事件
「……ル、カイル」
「えっ? あ、ごめんぼーっとしてた」
はっとして顔を上げると、マルセルとイザックがこちらを覗き込んでいた。どうやらいつの間にか授業が終わって、つぎの講義の教室に向かおうとセレナを誘いに来てくれたらしい。セレナは急いで教科書を準備して席を立つ。
「ったく、お前ってなぁんか危なっかしいんだよな。なにか悩んでることでもあんのか?」
イザックは、セレナと同じ伯爵家だという割に言葉遣いが雑だ。キツい物言いのイザックに初めは苦手意識を持っていたセレナだが、話す内に根はやさしい青年だとわかり今では気兼ねなく話せる仲にまでなった。
「あ、いや、べつにそういうわけでは……」
「じゃぁなんだよ、顔色悪いぞ? 夜ちゃんと寝てるか?」
「うん、寝てるよ、大丈夫」
ここ数日、日中は効いているのかいないのかわからない薬が夜は不思議と効いてくれてよく眠れている。連日あの夢でうなされているにも関わらず、だ。
柔らかなぬくもりに包まれたと思うと、痛みが和らいでいく。そして朝までぐっすりだった。
そのおかげもあり、薬は手放せないけれど日中なんとかやれているし、食事も少しずつ喉を通ってくれて量も増えている。
「カイルくんは、殿下がいなくて寂しいんだよ、ね。早く帰ってくるといいね」
自信たっぷりの笑顔で言われて、セレナは「う、うん……」と頷いておく。
アンリが学園を休んで早三日。
学園では、クラスメイトやギャスパー達がいてくれるおかげで気がまぎれたけれど、部屋に帰るたび、一人で眠りにつき、一人で目覚めるたび、そこにアンリがいない現実に心が悲鳴を上げる。
時間が経つにつれ、このままアンリとの関係が絶たれてしまう恐怖が強くなっていった。
ただ幸いなことに、学園でのほかの生徒たちとの関係は良好で、アンリに守ってもらわなくても自分の力でやっていけるんだと少しだけ自信がついた。
これまでずっと、アンリに守ってもらうことを嬉しいと感じていたのも事実だ。だけど、守られるだけの一方的な関係ではなく、自立して対等な関係になりたいとセレナは常々思っていた。それが今、アンリがいなくなって初めて実現しているとはなんて皮肉だろうか。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう……)
自分はただ、アンリの負担になりたくなかっただけなのに。
これまで同世代との接触を避けてきたセレナにとって、関係修復の解決策は初めて習う魔法よりも難解に感じる。
ぐるぐると答えの出ないことを考えていると、前方でうずくまる人が視界に入った。セレナが気付くよりも早くイザックが駆け寄り声をかける。
「おい、ロベールどうした、大丈夫か⁉」
「うぅ……急にお腹が……」
同じクラスで、校外授業で同じグループだったロベールが、青白い顔でお腹を抱えていた。
「酷い汗だ、早く医務室に連れて行こう」
マルセルとイザックがロベールの両脇を抱え、彼らの教科書をセレナが持って医務室に連れていくも先生が不在だった。テーブルの上に置かれた呼び出し用のベルを鳴らすと、「すぐ行く!」と声が聞こえてきてセレナたちは顔を見合わせた。
「どんな仕組みだこれ」
「さぁ……」
きっとこんなときにアンリがいれば、説明してくれるに違いないとセレナは無意識に考えていた。すっかり自分の日常になっていたアンリの存在の大きさを思い知らされて、無駄にへこんでしまう自分が本当に情けない。
「あっ、イザック! 僕たちつぎの授業の準備係じゃなかった⁉」
マルセルの声にイザックも「あ」と声をあげる。
「じゃぁ、先生が来るまで僕が待ってるから、マルセルたちは先に行って」
「え、でも、そしたらカイルくんが一人になっちゃうよ」
「ここから教室までならすぐだから大丈夫だよ。先生に遅れるって伝えてね」
「おう、悪いなカイル、あと頼む」
「ありがとう。それじゃぁロベールくんはゆっくり休んで早く治すようにね」
出ていく二人を見届けて、セレナはベッドに横たわるロベールのそばに近寄る。苦しみに歪んだ顔には玉の汗が滲んでいる。セレナはポケットからハンカチを取り出してそっと拭いてやった。
「ごめん……迷惑かけて……」
「迷惑なんかじゃないよ。クラスメイトなんだから気にしないで」
それからすぐ、先生がやってきてセレナもお役御免となった。
(急がないと)
始業のベルが鳴ったのは少し前だけれど、つぎの授業はセレナの好きな薬学のため少しでも早く授業に出たくて廊下を小走りに進む。
しかし、本校舎を一旦出て特別棟に入ったとき、セレナの体は自分の意思とは反する方向に引っ張られた。それも物凄く強い力で。
体が勢いよくなにかにぶつかったと思ったつぎの瞬間には、セレナは何者かに強く拘束されていた。
「っ⁉」
突然のことで声も出なかった。否、出せなかった。
(な、なに⁉ 声が出ない……! もしかして魔法⁈)
口は動くのに、声だけが発せられない。
それならと、自分の動きを封じる相手を押し返そうと手を動かそうとするも、両手は教科書を胸元に抱きしめた格好のまま思うように動かなかった。
これも魔法だろうか、と頭が理解する頃には恐怖で体が立ちすくんだ。
自分の置かれている状況に、手足から熱が急速に引いていく。
「やっと二人きりになれたな」
