アンリ2
*
学園に無理を言って寮を相部屋にしてもらったまではいいが、考えれば自分と同室を強いられるカイル・デュカスはたまったものではないだろうなと、まだ来ぬ同室相手に同情していると扉の前に立つ人の気配を感じた。
カイルか、それとも物見遊山に来た誰かか……どちらだろうかと様子をうかがっていたものの、その人物は一向に動く気配がない。そのことから、おそらくカイルだろうと目星をつけて、アンリはドアを内側から開け放った。
――ガチャッ
「わっ……! いったぁ……、あっ!」
自分がドアを開けたせいで、相手が驚いて床に尻もちをついてしまい、内心で焦る。しかし、アンリが声を掛けるよりも先に、目の前の生徒は素早く立ち上がるとペコリと頭を下げた。
「し、失礼いたしました王子殿下! お怪我はありませんか」
まず目についたのは、艶やかに美しい金色の長い髪。後ろで一つに結ばれたそれが、腰を折った拍子に肩からはらりと零れ落ちる。事前に聞いていたカイルの風貌と合致して、アンリは警戒を解いた。
「すまない、君こそ怪我はないか」
そう尋ねたところでようやく顔を上げたカイルと視線が合う。こちらを見上げる相貌に目を奪われた。白い肌に大きなアーモンド型のエメラルドグリーンの瞳がよく映え、少し上を向いた眦が彼の美しさと清潔さをひと際際立たせている。
これまで容姿の優れた人など見慣れているアンリですら、カイルの持つまっさらな雪原のような清らかさに思わず息を呑んだ。
こんな綺麗な男がいるのかと、驚いたあのときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。学園に通うのは男子だけ、という先入観があったせいでカイルが女だという可能性はそのときには全く気付かなかった。
たとえ男でも、儚げで清らかで、それでいて感情豊かにころころと表情を変える健気さを併せ持ったカイルに魅了されたのはまぎれもないアンリ自身で、側にいればいるほどカイルの――セレナの人となりに惹かれていった。
アンリは、カイルが女性だと知り困惑した。だけど、口論となったあの夜、ベッドの上で泣きながら兄に謝るセレナの姿を見たアンリは決意する。セレナをこの苦しみから解放したい、と。
そのためにはまず、彼女がありのままで生きられるようにすることだと考えたアンリは、国王に事の事情を説明した。セレナは被害者であり、罰せられるべきは父親だ。しかしそうなると、庇護下にあるセレナたち家族の立場も危うくなってしまう。
それだけはセレナのためにもどうにか避けたくて、国王という絶対的権利を持つ父親に助けを求めたのだった。
セレナに関する事を最後まで聞いてくれた国王は、「その話は一旦こちらで預からせてもらおう」と静かに言った。深刻な顔つきに不安は募るものの、それ以上なにも言わずにその場を辞する。
ここから先はアンリにはどうにもできない。ただ国王が取り計らってくれるよう、願うことしかできないのが歯がゆかった。
国王の書斎から自室へと帰る道すがら、それは起きた。
突如、胸元に熱を覚えた。かと思えば、衣服を通り抜けるほどの鋭い光が放たれ、その理由に気付いたアンリは全速力で駆けだしていた。
セレナが、渡したペンダントの防御魔法を発動させたのだ。
――どうして、よりによってこんなときに。
不安で逸る鼓動を鎮めながら、ピアスに仕込んでいた魔法を使って魔導士長と連絡を取り、転移魔法の準備をしてくれと伝える。運よく彼は王宮内にいてくれたため、アンリは風魔法を自身にかけながら彼の下へと急いだ。
「お待ちしておりました、殿下。準備は整っております、こちらへ。念のため、護衛代わりに殿下の後に部下を送ります」
「すまない、よろしく頼む」
