自覚
あの恥ずかしい出来事から、早数日。
足の怪我は傷口から感染症を起こしかけていたものの、医務室の先生に治してもらったおかげで、セレナは普段通りの生活を送れている。
医務室で治療してもらい、どこを怪我したのかわからないほど綺麗になった足を見たアンリの、心底ほっとしたような顔をセレナはふとしたときに思い出しては赤面するのを繰り返していた。
(あんな顔をされたら、自分が大事にされてるって思ってしまう……)
アンリが人一倍優しいだけで他意はないとわかっていても、勘違いしてしまいそうになるほどに、アンリの態度は甘くて困る。
そして、その優しさに触れる度に、喜びと胸の高鳴りを感じてしまう自分がいることに、セレナは戸惑い複雑な心境を抱いていた。
「はぁ……」
休憩時間、自席で頬杖を突いたセレナは深いため息を吐く。
その、少し冷たさのある美しいセレナの艶っぽい表情に、周囲の生徒たちの頬もつられて上気していた。
――バサッ。
物思いに耽るセレナの視界に影が差す。いきなりローブの帽子が頭にかぶせられ、振り向いた先にはセレナを悩ませている張本人が少し不満げな表情で立っていた。
「あ、あの……?」
「何度も言うが、君はもう少し自覚を持った方がいい」
「自覚、とは……」
わけがわからず首を捻ると、アンリは諦めたように笑って「とんだ箱入りだな」とつぶやく。
アンリの言う意味はわからないままだったが、敢えて聞き返すほどでもないかとセレナは口を閉じた。
「なにか悩みでもあるのか? 溜息ばかりついて」そう言いながら座るアンリを、セレナは思わずじっと見つめてしまう。女性よりも綺麗で白い肌と、美しい線を描く鼻梁に、国一番の透明度を誇るエルミーシャ湖よりも透き通るスカイブルーの瞳と、すべての造詣が素晴らし過ぎて見るものを惹きつけて止まない。
その上、こんなに優しいのだから困ってしまう。
(あなたのその優しさに悩まされているんです。――なんて言えない)
絶対零度のブルーアイだなんて、一体誰が名付けたのか。
アンリの優しさを知れば、冷たさなんて微塵も感じないのに、とセレナはアンリに出会って以来ずっと不思議に思っている。
「ん?」
「い、いえ、なんでもないです。さっきの授業で少し理解できないところがあって……」
セレナは不自然にならないよう、テーブルの上に広げたままだった教科書に視線を移した。
アンリの美貌には慣れてきたはずなのに、最近、変に意識してしまって直視できない自分をセレナは認めざるを得ない。
その場しのぎで言ったことだったが、「どこだ」とアンリが優しく聞いてくれる。少しかすれた低音が耳元で囁かれて、セレナは思わず目をぎゅっと閉じた。
赤くなっているであろう自分の顔をローブで隠すように、俯く。
分からないところなんて本当はなかったけれど、引っ込みがつかなくなって教科書のページをめくって教えを乞うた。
「あぁ、そこは……――」
馬鹿にすることもなく丁寧に解説してくれるアンリの声を聞きながら、セレナの胸のざわつきは酷くなるばかりだ。
(これじゃぁ、まるで……)
その先に続く言葉を飲み込む。恋愛とは無縁の人生を送ってきたけれど、十歳まではそれなりに恋愛小説を読んでいつかは自分もこんな風に恋をするのかもしれない、と夢見ていた時期もあった。
そんなときがあったことさえも、今の今まで忘れていたけれど。
ずっと蓋をして追いやっていたはずのあの頃の胸のときめきが、急に溢れだす。
(だめよ、セレナ)
それは決して抱いてはいけない感情。
死なせてしまった、自分の半身。
兄のカイルの顔は、いつだって瞼に張り付いている。
『女だということが露呈するなど、絶対にあってはならない』
身の程もわきまえずに浮かれたセレナに釘をさすように、冷たい父の声が降りかかった。ここに来る前、うんざりするほど言われてきた父の言葉だった。
(気を引き締めなくちゃ……)
そうでなくても、アンリは自分の手には届かないほど高貴な身分なのだから。
セレナは、溢れ出る感情に再び蓋をかぶせた。