12話
お昼の休憩後、外に出ると、朝の晴れ渡っていた空とは打って変わって、今にも雨が降りそうな分厚い灰色の雲が空を覆っていた。
空の表情が変わると、帽子が飛ばされそうになるほどの風が畑の上を駆け抜けていた。
實たちのこれからの予定は、朝に畑へ挿しておいたダンポールに不織布のネットをかける作業だったが、この作業は風が強いと難しい。1人で作業するなら、秒速3メートルの風でも不織布やネットが風に煽られて苛立ちが込み上げてくる。だからといって、作業を1つ1つ丁寧に行っていては時間がかかりすぎて終わりが見えなくなってしまう。広い土地ならなおさらだ。せめてもう1人欲しいと思いながら、實も日本では作業をしていた。
今の強風を前に、實は尻込みしていた。いっそのこと、明日にしてしまってもいいのではないかと、半ば諦めかけていた。そんな實の脳裏に浮かんだのは、数年前の春分を前にした3月半ばのことだった。
まだ寒さが残っているから虫の心配はないと高をくくって二十日大根を直播し、観察もろくにせず放置していたところ、畑の隅にほとんど葉のない二十日大根が出来上がっていた。無惨なことに、残っていたのは若葉と茎だけだった。
実は、芋虫は特性上、葉を食べるが茎はほとんど食べない。だから葉を食べ尽くされると、元からそうであったかのように茎だけが残り、一見すると枯れ木のようになってしまう。こうなってしまった場合、ここから回復することは不可能で、生えてきている若葉に光を当てて光合成を促し成長を手助けするか、諦めて抜いてしまうかしか手はない。前者の場合はとう立ちする可能性も高く、あまりおすすめはできないが、小さい蕪程度なら収穫は可能だ。それでも、抜いてしまって別の何かを植える方が良いこともある。結局のところ、必ずしもどちらが正解ということはない。人間が自然を完全にコントロールすることは不可能だからだ。もしかすれば、二十日大根は小さいながらも収穫できるかもしれないし、収穫できないかもしれない。未来の、しかも自然が絡むことの予測は難しい。
それでも實がとった行動は、虫を排除し、若葉に光合成を促して成長させることだった。理由は2つある。1つは、せっかく植えた種だから、芽が出ているのに抜いてしまうのはもったいないと思ったから。もう1つは、今二十日大根を抜いてしまっても植えるものがなく、空き地にしてしまうのもまたもったいないと、言わば放置に近い形で経過を観察していたからだ。農薬の代わりに薄めた酢を振りかけ、葉の裏についていた黄色くて小さな卵は手で全部取り除いた。それでも若葉を目掛けて、緑や黒の芋虫が葉についていた。毎日のように割り箸で芋虫を取っていたが、次第に若葉まで食われ始め、短い時間で二十日大根は枯れてしまった。
實の経験から言って、ここで諦めてしまったら、また芋虫を取る作業から始めなければならない。ただでさえ根気のいる作業なのに、それを繰り返すなんて、体力よりも精神力が持たない。そう考えた實は、強硬策をとった。
「時間がない。2人とも急いでカバーをかけるぞ」
實1人がやる気を出しても、残りの2人がやる気を出さなければ不織布をかける作業は捗らない。ボリスとユリスは強風の中、立ち止まっていた。ボリスに至っては、睨むような視線を實に向けていた。
「そうは言ってもよ、爺さん。こんな風の中でかけるのかよ。俺の玉ねぎの時だって、少し風が吹いただけで飛ばされそうになってたじゃねえか。明日じゃダメなのか?」
ボリスの疑問はもっともだ。實の経験や事情を知らなければ、明日に回した方が楽だと思うだろう。だが、それをしてしまっては、實のように全てを枯らしてしまうことになりかねない。
今は曇りだが、いつ大粒の雨が降ってくるかもわからない状況。實が経験したことを悠長に話している時間はない。早く納得してもらうには、脅すように言葉を紡ぐしかない。
「この大根にまた虫がついて、割り箸でつまむ作業をまた繰り返したいのじゃったらそれでも構わんが、わしはもうしないぞ。あの作業だけは絶対にしないぞ」
實の言葉に、ボリスは言い返すことができなかった。まさか、今まで大人らしい言葉を言ってきた實が、ここにきて子供のわがままのようなことを言うとは思っていなかったからだ。
