14話
明日は早起きをしよう。そう決めた實は、いつもよりも早く布団に入った。だが、習慣というものはそう簡単に変えられるものではない。目を閉じても、眠気は一向に訪れず、ただ時間だけが過ぎていく。
この世界には時計という文化がない。真っ暗な部屋の中、目を開けてみても、今が何時なのかはわからない。それでも、今眠らなければ明日は起きられない――その焦りだけが胸の内に広がっていた。
何かして気を紛らわせようか。そう思っても、この世界に持ち込んだ物は限られていて、暇を潰す道具など何もない。新聞でもあれば……とふと頭をよぎったが、神から言われた「農業に関するものしか持ち込めない」という制約が思い出され、諦めるしかなかった。
農業新聞などというものは存在しない。企業が発行する農業雑誌を読もうかとも思ったが、そこに書かれているのは最新資材を使った栽培法ばかり。この地でその資材を作ることができなければ、技術の発展にはつながらない。むしろ、楽な方法に頼って怠けてしまえば、農業は衰退してしまうかもしれない。
「はあ……」
深く大きなため息を吐きながら、實は腕で目を覆った。新聞ひとつを考えていただけなのに、気づけば村の未来まで思い悩んでいた。これでは本末転倒だ。もう何も考えずに目だけを閉じよう。眠れなければ、徹夜になっても仕方ない――そう心に決めて、ぼんやりと横になった。
そして、ふと気づけば朝日が差し込んでいた。目の前にはアンナの姿がある。また寝坊してしまったのか。アンナの表情を見て、實はそれを悟った。
「アンナ。日はどれほど上がっている?」
「まだ山から顔を出したばかりだよ。ヤマさん、今日は起きるの早かったね」
「そうか……」
「朝食はできているから、早く食べてお仕事頑張ってね。またボリが待っているよ」
「すまんな。そうさせてもらうよ」
實は服を着替え、用意されていたパンとスープを一気に平らげると、ボリスの元へ向かった。本当は走って行きたいほど急いでいたが、スープが胃の中から込み上げてきてしまい、走ることは断念した。
ボリスの畑に着くと、彼の第一声は「遅かったな」だった。
「すまない。最近はなぜか朝が起きられなくてな。そんなことよりも、早速始めようか」
「ああ、そうだな」
前日に残した畝はたったの二つ。日が真上に昇る前に作業を終えるのは容易だった。ネットを張るのが遅れた分、葉に青虫がついていたが、それを取り除きながら作業を進める。そして、すべてが終わったのは太陽が真上に昇る前だった。
「思ったよりも早く終わったな」
「ああ、ボリスとユリスのおかげじゃ」
「いえいえ、そんな。僕の畑なのに手伝ってくれてありがとうございます。ヤマさんのおかげで、今年はいい大根が収穫できそうです」
ユリスの嬉しそうな顔を見て、實も自然と笑みがこぼれた。日本にいた頃は、収穫した野菜を渡して感謝されることはあっても、指導する立場ではなかった。この異国の地で、農業の知識が役立つとは思っていなかっただけに、實は少し驚いていた。
「いい大根ができたのなら、おでんでもして食べるか、沢庵でも作りたいな」
實がぽつりと呟いた言葉に、ボリスとユリスが固まった。
「……爺さん、今何を食べたいって言ったんだ? 聞いたことないものが聞こえた気がしたぞ」
實にとっては馴染み深い料理だったが、この地には存在しない。彼は目を丸くして驚いた。
「おでんを食べたことがないと……?」
「だからなんだよ、その食べ物。初めて聞いたわ」
「あの出汁の効いたおでんを食べたことがないと?」
「ないって。聞いたことのないものを食べたことあるわけないだろ」
それもそうか。實は我に返った。
「沢庵もこの国にはないのか?」
「ないな。聞いたこともない」
「では、漬物ではどうだ。それくらいならあるであろう」
「ああ、漬物ならあるが、酢で漬けてあるから俺は苦手なんだよな」
米糠で漬ける沢庵は、この地では作られていないようだ。勿体ない。沢庵はあんなにも美味しいのに。最近では食パンに乗せて食べるのも流行っているという。この村でも流行りそうな気がする。簡単に作れるものではないが、實はどうしても沢庵が食べたくなった。
彼の頭に浮かんだのは、沢庵を漬けるための条件だった。まず、米糠がない。この村では米作りは行われているが、食べるのは玄米で、精米はしない。精米する技術も機器もない。次に、漬けるための容器がない。米糠は雑菌が繁殖しやすく、虫も集まりやすい。木製の桶では、食べる前に虫に食べられてしまう。
「そうだ、全部神に頼もう。それが一番安全で簡単だ」
そう閃いた實は、帰宅後すぐに神に願いを届けることにした。
◇◇◇
畑仕事を終え、ボリスの家に戻った實は、鈴を鳴らして神に願いを伝えた。頼んだのは、塩、砂糖、糠漬け用の米糠、蓋付きの入れ物、そして重し用の石。これだけあれば、沢庵を漬ける準備は整うはずだ。
あとは、漬けた大根を置く場所。沢庵は独特の強い匂いがある。村の家々は離れて建っているため、大きな問題にはならないだろうが、軽い異臭騒ぎくらいにはなるかもしれない。気温の関係もあるため、できるだけ日当たりの悪い場所で、寝室からも遠いところが望ましい。
ボリスの家の周辺を見渡すが、条件に合う場所は見つからない。西側には洗濯物を干す場所があり、北側は壁が狭い。北に置けば洗濯物に匂いが移るかもしれない。東側には玄関があり、異臭問題が大きくなる可能性がある。南側は日当たりが良すぎて、腐敗の危険がある。
「ボリスの家にも、日本家屋みたいな土間があればいいのにな……」
そう考えながら、實はとりあえず自分の部屋に道具だけを置いた。




