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セレナとして


「――――いやっ!」


 セレナは、自分の叫び声に驚いて目を覚ました。耳元であの男の声が聞こえた気がして、とっさに両腕を天井に向けていた。空を切った腕に安堵するも、吐き気を覚えて起き上がった。


「うっ……」

「大丈夫か」

「いやだっ……」


 舐められた頬と首にあの感触が残っている。汚くて気持ち悪くて、剥がれ落ちるはずもないのに両手で擦りかきむしる。


(気持ち悪い……っ)


「やめるんだ、カイル」


 肌をひっかく手を、誰かに掴まれた。それが誰かなんて、考える余裕もないほどにセレナは錯乱していた。


「やだっ、離して! 汚いのっ」

「汚くない。先生が魔法で清めてくれたから、汚くない。君は綺麗だ」


 諭すように落ち着いた声で言われ、セレナの腕から力が抜ける。ぽたぽたと大粒の涙が、頬を濡らし顎先を伝って落ちていった。


「きれ……なんかじゃ、ない……」

「綺麗だ」


 手を離してもらえたと思ったら、その大きな手のひらに頬を包まれ上を向かされる。滲む視界の先に、青い双眸が見えた。絶対零度と呼ばれていた理由が、セレナには全くわからなかった。こんなにも、優しくて温かみのある瞳をしているのに。

 その瞳に見つめられているうちに、ぐちゃぐちゃに乱れた心が少しずつ平静を取り戻していき、涙も止まる。


「殿下……、取り乱してすみませ……。それと、助けて、くれて、ありがとうございました」


 しゃくりながらもそう伝えると、アンリは目を眇めて悲痛の色をその瞳に宿す。


「言いたくなければ無理に聞かないが……、あの男になにをされた? 本当に痛むところはないのか?」

「はい大丈夫です……頬と首を、舐められただけです……」

「そうか……、すぐに助けてやれなくて、すまなかった」


 どうしてアンリが謝るのか。

 泣き過ぎて重たい頭で考えていると、アンリが魔法の呪文を唱え始めた。

 かきむしってひりひりと痛む頬や首周りが、じわじわと温かさを帯びていく。その心地よさに、覚えがあった。けれど、それがどこでだったかまでは思い出せない。


「謝らないでください。殿下と、殿下のくれたペンダントのおかげで事なきを得ました。殿下こそ、どうして僕の居場所がわかったんですか?」

「それが発動すると俺の魔道具で感知できるようになっているんだ。運よく魔導士長がそばにいたから転移してもらえたからよかったものの……、倒れている君を目にしたときは心臓が止まるかと思った……」


 治療が終わったのか、アンリはセレナの顔から離した手を今度は背中に回してそっと抱きしめる。


「怖かっただろう」


 まるで赤子をあやすように背中をとんとんと優しく叩かれて、引っ込んだはずの涙がまた溢れてきた。


「……っ、怖か、った……」

「そうだよな、怖かったよな……。けど、大丈夫……、もう大丈夫だ」


 アンリの胸から直接響いた低い声音が、セレナの中の記憶と結びつく。


(そう、だ……この声……!)


 あの夢の中で苦しみにもがくセレナを救ってくれた、温かくて優しいぬくもりと声は、アンリのそれと同じだった。靄が晴れて、全てがはっきりと繋がる。

 驚いたセレナはアンリの胸をそっと押して顔を上げた。


「殿下……もしかして、殿下が留守だったこの三日間、夜中に僕に治癒魔法をしてくれました……?」

「……勝手にすまない。……構うなと言われたのに」


 やはりあれは、アンリの治癒魔法だったのだ。

 公務で忙しいのにわざわざ夜中に寮に帰ってきて、痛みにうなされる自分を治癒魔法で介抱してくれていたなんて。

 アンリの優しさに、胸の奥が焼けるように熱くなった。


「ありがとうございます……殿下、ごめん……なさい……僕……」


(私は、なんて酷いことを言ってしまったんだろう)


「謝るのは俺の方だ」

「殿下はなにも悪くありません、悪いのは全部僕です! 優しい殿下に……、放っておいてくれだなんて、僕はなんて自分勝手で酷いことを……、ごめんなさい……」

「謝らなくていい。迷惑だと気付かなかった俺が悪いんだ。君に嫌われて当然だと思う」

「違います! 僕が放っておいてと言ったのは、ただ殿下にこれ以上迷惑をかけたくなかっただけで……、迷惑だとか殿下を嫌いになるだなんて、そんなこと、ありえな……んです」


