16話
ボリスの協力もあって、實の農業は順調に発展していた。
徐々に實の方法を取り入れる農家も増えており、ユリスの話では、革新主義派のほとんどが實の農法を採用しているという。
だが、ここまで順調なのも妙な話だと、實の中に猜疑心が芽生えていた。
實自身も含めて、すべての人を一度疑ってみたくなるほどに。
この順調さは、何かを忘れているような、どこか間違っているような気がする。
農法そのものは間違っていないと信じたい。だが、自信を持って言えるほどではない。
本当に大丈夫なのか。皆が素直に受け入れてくれているが、心の奥では「お節介な老害が来た」と思っているのではないか。
こんな歳の人間が突然現れたら、普通は気味悪く感じるだろう。
そんな不安は、常に實の胸に巣食っていた。
考えすぎる癖もあって、マイナス思考は際限なく広がっていく。
今日もその不安を抱えながら、ボリスの紹介で知り合った青年・ラントのジャガイモ畑を訪れていた。
實自身、さつまいもや里芋は育てたことがあるが、ジャガイモは未経験だった。
しかもジャガイモは、芋が日光に当たると緑色に変色し、かの有名な毒素を生み出してしまう。
そのため、土寄せを行い、芋が日に当たらないように育てる必要がある。
成長の途中を直接見ることはできず、地上に出ている葉や茎の様子から判断するしかない。
基本的な知識は頭の片隅に残っていたが、育てたことがない以上、正常に育っているかどうかは見てもわからなかった。
春に植えたジャガイモは、夏の前に収穫できる。
實がこの世界に来たのは夏前。収穫期直前にジャガイモを見てほしいと相談されたが、未経験の野菜の収穫適期など知るはずもなく、額には冷や汗が流れていた。
「少し時間をもらってもいいか?」
「はい。トイレなら、さっき寄った道具小屋にありますので、そこを使ってください」
尿意も便意もなかったが、實はジャガイモの育て方をどうにか知ろうと、神に頼った。
神から許されている「日本の道具を持ち込める」最終手段を使うことにした。
頼んだのは、某有名大学教授が著した『野菜を作るための大図鑑』。
この本さえあれば、怖いものはない。野菜の生態がすべて載っているはずだから。
卑怯かもしれないが、神から「この世界の農業を発展させてほしい」と言われている以上、仕方のないことだ。
そう自分に言い聞かせながら、實は図鑑を開いた。
ジャガイモ……ジャガイモ……。
ページをめくり、じっくりと目を通す。
収穫適期は、茎葉が茶色くなってから。
ラントの畑のジャガイモは、まだ葉が青々としている。
つまり、まだ収穫時期ではない。
よし、そのまま伝えよう。
トイレの中で本を閉じ、腹に隠した實は、ラントの元へ戻り、図鑑に書かれていた通りの知識を伝えた。
「なるほど! 葉が枯れてからでも大丈夫なのですね! ありがとうございます。収穫までもうしばらく待ってみます!」
「あ、ああ……」
「聞いていたとおり、實さんは頼りになりますね」
「は、はは……」
後ろめたさはあった。
本に書かれていることをそのまま話しているだけなのだから。
このままでいいのだろうか。
これで、この世界の農業が発展していくのは、自分のおかげになるのだろうか。
卑怯な手だと、神に叱られはしないか。
ラントのいないところで、實の不安は急激に膨らんでいった。
誰でも読めるように、集会所にでも置いておこうか――そんな考えも浮かんだが、この村の人間が實の持っている本を読めるわけではないことを、すっかり忘れていた。
そして、實は本の置き場所にも困っていた。
もしボリスがこの本を見てしまえば、自分という存在の必要がなくなる。
それに、ズルをしていたこともバレてしまう。
かといって、隠せる場所もない。
ボリスから借りている部屋は寝室として最低限の設備しかなく、ベッドくらいしかない。
漫画に出てくる青年男子のように、ベッドの下に大切なものをしまうのは、誰もいないのに恥ずかしい。
こんな歳になって、こんな体験をするとは――。
實は静かに追い詰められていた。
誰に責められるでもなく、勝手に一人で自分を追い込んでいた。
そのせいで、この日の夕食は喉を通らなかった。
アンナやその両親に「何か病気では」と心配され、年齢もあって「死期が近いのでは」と噂される始末。
聞こえないようにこそこそと話されていたが、實の耳は悪くなく、すべて筒抜けだった。
農業の発展にはまだ寄与できていない。だから、まだ死ぬわけにはいかないのに――。
だが、これは村の人間のみならず、實自身も知らない真実だった。
實はこの世界では、死ぬことができない。
たとえ魔物に襲われようとも、重大な病を患おうとも、自ら命を絶とうとも。
實が再び雲の上の世界に戻るには、自ら鈴を鳴らすか、神の采配によるか――その二択しかない。
この真実を實に伝えなかったのには、訳がある。
死なない体になっていることを伝えると、誰しも一度は試す。
無謀な挑戦をしたり、実験のように死のうとしたりする。
神に作られたこの世界では、神の采配によってすべてが決められている。
實や村人を生かすも殺すも容易いこと。生き返らせることも容易い。
だが、何をするにせよ、燃料というものは消費される。
特に、人を生き返らせるには多くの燃料を使う。
できれば多くは使いたくない。實をこの世界に連れてくるだけでも、かなりの量を消費した。
これ以上は節約したい――それが神の本音だった。
また、生き返ることは可能でも、痛みは感じる。
魔物に襲われれば、なおさらだ。
これは後付けの理由かもしれないが、嫌な思いを少しでも減らすため、神は黙っている。
多くを語らず、その者の行く末を静かに見守る。
そう語れば、神の流儀のように聞こえるかもしれない。
だが、神はそんな優しい存在ではない。
転生する人間に特殊な能力を授け、良い道に進むのか、悪い道に進むのか――
神はただ、それを眺めている。
その行く末を、静かに、時に面白がりながら。
實もまた、そうした一人だった。
この世界に呼ばれ、農業という使命を与えられ、知識と経験を活かす機会を得た。
だが、彼はまだ知らない。
自分が「死なない」という特異な存在であることも、その背後にある神の思惑も。
そして今日もまた、實は悩みながら眠りにつく。
図鑑を抱え、ベッドの下に隠すかどうかを迷いながら。
誰にも見られたくない、けれど誰かに見てほしい。
そんな矛盾を抱えたまま、静かな夜が更けていく。
外では虫の声が鳴き、風が畑を撫でていた。
ジャガイモの葉はまだ青く、収穫の時を待っている。
この村もまた、實の知恵を待っている。
それが本からの知識であろうと、彼の経験であろうと――。
神は、雲の上からその様子を見ていた。
何も語らず、ただ、次の展開を楽しみにして。
そして、物語はまた一歩、進んでいく。
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