魔法人の中心に立ち、魔導士長が詠唱すればアンリは一瞬で学園に飛ばされた。そして数秒後に現れた魔導士団のマントを付けた兵と一緒に、発動された自身の魔力を辿ってセレナのいる教室へと向かう。
そこで目にした有様に、アンリは神経が焼き切れそうになるほどの怒りを覚えた。
制服を着た男が、セレナに馬乗りになり服を脱がせていたのだ。
「殿下、お下がりくだ――」
必死に押さえていた理性は一瞬ではじけ飛び、アンリは兵士の制止も無視してありったけの魔力を込めた攻撃魔法を男にぶつけていた。
*
気を失ったセレナを寮部屋に運び、魔導士長に頼んですぐさま王宮の医師を内密に派遣してもらった。外傷はなく、拘束魔法を受けたことによる肉体的な負担と精神的疲労で眠っているだけだろうとの診断にようやく緊張の糸が緩んだ。
しかし、数刻後に目を覚ましたセレナは、先ほどの恐ろしい出来事を思い出してパニックに陥り「汚い」と言いながら顔をかきむしった。傷つき苦しむ彼女の姿に、アンリはセレナを襲ったあの男を二度と立ち上がれなくしてやればよかったと心底思う。
どうにか落ち着かせて傷を癒して、か細い彼女を抱きしめれば、彼女の瞳からまた涙がぽろぽろと零れていった。
互いに謝り、誤解を解いていく。自分の言葉が足りないせいで、彼女を不安にさせてしまったことが申し訳なかった。
「どうして……、どうしてそこまでしてくださるのですか? 僕を守ると言ってしまった手前、義務を感じているのならそんなの気にしなくていいんですよ」
誤解を解いてもなお、自分を卑下して苦しむセレナ。長年自分を偽って生きてきた彼女には、セレナとしての存在価値を見出せないのかもしれない。アンリは優しく諭すように言葉を紡いだ。
「俺だって迷惑だなんて思ったことは一度もないし、義務感で君のそばにいたんじゃない。……好きな相手のそばにいたいと、優しくしたいと思うのは当たり前だろう」
「す、き……?」
ぽかんと目を見開き驚く彼女に、アンリは「そうだ」と頷いて見せる。
「あ……、それは友」
「友人としてではない」
「えっと……で、殿下、僕は……」
「――セレナ」
そう呼んだ瞬間、セレナの体が強張るのがわかった。瞳には怯えすら浮かび、開いた唇はかわいそうなほど震えていた。
「それは、し、死んだ妹の名前です殿下。……僕は……僕は兄のカイルです……」
「全て調べた。もう嘘はつかなくていい。君は、六年前に亡くなったはずの双子の妹のセレナなんだろう」
セレナは逡巡したのち、アンリの確信を持った態度に、否定することを諦めて自分がセレナだと認めた。そしていつから気付いていたのかと聞かれ、アンリは正直に校外授業のときだと伝えれば、欺いただの償うなどと言い出したので、アンリは「告白の続きを言わせて欲しいのだが」と懇願した。話がそれていたので戻しただけなのに、セレナは顔を真っ赤にして信じられないとでも言うような顔で固まってしまった。
あんなことがあったばかりで心身ともに弱っている上、ずっと隠していた正体がバレて動揺している所につけこむようで少しだけ気が引けたが、なりふり構っていられない。
セレナを誰にも渡したくない。
異性として意識されていなかったとしても、これから意識させればいいだけだ。
アンリは少しでも自分を異性として見てほしい一心で、セレナの絹糸のような美しい髪を一束掬って口づけた。
「……っ」
「セレナ、君が好きだ。君のそばにいて、守りたい。――君を、誰にも渡したくない」
ありのままの想いを伝える。
「で、殿下……ぼ、僕は、」
「カイルじゃない君の、セレナの気持ちを聞かせて欲しい」
「わ……私……」
セレナの頬を濡らす涙を、そっと指で救う。滑らかな肌の感触と優しいぬくもりに、鼓動が逸る。濡れた瞳に浮かんだかすかな期待が、ふっと色を失ってしまった。
