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83歳實さん。異世界へ行く!  作者: 倉木元貴


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16話

 ボリスの協力もあって、實の農業は順調に発展していた。

 徐々に實の方法を取り入れる農家も増えており、ユリスの話では、革新主義派のほとんどが實の農法を採用しているという。


 だが、ここまで順調なのも妙な話だと、實の中に猜疑心が芽生えていた。

 實自身も含めて、すべての人を一度疑ってみたくなるほどに。


 この順調さは、何かを忘れているような、どこか間違っているような気がする。

 農法そのものは間違っていないと信じたい。だが、自信を持って言えるほどではない。

 本当に大丈夫なのか。皆が素直に受け入れてくれているが、心の奥では「お節介な老害が来た」と思っているのではないか。

 こんな歳の人間が突然現れたら、普通は気味悪く感じるだろう。


 そんな不安は、常に實の胸に巣食っていた。

 考えすぎる癖もあって、マイナス思考は際限なく広がっていく。


 今日もその不安を抱えながら、ボリスの紹介で知り合った青年・ラントのジャガイモ畑を訪れていた。

 實自身、さつまいもや里芋は育てたことがあるが、ジャガイモは未経験だった。

 しかもジャガイモは、芋が日光に当たると緑色に変色し、かの有名な毒素を生み出してしまう。

 そのため、土寄せを行い、芋が日に当たらないように育てる必要がある。

 成長の途中を直接見ることはできず、地上に出ている葉や茎の様子から判断するしかない。


 基本的な知識は頭の片隅に残っていたが、育てたことがない以上、正常に育っているかどうかは見てもわからなかった。


 春に植えたジャガイモは、夏の前に収穫できる。

 實がこの世界に来たのは夏前。収穫期直前にジャガイモを見てほしいと相談されたが、未経験の野菜の収穫適期など知るはずもなく、額には冷や汗が流れていた。


「少し時間をもらってもいいか?」


「はい。トイレなら、さっき寄った道具小屋にありますので、そこを使ってください」


 尿意も便意もなかったが、實はジャガイモの育て方をどうにか知ろうと、神に頼った。

 神から許されている「日本の道具を持ち込める」最終手段を使うことにした。


 頼んだのは、某有名大学教授が著した『野菜を作るための大図鑑』。

 この本さえあれば、怖いものはない。野菜の生態がすべて載っているはずだから。


 卑怯かもしれないが、神から「この世界の農業を発展させてほしい」と言われている以上、仕方のないことだ。

 そう自分に言い聞かせながら、實は図鑑を開いた。


 ジャガイモ……ジャガイモ……。

 ページをめくり、じっくりと目を通す。

 収穫適期は、茎葉が茶色くなってから。

 ラントの畑のジャガイモは、まだ葉が青々としている。

 つまり、まだ収穫時期ではない。


 よし、そのまま伝えよう。


 トイレの中で本を閉じ、腹に隠した實は、ラントの元へ戻り、図鑑に書かれていた通りの知識を伝えた。


「なるほど! 葉が枯れてからでも大丈夫なのですね! ありがとうございます。収穫までもうしばらく待ってみます!」


「あ、ああ……」


「聞いていたとおり、實さんは頼りになりますね」


「は、はは……」


 後ろめたさはあった。

 本に書かれていることをそのまま話しているだけなのだから。


 このままでいいのだろうか。

 これで、この世界の農業が発展していくのは、自分のおかげになるのだろうか。

 卑怯な手だと、神に叱られはしないか。


 ラントのいないところで、實の不安は急激に膨らんでいった。

 誰でも読めるように、集会所にでも置いておこうか――そんな考えも浮かんだが、この村の人間が實の持っている本を読めるわけではないことを、すっかり忘れていた。


 そして、實は本の置き場所にも困っていた。

もしボリスがこの本を見てしまえば、自分という存在の必要がなくなる。

 それに、ズルをしていたこともバレてしまう。


 かといって、隠せる場所もない。

 ボリスから借りている部屋は寝室として最低限の設備しかなく、ベッドくらいしかない。

 漫画に出てくる青年男子のように、ベッドの下に大切なものをしまうのは、誰もいないのに恥ずかしい。

 こんな歳になって、こんな体験をするとは――。


 實は静かに追い詰められていた。

 誰に責められるでもなく、勝手に一人で自分を追い込んでいた。


 そのせいで、この日の夕食は喉を通らなかった。

 アンナやその両親に「何か病気では」と心配され、年齢もあって「死期が近いのでは」と噂される始末。

 聞こえないようにこそこそと話されていたが、實の耳は悪くなく、すべて筒抜けだった。


 農業の発展にはまだ寄与できていない。だから、まだ死ぬわけにはいかないのに――。


 だが、これは村の人間のみならず、實自身も知らない真実だった。


 實はこの世界では、死ぬことができない。

たとえ魔物に襲われようとも、重大な病を患おうとも、自ら命を絶とうとも。


 實が再び雲の上の世界に戻るには、自ら鈴を鳴らすか、神の采配によるか――その二択しかない。


 この真実を實に伝えなかったのには、訳がある。

 死なない体になっていることを伝えると、誰しも一度は試す。

 無謀な挑戦をしたり、実験のように死のうとしたりする。


 神に作られたこの世界では、神の采配によってすべてが決められている。

 實や村人を生かすも殺すも容易いこと。生き返らせることも容易い。

 だが、何をするにせよ、燃料というものは消費される。

 特に、人を生き返らせるには多くの燃料を使う。

 できれば多くは使いたくない。實をこの世界に連れてくるだけでも、かなりの量を消費した。

 これ以上は節約したい――それが神の本音だった。


 また、生き返ることは可能でも、痛みは感じる。

 魔物に襲われれば、なおさらだ。

 これは後付けの理由かもしれないが、嫌な思いを少しでも減らすため、神は黙っている。


 多くを語らず、その者の行く末を静かに見守る。

 そう語れば、神の流儀のように聞こえるかもしれない。

 だが、神はそんな優しい存在ではない。


 転生する人間に特殊な能力を授け、良い道に進むのか、悪い道に進むのか――

 神はただ、それを眺めている。

 その行く末を、静かに、時に面白がりながら。


 實もまた、そうした一人だった。

 この世界に呼ばれ、農業という使命を与えられ、知識と経験を活かす機会を得た。

 だが、彼はまだ知らない。

 自分が「死なない」という特異な存在であることも、その背後にある神の思惑も。


 そして今日もまた、實は悩みながら眠りにつく。

 図鑑を抱え、ベッドの下に隠すかどうかを迷いながら。

 誰にも見られたくない、けれど誰かに見てほしい。

 そんな矛盾を抱えたまま、静かな夜が更けていく。


 外では虫の声が鳴き、風が畑を撫でていた。

ジャガイモの葉はまだ青く、収穫の時を待っている。

 この村もまた、實の知恵を待っている。

 それが本からの知識であろうと、彼の経験であろうと――。


 神は、雲の上からその様子を見ていた。

 何も語らず、ただ、次の展開を楽しみにして。


 そして、物語はまた一歩、進んでいく。

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