた。今までたくさんのことを教えてきたのだから、もういなくなっても大丈夫だろうと。勝手な話だ。
話は戻り、村では全体で結婚披露宴の準備に取り掛かっていた。と言っても、日本のような儀式がたくさんあるわけではなく、披露宴会場にお互いの両親が丹精込めて焼いた硬めのパンに、高血圧になってしまうのではと思うくらいの大量の塩をまぶして、新郎新婦が互いの家族が作ったパンを食べるというもの。その後はただの食事会。
しょっぱい塩パンをなぜ食べるのかというと、「しょっぱくて苦い思い出はこれで最後だ」という意味が込められており、これから始まる結婚生活には幸せが訪れるという暗示だ。
人生の幸せとはそう簡単に手に入るものではないが、まじないをかけること自体は否定しない。おみくじや占いのように、今後の行動に変化が現れて、幸せを感じることがあるからだ。所詮は自分自身がどう思うかが大切であるが、その原因を他の要素から得るのでもいいだろう。何にせよ、ホルモンは分泌されるのだから。
また話が逸れてしまったので話を戻そう。
アンナの結婚披露宴の準備は着々と進んでいた。ティーホン家でもオルロフ家でもパンが焼き上がり、家族によって慎重に会場へと運ばれていた。
その頃の實はというと、まだ式も何も始まっていないというのに会場へ一番乗りで現れ、特にすることもないので、座ってぼーっと空を眺めていた。そんな實を探していたボリスが、實の前に現れた。
「爺さん。こんなところで何しているんだ」
「ああ、少し早く着きすぎてしまってな。時間もあるし、たまにはぼーっとしてみようと思ってな」
「歳でついにボケ始めたのか?」
「失礼な。まだまだ脳も元気だ。それはそれとて、ボリス。何の用だ?」
「ああ、相談というよりも提案になるのだがな。爺さんも結婚式は何度か経験しているからわかっていると思うが、家から会場まで家族全員で歩いてくるのがあるだろ。爺さんはアンナにとっては家族みたいなもんだから、爺さんも参加してきたらどうだ」
實は俯いた。
それもそのはず。この村での結婚式において、入場に同伴できるのは親族のみとなっている。もちろんその輪には入りたいが、こればかりは歴史を穢すことになりかねない。だが、それでもアンナの隣を歩きたいと、實は葛藤していた。
「ボリス……その提案はありがたく嬉しいものだが、わしでは不釣り合いじゃ。やはり親族じゃなければ。昔からそうしてきたのであれば尚更じゃ。わしみたいな者が入って穢したくはない」
「多少なら穢したっていいんじゃないか? ルールなんてものは何かのきっかけでまた変わるんだ。その第一人者になってみるのもいいんじゃないか。それにだ。爺さんが今更入ったところで誰も何も言わんよ。あんたほどの革新者は見たことないからな」
ボリスに背中を押された實は、披露宴会場を離れ、アンナの実家に向かった。
「あら、ヤマさん。どうされたのですか?」
アンナの実家に着くと、アンナの母親がちょうど出てくるところだった。
「アンナに話がしたい。会わせてくれないか?」
「ええ、いいですよ。用意もちょうど終えた頃なので、存分に話してあげてください」
「ありがとう」
ティーホン家のアンナの部屋はよく知っている。何度も訪れて話をしてきたから。だが、今回は最初に来た時よりも緊張していた。アンナの晴れ姿を一番に見ていいのかという葛藤もあり、扉の前に立ち尽くしていた。
やっぱりやめておこう。アンナもきっと迷惑だろうし、何より、晴れ姿を一番に見るべきなのは夫のダリだ。わしではない。
話をするのを諦めて帰ろうと踵を返したその瞬間、勢いよく扉が開いて中からアンナが顔を出した。だがしかし、實はドアノブを腰に当てられてうずくまっていた。
「ヤマ、来てくれたの!」
「ア、アンナ……」
「どうしてそんな場所でうずくまっているの?」
實はアンナに心配をかけたくない一心から嘘をついた。
「少し探し物を……」
「見つかった?」
「ああ。あったあった」
「そう、よかった。それよりも、来てくれてありがとう。ボリちゃんと連れてこられたんだね」
ボリスがやけに背中を押すと思っていたが、主犯はアンナだったのか。思い返してみれば、ボリスらしくはなかった。彼にしては少し強引だったような気がする。アンナの命令だったなら納得がいく。ボリスめ、企んだな。
ボリスの行動を思い返して、何をしても最初からこうなることが決まっていたのかと、實はため息を吐いた。
アンナがここに来ることを仕込んだというのなら、前置きなどはなくても十分。ため息を吐き終わった後に、實はこう言った。
「アンナは、わしが隣を歩くことを納得しているのか?」
「もちろんだよ! ヤマは私の家族みたいなものだから、一緒に歩けたらすごく嬉しいよ!」
アンナの言葉に、實は胸が熱くなった。断る理由など、もうどこにもなかった。あとは村長がどう言うかだが、ニコライならきっと許してくれる。ここは素直にアンナの気持ちを汲み取ろう。
實はアンナの隣を歩くことを決意した。
「アンナ……おめでとう」
「ありがとう、ヤマ!」
アンナが實の元から巣立っていくということを直に感じた實は、感慨深い気持ちになってしまい、涙を流していた。
「ヤマ、泣いてるの?」
「ああ、嬉しくて、ついな」
まさかバージンロードを歩けるとは思っていなかったから、身だしなみは服以外は適当だった。もっと丁寧にしておけばよかった……。
後悔の念に駆られている實だったが、アンナはそんなこと気にしていない様子で、満面の笑みを浮かべていた。
「ヤマがいてくれるだけで、私は十分幸せだよ」
その言葉に、實はまた涙がこぼれそうになった。
この村に来てから10年。たくさんのことがあった。たくさんの人と出会い、別れ、そして今、こうして誰かの人生の節目に立ち会えている。
實は思った。
「わしの人生も、捨てたもんじゃなかったな」
そう呟いた聲は、アンナには聞こえていなかったかもしれない。だが、それでよかった。
空は晴れていた。風は冷たかったが、心は温かかった。
そして、實はアンナの隣に立ち、ゆっくりと歩き出した。
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