「けど……私は……。私、には……幸せになる資格がありません……。私は、兄を死なせてしまったから」
生まれたときからずっと一緒だった兄を亡くしただけでなく、彼女はそれを自分のせいだと自責の念に駆られている。その深い悲しみは、きっとこの先も癒えることはないだろう。
たとえすべての人が「セレナのせいじゃない」と伝えたとしても、彼女は納得しないとわかっていた。
それでも……、いや、だからこそアンリは彼女に問う。
「君の兄君は、それを望んでいるだろうか?」
「え?」
「妹の君を助けたのはなぜ?」
「それは……兄は、優しかったから……」
「自分の命に代えてでも、君に生きて欲しかったから助けたんだろう? もちろん、自分の代わりなんかではなく、セレナとして幸せに生きて欲しいと願っているんじゃないだろうか。――それとも、兄君は君の幸せを願ってくれないほど狭量な」
「兄は誰よりも優しい人でした!」
反論するセレナと視線が合わさる。兄を思うセレナの心は、誰よりも優しくて温かい。兄の存在がセレナにとってどれだけ大きいか、改めて感じると同時に、それほどセレナから信頼され愛されている彼が羨ましいと嫉妬心を抱く自分がいて内心で呆れていた。
「私は……自分の人生を生きても……幸せになっても、いいのでしょ……か……っ」
「あぁ、もちろんだ。君は、兄君の分も幸せにならなくてはいけない」
もう自分を偽らなくていい、苦しまなくていい。
その細い肩に背負った重荷を下ろしてほしい。
アンリはありったけの願いを込めて、セレナの濡れそぼった頬に触れ、そっと包み込んだ。
そして、できることなら、軽くなった心の片隅でいいから自分を置いてほしいと浅ましくも願わずにはいられない。
自分にとって彼女が唯一無二であるように、彼女にとっての唯一でありたい。どうか、拒まないでほしい。
アンリの不安を和らげるように、セレナの手がアンリのそれに重なった。
手と手が触れ合っただけなのに、アンリの心臓は信じられないほど跳ねて頬に熱が集まる。情けない顔を見られないようにセレナを抱き寄せた。
「……聞こえるだろ、心臓が破裂しそうだ」
どくどくとうるさい鼓動に押されるように、セレナを思う気持ちが溢れて止まらない。
好きだ。彼女がたまらなく愛おしい。
この気持ちを伝えたくて、アンリは胸の裡を訥々と言葉にしていく。
「君の、ころころ変わる表情豊かなところや、魔法の話を楽しそうにする無邪気な姿に惹かれていた。いつの間にか、君のことばかり考えている。異性相手にこんな気持ちになるのは、君が、……セレナが初めてなんだ」
誰かを思って苦しくなることも、誰かに幸せになって欲しいと思う気持ちも、そしてその幸せを自分が与えたいと思うことも、全部、全部初めてだった。
心の奥の方にある、誰にも見せた事のない柔らかな部分を明け渡す行為は、とても勇気のいることなのだと初めて知った。
抱きしめる腕が情けなくも震える。
「私も、殿下が好きです……。叶うことなら、これからも殿下のおそばにいさせてください」
偽りのないセレナの声音が耳に甘く響き、歓喜で胸が打ち震えた。
アンリは細い体をきつく抱きしめる。互いの間に隙間がなくなるほどに、強く、強く抱きしめて、小さな頭に頬を摺り寄せた。滑らかな絹糸のような髪も、甘く清らかな香りも、すべてが愛しくて離れがたい。
「っ、……もう、なにがあっても君を離さないからな」
「はい……離さないでください。――それが、私の幸せですから」
抱きしめ返すセレナの手のぬくもりが背中に伝わり、心の奥底から幸せがつぎつぎに生まれてくる。ふわふわとした幸福感に包まれながらも、彼女の幸せを守らなければと心に誓った。
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