男の冷え切った声に全身が拒否反応を示すようにぞわぞわと肌が粟立った。体をくるりと乱暴に回された先、視界に捉えた相手を見たセレナは目を瞠る。
(マリック……⁉)
以前、食堂で男子生徒に嫌がらせをしていた茶髪のマリックだった。
「その顔は、俺のこと覚えてたみたいだな?」
マリックは怒りを含んだ笑みを浮かべながら、顎に手を添えて上を向かせる。声も体の動きも封じられ、なす術のないセレナは男の顔を見た。
知らない顔だった。陶酔しきった表情でセレナを見つめる表情に、自分の中の本能が危険を感じる。
「美しい……、君が男だなんて全く……、神様はなんていたずら好きなんだろうね? 時間をかけて私のものにしたいところだけど、生憎悠長なことは言ってられないんだ。少々手荒くするのを許しておくれ」
(なにをする気……いやっ……怖い……)
男の顔が近づきとっさに顔を逸らすと、べろりと頬を舐められた。
(――っ⁉)
ぬめっとした感触に体が硬直し、吐き気が込み上げてくる。これまで感じたことのない恐怖と嫌悪に、自分の中の全てが悲鳴を上げている。なのに、声を出すことも体を動かすこともできなくて、頭がパニックを起こしかけていた。
(だ、誰か……たすけて……殿下……っ)
こんなときにすら、真っ先に思い浮かぶのはアンリだった。苦しさに瞑目すると、目尻から涙がにじむ。
「あぁ、恐怖に震える君もとっても可愛いよ」
男の腕から逃れたい一身で動かせる首をのけ反らせるも、そんなのは抵抗にすらならない。男はうっとりとセレナを見つめたまま、ローブに手をかけようとセレナが抱えたままの教科書を抜き取り床に放り投げる。遮るものがなくなり、セレナの手が胸元の制服の下にあるそれに触れた。
そして全力でそれに魔力を込める。今一番会いたい人の顔を浮かべながら。
――パアァァンッ!
「うっ」
突如目がくらむほどの閃光が放たれ、押し返すような力でセレナと男が引き離される。はじけ飛ぶようにして床に倒れ込んだセレナは痛みに顔をゆがめるも、体の束縛が解かれたのを感じた。それでも恐怖で体に力が入らず、まともに起き上がることもできない。
「――んだ今のは……、シールドだと? こんな強力な魔法が使えたのか?」
顔を上げると、セレナの半径一メートルほどを囲うようにドーム状の壁のようなものができていた。
(よかった……発動してくれた……)
上手く発動できたことと、男が離れたことにセレナはほっとするが、まだ安心はできない。この魔道具の効力は一次的なものだとアンリに聞かされていた。このシールドがある内にこの状況から脱しなければとセレナは必死に動かそうとするが、なおも体は言うことを聞いてくれなくて愕然とする。
「いや……これは君の魔力ではないな……ということは……くそっ! こんなときまであいつに邪魔されるのか!」
激情した男はシールドに手をかざしてなにかをつぶやく。すると現れた光がシールドを覆っていく。シールドを怖そうとしている。
(どうしよう、どうしたら……っ)
焦るばかりで、なにも思いつかない。それに思いついたとしても、魔法を使えるこの男に対して、体を動かすことすらままならないセレナにできることなどなに一つないに等しい。
「だ、誰か……っ、けほっ」
助けを求めようにも、乾いた喉ではまともに喋ることすらできなくてむせてしまう。
ミシミシときしむ音に視線を上げると、シールドにヒビが入り始めていた。そのヒビが、少しずつ広がっていく。
「あ……」
そしてとうとう、耐えかねたシールドは粉々に砕け散り、跡形もなく消え去ってしまった。
「なかなか強力な魔道具だったな」
「い、いやだ……、来るな……んぐっ」
「おっと、叫ばれては困るよ」
また声と動きを封じられ、床に横たわるしかなす術がなくなったセレナに、男が跨り制服を脱がしにかかる。
今は授業中で、ここはただでさえ使用頻度の低い特別棟だ。誰かが通りかかる可能性は極めて低かった。クラスの皆が授業をしている教室もこの棟の三階だから、ちょっとやそっとじゃ声も物音も届かないだろう。
後がなくなり、女だということがバレるだけでなく、この男に辱められてしまうのかと絶望的な気持ちになった。
(そんなの、いや……)
悔しさに、目尻からは涙が滲む。
男がローブとブレザーを乱暴にはぎ取り、とうとうシャツのボタンに手をかける。
「ん……? なんだ? シャツの下になにを着ている?」
胸が目立たないように着ていたコルセットを見て首を傾げた男は、一拍置いて瞠目した。
「はっ……ま、まさか、君は……! あぁ、なんというめぐり合せ! これは天の思し召――ぐはッ」
体が軽くなる。
男が、一瞬にして消えた。
ガラガラと机や椅子が倒れる音がした方を見ると、壁に激突して項垂れる男の姿があった。
なにが起きたのか呆気に取られていると、視界が陰る。
――青が、輝いていた。
綺麗な、透き通るような青い宝石だ。
この青を、自分は知っている。
「カイル! 大丈夫か⁉」
「でん、か……」
「なにをされた! 怪我はないか⁉ 痛むところは?」
(どうして、殿下がここに)
「すまない……、来るのが遅くなった……。すまない……っ」
体をそっと起こされて、そのまま抱きしめられる。
優しいぬくもりに包まれ、さっきまでの恐怖が嘘のように消えていく。
(まるで魔法みたい)
セレナは、込み上げてきた安堵感に身をゆだねた。