10話
この異国の地に来てから2回目の朝を迎えた。實は日本にいた時には早起きな方だったのだが、どうしても毎朝アンナの方が先に起きている。
そんな今日も朝はアンナに起こされた。それも、ボリスの家にいるというのに。
「アンナは朝早いんだな」
「そんなことないよ。ヤマが遅いだけだよ」
そんなことはないだろうと朝食も摂らずに外に出ると、太陽は45度くらいの場所にいた。確かにアンナの言うとおり、實の起きる時間が遅いみたいだ。
どうしてこうなってしまったのだ。實はため息を吐きながら天を仰いだ。
今日から生活のスケジュールを改めて早めに寝よう。そう心に誓った。
♢♢♢
この地に来て3日目の仕事は、ボリスの畑の手伝いだった。
手伝いといっても草刈りや土寄せなどの雑用。日本にいるときも同じようなことをしていたから苦に思ってはいないが、こんなことで農業の発展には寄与できているのだろうかと苦悩はしていた。
だからと言って、何か革命的なものが思い浮かんでいるわけではない。神の言っていた、物をこの地に持ってくるのも、どこまでの物を持ってくるべきなのかも悩んでいた。単純な話、農薬や除草剤、展着剤などをこの地に持ってくれば革命は簡単に起きる。だが、それは農業の発展に寄与したと言えるのか。化学的な農薬などは、この地で作ることはできないだろうから、一時的にしか農業を発展させることができない。實自身は化学的な農薬を作ることはできないし、農薬を使うことを覚えてしまうと、手を抜いてしまって逆に衰退させる恐れがあるから。
實はそこに悩んでいた。
何かこの地でも作れる現代のものがあればいいが、せいぜい堆肥か腐葉土を作るくらい。どちらも畑に漉き込まないと使い道が少ないものだ。それに、失敗した時は鼻を押さえたくなるような異臭に満たされるから安易に手は出したくない。大抵は放っておけば出来上がるものだが、自然界では何が起こるのかわからないもの。
安易に手を出さない方がいいかと消極的になっていた。
他に何かいいものがあれば……と考えるが、今のところ思いつくことはなく、しばらくはボリスの手伝いに徹しておこう。もし、何か相談されることがあったら、その時は現代の便利な道具を使って解決策を見出そう。
そう思っている實だが、ボリスのことで少しだけ反省している。それは、ダンポールとビニールを出してしまったことだ。
そのどちらも、この地では作ることが不可能。ダンポールは基本的に何回でも使うことができるが、ビニールに関しては普通は1回、数回使えば限界だ。これから先のことを考えると出すべきではなかった。
そんなことも災いして實は消極的になっていた。
だが、今のこの生活を嫌だとは思ってない。日本にいた頃のような生活ができているから、このままでも良いとも思っている。追放されたらその時は鈴を振るだけだし、何もしないのは気持ち悪いし、とにかく何か、なんでも良いから身体を動かしながら時間を潰せる。それくらいでちょうどよかった。
このまま何もなく時間だけが過ぎ去ってくれたら良いのに。そう思うようになっていたが、實の役割は農業発展の寄与、運命はそう簡単に変わったりはしない。
「爺さん。少しだけいいか。俺の友人で畑をしている奴がいるんだ。そいつの畑も見てやってくれ」
お世話になっているボリスの言っていることを断ることなどできず、新しい畑を見にいくことになった。
ボリスの話によると、見てほしいと言っている畑の持ち主は、ユリス・クリットという青年で、スルツキとは同い年だそうだ。
育てている野菜は主に根菜で、夏の前の今は大根を植えている。ただ、最近はどうも形が揃わなかったり、傷ができていたりと悩みを抱えているそうだ。
ボリスの後をついて行く道中、大根を過去に育てていた時のことを思い出していた。
實も過去に大根は何度も失敗している。ほとんどの原因が虫による食害であるが、その中で小さな無数の傷を見たこともあった。知り合いの農家に聞いたりしてみたが、結局原因は掴めずじまいだった。もし、同じようなものなら解決するのは難しいかもしれないと考えていた。
無数の傷ができていないことを願いつつ、大根ならまたダンポールが必要かもしれないと、そんなことも考えていた。
「ここがユリスの畑だ。そんでこいつがユリスだ」
大根畑の畝間を葉を踏まないように慎重に歩いて向かってきた青年が帽子をとりながらお辞儀をしてこう言った。
「どうも初めまして。ユリス・クリットです。ルキとは同い年で、畑の相談も聞いてもらってます。そんなルキがお勧めするくらいなので期待してますよ」
差し出していた手を握って軽く握手を交わすと、ユリスは1番近くにあった大根を1本抜いて見せた。