 ただただ、周りに守ってもらっているだけの自分が情けなかった。


 嗚咽で上手く話せないセレナをなだめるように、アンリは肩をさすった。ゆっくりでいいからと言われている気がして、セレナは呼吸を整える。どこまでも優しいアンリに、どうしようもないほどの喜びと罪悪感が溢れてセレナの中を埋め尽くした。


「どうして……、どうしてそこまでしてくださるのですか? 僕を守ると言ってしまった手前、義務を感じているのならそんなの気にしなくていいんですよ」

「俺だって迷惑だなんて思ったことは一度もないし、義務感で君のそばにいたんじゃない。……好きな相手のそばにいたいと、優しくしたいと思うのは当たり前だろう」

「す、き……?」


 思いがけない言葉が出てきて、思わず聞き返していた。

 物凄い間抜け面を晒してしまったと思う。

 それでもアンリは顔色一つ変えずに「そうだ」と澱みなく言い放った。


「あ……、それは友」

「友人としてではない」

「えっと……で、殿下、僕は……」


 男ですよ、と言おうとしたセレナよりも早くアンリが口を開く。


「――セレナ」


 唐突に呼ばれた本当の名に、全身が硬直した。自分以外の誰かにそう呼ばれたのは、何年振りだろうか。

 バクバクと心臓が早鐘を打ち鳴らし、手が震える。

 落ち着け、取り乱してはいけない。

 必死に自分に言い聞かせながら、カラカラに乾いた口を開く。


「それは、し、死んだ妹の名前です殿下。……僕は……僕は兄のカイルです……」

「全て調べた。もう嘘はつかなくていい。君は、六年前に亡くなったはずの双子の妹のセレナなんだろう」


 そこに、否定する余地はなかった。王族のアンリが調べたと言っているのだ、その調査結果に疑う余地などあるはずがないのだ。


「い、いつから……」

「初めて会った日、君の手首に触れた時……あまりにも細くて疑念を抱いた。それが確信に変わったのは、校外授業で君が足を怪我して抱き上げた時だ。男の骨格ではないのがすぐにわかった」


 その後すぐに、人を使ってセレナの家を調べさせたのだとアンリは申し訳なさそうに言った。

 あぁそうか、アンリの態度が校外授業後から一変したのはそのせいだったのかと内心で思う。


「そう、でしたか……。殿下を欺いて申し訳ありませんでした……。性別も名前も偽っていた罪は償います」

「罪を償うとしたら御父上のデュカス伯爵になるだろう。これは十歳の子どもにできることではないからな。――まぁ、今はそれは置いておいて……。俺に、告白の続きを言わせて欲しいのだが」

「こっ……こ……っ」


 青い瞳は、どこまでも真っ直ぐにセレナを見つめていた。薄暗い室内で見るスカイブルーの瞳は、まるで星屑をちりばめた夜明けの空のように儚げに煌めいている。その美しさから、セレナは目が離せなかった。


 処理しきれないことがいっぺんに降りかかって、頭が完全にフリーズしてしまう。

 目を見開いたまま固まるセレナに構わず、アンリはセレナの長い絹糸のような髪を一束掬うと、口づけて煽情的な目を向けてきた。


「……っ」


 恋人にするようなその仕草に、全身の血液が沸騰した。

 きっと、自分は今ゆでだこになっているに違いない。なのにアンリは、容赦なくさらに畳みかけてきた。


「セレナ、君が好きだ。君のそばにいて、守りたい。――君を、誰にも渡したくない」


 真っ直ぐな眼差しと言葉に、心が打ち震えた。


「で、殿下……ぼ、僕は、」

「カイルじゃない君の、セレナの気持ちを聞かせて欲しい」

「わ……私……」


 自分のことを「私」と口にしただけで、ぶわりと涙が溢れてしまった。


 数年ぶりに本当の名前を呼んでもらえた。

 カイルとしての自分ではなくセレナとして見てもらえた。

 必要としてもらえた。


 生きているのは自分なのに、まるで自分だけが透明で存在していないみたいだったセレナにとって、アンリの告白は乾いた砂漠で旅人の喉を潤すオアシスそのものだ。


 さらにそれをもたらしたのが、アンリだという事実が本当に信じられない。ずっと、無理やり蓋をして目を逸らしてきた感情が、溢れだす。


(これは、夢?)


