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「マジかよ…」
思わず、ヘルメットの中で声が出る。
自分は練習とはいえ、ほんの少しだけフライングだけれど、中川さんが全体的に見ても少し遅めのスタートを切っている。
中川さんが隣で変な気合いの入り方をしていると、さすがに気になってしまう。
フライングや出遅れをした場合、お客様の掛け金は全額返金になり、レース運営や、地方自治体、様々な関係団体に入る売上金が下がってしまう。
それだけではなく、レーサー自身も、一定期間レースへのあっせんが止まり、いわゆる「出場停止処分」のようになってしまう。
レーサーである以上、レースに出られなければ、賞金を得られることもなく、短期間とはいえ収入が絶たれてしまう。
一流のレーサーであれば、フライングを全然しないことはもちろん、トークショーや動画配信で稼げるだろう。
一方、一流以外のレーサーはレース関係の仕事などほぼ回ってこない。
ひたすら痛めている腰のマッサージやリハビリに行くしかないだろう。
万が一、本番レースで…と思えばゾッとする。
いくら久しぶりの準優勝戦とはいえ、こんなところでつられて、変なスタートをしている場合ではない。
ターンマークへのアプローチや、周り足、意外と伸び足も問題はない。
お客様にもファンの方にもこの好調さは伝わるだろう。
スタート展示が終わり、「レース直前集合室」に入る。
誰も声には出さないが、中川さんの変な気合の入り方が、完全に空気を変えている。
5号艇の青井が職員に声をかけている。
「ターンのときに水かぶっちゃいまして、手袋がビチョビチョで気になって…変えてきていいですか?」
青井の気持ちはわかる。アイツは手袋のせいにして、この場を少しでも離れたいのだろう。
青井が手袋を取りに行く。
ふと気がつけば自分の手袋に高原ちゃんのサインが無いことに気付く。
そういえばさっき控室に戻ってストフラの曲を聞くときに手袋を外して、間違えていつもの手袋を持ってきてしまっている。
冷静にならなければいけないと思えば思うほど、冷静さから離れてしまうのかもしれない。