「わ、わかったって。爺さんがそこまで言うのなら、大変なことになるってことだよな。なら今やるしかねえってことだな。ユリスも急いで作業を進めるぞ」
「は、はい!」
これでいい。これであの大惨事だけは避けることができる。葉を全部食べられた大根を見るのは心が痛むから。 涙を流すほどではないが、「あ、枯れちゃった……」と胸が少し痛む。そして、抜くのか抜かないのか悩んでしまって、荒地になってしまう。
一度雑草を生い茂らせると、これがまた面倒なことに、草抜きから始めて、土壌の消毒をして、有機物を漉き込んでしばらく放置……といった工程を踏まなければならなくなる。
草だらけの畑は、草に栄養を取られてしまって真っ直ぐ育たなかったり、弱々しい野菜を作ってしまう。そんな野菜を目掛けて虫が集まり、食害され、食われた場所から土壌菌の餌食にもなり、病気を発症しやすくなる。その悪循環に、何度泣かされたことか。
だから、今こうして風に煽られながら3人で必死に不織布をかけていることには意味がある。だけど、ベタかけにするべきだったと實は後悔していた。
ベタかけにするなら、ダンポールを何本も挿さずに済んだのに。風は相変わらず強いけれど、端を埋めながらベタかけしていけば、なんとか1人でもできないことはなかった。 結果論ではあるが、面倒なことに巻き込んだことを特に悔いていた。それに、ダンポールも何年も使えるとはいえ、物である限りいずれ壊れる。壊れたときの代用も他のもので済ませるのは難しくなる。まずはベタかけを教えてから、ダンポールを使ったトンネルの方法を教えるべきだった。今さらながら、そんなことも思っていた。
考え事をしながら作業を進めていたため、實が思っているよりも作業の進捗は遅かった。おまけに風も強く、慣れない2人もいる。もう諦めてしまおうか。明日の朝早くに不織布をかければ、被害も最低限に抑えられるはず。進まない作業に、實はマイナス思考になっていた。自然と手の動きが鈍くなり、ため息が多くなる。その最中で飛ばされそうになる帽子が、さらにやる気を削いでいた。
實は被っていた麦わら帽子を背中にかけ直し、顎紐で飛ばないように腹に固定した。煽られるほどの髪の毛がない實にとって、晴れの日でない限り帽子は関係なかった。これで作業効率が上がったと思われたが、やはりやる気の方が出てこない。だらだらと作業している間に、灰色の雲から雨が降り始めた。
「爺さんどうするよ。こりゃ、そうしないうちに本降りになるぞ」
「本降りになったらおしまいじゃ。それまでにできるだけ多くつけるのじゃ」
「わかった。ユリス。スピード上げるぞ」
「はい!」
慣れない2人がやる気を出していたが、實はそうではなかった。やる気が出ない分、ただ黙々と作業をすることには集中できていた。ため息を漏らしながら作業を進めていると、雨が強く降り始めた。作業はまだ半分近く残っているというのに。
「爺さん。そろそろ終わりにするぞ」
「そうだな」
最後にかけている不織布に土を被せようとするが、雨の影響ですぐに元の場所に戻ってしまいそうだった。このままでは不織布が風に飛ばされてしまう。もしこの状態で不織布が飛ばされたら、今日行った作業のすべてが無駄になるだけでなく、風に煽られた不織布やダンポールの影響で葉や実を傷つけてしまうなど、二次的被害を受けるかもしれない。ここは重しを置くべきだ。
實はそう考えて、ボリスに重しについて尋ねた。
「土を被せるだけでは不十分かもしれん。重しの石はないのか?」
「石ならそこら辺にいくらでも落ちている」
「よし。ではそれを使って端を押さえておくぞ」
「わかった。それで今日のところは終わりだな」
實は無言で頷いた。その姿を見て、ボリスはユリスに指示を出し、2人で石を集め始めた。その頃、實は今にも飛ばされそうな不織布を足で踏んでいたため、動くことができなかった。そんな實が動けるようになったのは、ユリスが少し心許ないが手のひらサイズの石を足元に置いてくれたからだった。
不織布が飛ばない程度に石を置き終えた3人は、一目散に建物の中に避難した。
「今日はこれ以上できなさそうだな」
「そうじゃな。今日はもう終いじゃな。明日の朝早くに残りの大根にかけておけば大丈夫じゃろう」
その後も雨は止むことを知らず、夜遅くまで降り続けた。この時の實は、まだ畑の水捌けの悪さのことを知らなかった。