「最近抜いた大根がみんな曲がっていたり、葉っぱの内側だけが食べられていたり、蜘蛛の巣みたいなのがつけられていたり、これじゃ自分で食べるにしてもいとわれる。解決方法があるのなら教えてほしいです」
ユリスが抜いた大根を受け取り、大根の形を見つめる。
大根は直根の少し上付近から曲がっている。この原因は1つ。土の硬さ。下の方がちゃんと耕せていないだけ。根菜系は深くまで耕さないと曲がったり細くなったりするのが多いから大変だ。
目安としては30センチくらいはと言われているが、手で掘り起こそうとしたら結構な重労働。實が日本で使っていた耕運機も小型のもので30センチも深くは耕せなくて、一般的に流通している大きめの青首大根は早々に諦めて蕪や赤大根、聖護院大根を育てていた。そんな経験もあり、蕪を勧めるのも悪くはないと思っていたが、ユリスはまだ若いから、深くたがやかすことは容易だろうと、蕪を勧めるのではなく対処法を教えることに決めた。
「大根が曲がってしまうのは土をちゃんと耕せてないからじゃ。この大根を見る限り、途中まではしっかりと耕せていそうじゃが、それよりも奥、この直根の付け根辺りの深さが耕せていないだけじゃ」
「なるほど。大根はそんな深くまで耕さないと臍を曲げてしまうってことですね。奥が深いですね」
「………………」
ユリスのテンションについていけない實は何も言わずに今度は、大根の葉をちぎって芯だけ残った状態を見せた。
「ここに幼虫がいるのは見えるか?」
「ええ、芋虫が」
「この幼虫はハイマダラノメイガという蛾で、通称ダイコンシンクイムシと言われている。この蜘蛛の巣のようなものもこいつの仕業じゃ。こいつが厄介なのは、見つけづらい上に、芯付近の若葉ばかり食べることじゃ若葉がなくなれば今度は近くにある大きな葉から食べる性質も持っている。虫に食われた葉っぱは光合成ができなくなって生育が悪くなる。既に葉についてしまっているのなら、1匹ずつ取っていくしかない」
と言いつつも、本当は農薬を使う解決方法を知っている。だが、安易に農薬を出してしまえば、これからもずっと農薬に頼ってしまう。實は自身がいなくなってもここにあるものでどうにか乗り切ってほしいと、わざと言わなかった。
そんな實でも、虫の忌避に便利な農薬を使い続けてきたから、今の打開策が対症療法でしか思いついていなかった。昔小さい畑をしていた時、農薬を買いに行くのが億劫になってしまい割り箸でなんとか凌いだことがあり、できないことはないであろうと思いながらも、広範囲の場合には単に労力を使うだけだから、おすすめはしたくなかったが、農薬を使うか虫を取るか、その2択しか思いついていなかった。農薬を出さなかったのはそれを誤魔化すためでもあった。
昔を思い出しながら神の力を使って割り箸を出した實。それをボリスやユリスに差し出した。
「これを使って虫を取り除いていくぞ」
實から割り箸を受け取っていた2人はポカンとしていた。
それもそのはず。割り箸はおろか、箸という物の存在を2人が知っているわけもなく、ただの木の棒を渡された感覚になっているからだ。
こんな木の棒1本でどうやって芋虫を取り除くんだ、普段使わない者にとっては当たり前の疑問だった。だが、實は2人が箸の使い方をわかっていないことをわかっていない。勝手に割って、かろうじて見える目を使い、先に芋虫を探していた。
「おい爺さん待てくれよ!」
「うん?」
「この棒どうやって使うんだよ! 先に勝手にされても困るって!」
今度は實が首を傾げた。
「どうって、箸じゃから割って掴むだけじゃ?」
「いやだから、そのハシって物の使い方がわかんねえって言ってんの。割って掴むってどういうことだよ。てかこれ割れんのか?」
「ああ、切れ目の少し上を持てば綺麗に割ることができるぞ」
「ってそうじゃなくて、使い方を丁寧に頼むよ。こんな未知の道具出されたって使い方わかるわけないだろ」
ここまで言われても實はまだ気が付かない。昨日もその前の夜も、食事の際はずっとスプーンとフォークを使っていたことを。
「未知とは? 箸なんざ毎日使っておるじゃろ?」
「使ったことねえよ。そもそもハシってなんだよ」
ボリスにこう言われて、初めて箸というものがこの異国の地にはないことを知った。日本にいた頃には、日本は箸を普通に使う、その他の国ではほとんど使われない。頭の片隅には入っていたことだが、長い間日本で箸を使う生活をしていたため、当たり前すぎて何も感じていなかった。
箸がないことを失念していた實にとって箸を使わないと言われた衝撃は凄まじく、持っていた箸を落としてしまい、開いた口が塞がらなくなっていた。
「は、箸は……こうして使って、ご飯を食べるものなのじゃ……じゃがこうして、他にも使えたりするんじゃ……」
「ハシについての説明はいいから先に使い方を教えてくれ」