 そうだ、夢に違いない。

 この期に及んでそんな現実逃避をするセレナだったが、なおも涙で濡れた頬をアンリは指で拭う。しっかりと触れた手のリアルな感触と温度に、夢ではないと否定されてしまった。


「けど……私は……」


 セレナは、今すぐにでもアンリの胸に飛び込んでしまいたい衝動を押さえて、両手をぎゅっと握りしめる。


 脳裡に浮かぶのは、兄・カイルの笑顔だった。自分のせいで死なせてしまった優しい兄は、十歳のまま時が止まっている。それ以上でもそれ以下でもない、十歳のままだ。


「私、には……幸せになる資格がありません……。私は、兄を死なせてしまったから」


 兄の未来を絶ってしまった自分は、兄が歩むはずだった道を歩まなければならない。

 それは、アンリにバレてしまった今、叶わないとしても、兄を差し置いて自分だけが幸せになるなんて、間違っている。

 きっと父だって許しはしないだろう。


「君の兄君は、それを望んでいるだろうか?」

「え?」

「妹の君を助けたのはなぜ?」

「それは……兄は、優しかったから……」

「自分の命に代えてでも、君に生きて欲しかったから助けたんだろう? もちろん、自分の代わりなんかではなく、セレナとして幸せに生きて欲しいと願っているんじゃないだろうか。――それとも、兄君は君の幸せを願ってくれないほど狭量な」

「兄は誰よりも優しい人でした!」


 思わず大きな声を出してしまってから、セレナはハッとして目の前のアンリを見た。案の定、こちらを見つめるアンリと視線がかち合う。とても穏やかな笑みを見た瞬間、すとんとなにかが音を立てて落ちたのを、セレナは確かに感じた。


「あ……、私……」


(あぁ、そうか……私、ずっと間違ってた……)


 優しかった兄が、人の不幸を願うはずがないのに。どうしてそんなことにすら気付けなかったんだろう。


「私は……自分の人生を生きても……幸せになっても、いいのでしょ……か……っ」


 涙が、枯れることはないのだとセレナに知らしめるようにぽろぽろと落ちる。


「あぁ、もちろんだ。君は、兄君の分も幸せにならなくてはいけない」


 アンリの言葉は、神の許しのように飢えた心にしみ込んでいく。


(それなら……答えは一つしかない……)


 どんな形であれ、アンリのそばにいたいと願っていたセレナ。どんなめぐり合せか、アンリも自分を求めてくれている今、望むのはたった一つ。淡く温かな気持ちが、胸の奥からそこはかとなく込み上げてくる。


(でも……、いいのかな……私なんかが……)


 不安が胸を過ぎる。なんの取り柄もない自分が、王子であるアンリのそばにいていいのだろうか。

 逡巡していると、頬に手が触れた。

 まず指先が触れて、滑るようにして手のひらがセレナの頬を包み込む。

 その手がかすかに震えていて、セレナは驚いた。あのアンリが、緊張しているなんてと。

 途端に、目の前のアンリが小さく見えた。王子ではなく、ただの一人の人間で、もっと言うとたった十六歳の青年でしかなかった。


 そして、そんな彼を緊張させているのが自分だと気付いたセレナは、その手に自分の手を恐る恐る重ねる。ピクリと跳ねたのも一瞬で、避けられなくてほっとする。


 本当に自分でいいのかと思ったままを尋ねたら、再びアンリの胸に抱き寄せられていた。


「……聞こえるだろ、心臓が破裂しそうだ」


 どくどくと、アンリの拍動がシャツ越しに伝わってきた瞬間、顔から湯気が出るんじゃないかと思うくらいに熱が集まった。今度はセレナの心臓が速さを増していく。


「君の、ころころ変わる表情豊かなところや、魔法の話を楽しそうにする無邪気な姿に惹かれていた。いつの間にか、君のことばかり考えている。異性相手にこんな気持ちになるのは、君が、……セレナが初めてなんだ」


 飾らずに思いの丈を伝えてくれるアンリが、とても愛おしく感じてセレナの頬が緩む。


「私も、殿下が好きです……。叶うことなら、これからも殿下のおそばにいさせてください」

「っ、……もう、なにがあっても君を離さないからな」


 いいんだなと念押しされて腕の中で頷くと、息ができないほどにさらに強く抱きすくめられた。


「はい……離さないでください。――それが、私の幸せですから」


 その苦しささえも愛しくて、愛しくてたまらなくなったセレナは、アンリの背に両手をいっぱいに伸ばして抱きしめ返した。

 腕の中の幸せを、一つたりとも零さないように。

 強く、けれど壊さないように、ありったけの優しさを込めて自身の手に包み込んだ。






お付き合いありがとうございました。

本編はここで完結とさせていただきます。

アンリ目線のお話があるので、また後でUPします

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