箸を使わないことに混乱した實は自身が何を言っているのかをわかっておらず、頭が混乱して何故か箸についての説明をしていた。ボリスにはしの使い方を説明してほしいと言われ、少しだけ落ち着きを取り戻していたが、混乱している頭が手を震わせていた。
「は、割り箸は……ここを持って、左右に引っ張ればこうして2本になる……それをこうして、つまむように持って、 先端で挟んで芋虫を取るんじゃ。ほらこうやって」
實が実演してみせるもボリスとユリスは箸を使うことはできなかった。
「わかんねえ。どうやって使うのが正解なんだ」
「ヤマさん簡単に挟むと言ってますけど、そもそも挟めないのですけど……」
「挟もうとしたら棒が指の後ろで交わってしまうんだが、これはどうしたらいいんだ?」
「それは……慣れじゃ」
小さい頃から箸を使っていた實にとって、箸の使い方を指導することは容易ではなかった。もはや身体の一部のように箸を使ってしまっているせいで、小さい頃にどうやって習得したのか記憶に残っていなかった。
ボリスは肩を落としてため息を吐きながら、不器用にも箸を使い始めた。そんなボリスの姿を見て、ユリスも黙って箸の練習を始めた。
練習を始めたのも束の間。ボリスが箸を地面に落とした。これは偶然ではなくわざとだ。
「あー! 指で取ったほうが早い」
大根の葉の中心にいる芋虫を素手でつかみ上げようとしていたボリスの腕を掴んでボリスの行動を止めた。
「待て。焦るな、ボリス青年よ」
「なんだよ。爺さん」
「芋虫の種類によるが、触るだけでも皮膚が気触れるやつもいるから素手で触るのはやめておくんじゃ。わしも治療なんざできんぞ」
實の言葉に恐れ慄いた訳ではないが、真剣にことを言う實の言葉を信じ触ることをやめた。
ボリス自身、毒の存在を知っていることは知っているが、どんな動植物に毒があるのか、その情報を知らない。だが、山の中で植物には不用意に触らないと言う村に伝わる教えだけは守っている。その教えと實の言葉を重ねた上で、触らないほうがいいと感じて素手で触るのをやめたのだ。
「爺さん。これ終わるのか?」
「終わることはないかもしれんが、方法がこれしかない。地道な作業が続いていくが仕方ない」
そう言う實も、このひたすら芋虫を取る作業に飽き飽きして、この作業をずっと続けるのは嫌だと思っていた。もう農薬を出してしまえば解決するのに。と思いながらも、それだけは絶対にダメだと石のように硬い意志を持っていた。
だが、作業は終わらない。畑の先を見て現実を思い知らされる。まだまだ3分の1も終わっていない現実を。
ため息を吐きたい気持ちだが、いくらため息を吐いたところで作業量が減る訳ではない。そう思っていると、またため息を吐きたくなる。こんなことをもうすでに5回は繰り返している。そんなことを思うとまたため息を吐きたくなる。
不意に空を見上げては、夕方はまだ来ないのかと思い耽る。
太陽の位置は斜めの45度くらい。日本で言うのなら3時か4時。日が暮れるにはまだ数時間の猶予がある。
この村に来た初日は、スルツキの畑の手伝いをしていると、気がつけば夕方を迎えていたのに。今は、季節が急に冬から夏に変わったかのように陽が長い。次第に諦めたい気持ちも湧き上がってくるが、諦めてしまえばユリスのためにもならないし、せっかくここまで育てた大根が芋虫の餌になってしまう。何度も食害を受けたことがある實にとって、それほどショックなことはない。落ち込みすぎて畑を荒らしたこともあった。ユリスには同じ道を歩んでもらいたくはない。もう一度空を見上げて、ため息を吐きながら胸に誓った。
最後まで頑張ろうと。
畑の端まで終わらせた頃には黄昏時を迎えていて、最後は真剣に行いすぎて途中の記憶を失っている實は、気づいた時のあたりの暗さに驚いていた。
「一通りは終わりましたね」
實に1人の男が声をかけた。顔がわからない實だが、敬語で話をしているから多分ユリス。そう思いながら頷いた。すると、今度は別の男が實に話しかけた。今度の低い声は聞き覚えがある。この声はボリスだ。芋虫を一通り取り終わってある疑問を實にぶつける。
「爺さんこれからどうするんだ。このままにしておくとまた芋虫がつくんじゃないのか?」
「ああ。ボリス青年の言う通りじゃ。じゃから、ボリス青年の畑でも使ったあいつをここでも使うんじゃ」
「あいつって? あの筒か?」
「そうじゃ。あのダンポールを使って、虫が入るのを防ぐのじゃ。じゃが、もう暗いから明日の朝一番じゃな」
明日に向けてまたダンポールを用意しないとと考えていた。この大根畑の広さから考えるに500個は必要になる。その量を用意できるのか實は不安になっていた。それと、ボリスの家で出してユリスの畑まで持っていくのは骨が折れる作業だとも思った。




