006 忌まわしき過去の記憶
翌朝──
エリカを起こす母親の声が、少しいつもと違った。
朝の食卓でも、元気にしているエリカとは対照的に、どこか元気のない母親の表情。
「……どうしたの、おかあさん?」
「……え? あ、ああ……。ごめんね、エリカ」
無理やり笑ってみせている母親。
((……何かあったのか?))
おれも彼女に何か違和感を覚えていた。
あきらかに様子がおかしい。
食事には手をつけず、ため息ばかり吐いている。
すると間もなく母親が、その理由をエリカに話し始めた。
「昨日の夜中にね。西区にある『モーリーホテル』っていう宿が火事になっちゃったみたいでね……」
「…………え? 西区……?」
エリカの手が止まった。
今日の朝食であるコッペパンを右手に持ったまま、目を大きく見開いて固まるエリカ。
母親が続きを話す。
「……そこの宿。おかあさんのお友だちが働いてたの」
エリカは唇を強く結び、母親をじっと見つめながら喉をごくりと鳴らす。
そして少し間を空けてから、母親がぽつりとつぶやいた。
「……死んじゃった」
そう言葉にした母親の目から涙がこぼれた。
エリカも放心状態となり、しばらく時間が止まったかのように、重苦しい空気があたり一帯を支配する。
母親の話では『今日の深夜2時ごろ、西地区の宿屋『モーリーホテル』で、従業員を含む10名が火事で焼死した』という報道があったというのだ。朝のニュースで見たらしい。火元は不明だが、夜中のうちに金品が盗まれていたそうだ。
するとエリカが、その身体を不自然に震わせながら言った。
「…………ごちそうさまでした」
おもむろに席から立ちあがり、自分の部屋へ向けてフラフラと歩き始めるエリカ。
「ちょっと……エリカ? もう食べないの?」
「………もう、おなか……いっぱいだから……」
そして部屋にこもると、エリカは布団をかぶって何やらブツブツとつぶやき始めた。
「……10人…………。や、やっぱり……わたしのせい……?」
「(やっぱり……? どういうことだ? 過去に何かあったのか?)」
理由はわからないが、今エリカが不安に押しつぶされそうになっていることは確かだ。
聞こえないとわかってはいるが、それでもおれは一生懸命エリカに呼びかける。
「(おい……しっかりしろ! 10人なんて偶然だ! おまえが予知したのはスミス一家の強盗殺人だろう⁉ それに今回の事件は火事だ! 関係ない!)」
だがいくら叫んでも、おれの声がエリカに届くことはない。
それでも、おれは必死で叫ぶ。
せっかく見つけた、おれの輝かしい人生を揺るぎないものにできる金の成る木だ。
こんなところで失うわけにはいかない。
エリカには絶対的な正義の心を身につけてもらい、おれといっしょに人助けをして働いてもらわなければならないのだ。
ほかならぬ、このおれだけのために──。
すると、これまで聞こえなかったエリカの心の声が、おれの中に流れ込んできた。
(3年まえのあの日……。わたしがバスツアーを台無しにして、おかあさんを悲しませてしまった……あの日──)
((な、なに……!? なんだこれは!? こ、これは…………エリカの……心?))
そして同時に彼女の記憶や感情も、つぎつぎとおれの中に流れ込んできたのだ。
((こ、これは────⁉))
◇ ◆ ◇
気づくと、おれは知らない場所にいた。
「(どこだ……ここは?)」
だが相変わらずエリカの中にいるようだ。
声が出ない。
「(これは……エリカの記憶か?)」
目の前には大型バスが1台。大勢の人が集まっている。20人はいそうだ。
おそらく何かのツアーだろう。
すると突然エリカがバスに向かって走りだした。
「(お、おい……!? いきなり、なんだ……エリカ⁉)」
エリカの手には大きな釘が握られていた。
「な、なななっ……なんだ君はっ……⁉」
釘を持って突進してくるエリカに驚いて、思わず運転手らしき人物が声をあげた。
へっぴり腰で手足をバタつかせ、声も震えている。
だがエリカは運転手には目もくれず、そのまま大型バスの左後輪に思いっきり釘を突き刺して押し込んだ。
「……ひっ!?」
音に反応して、つい悲鳴を漏らす運転手。
ツアー客たちもいっしょになって悲鳴をあげており、あたりは一瞬にして騒然となった。
みんな耳を押さえながら、身体をバスから遠ざけるようにして固まっている。
中には頭を抱えて、地面に這いつくばっている者もいた。
その場の全員が言葉を失い、緊張感とともに静寂があたり一帯を包み込んでいる。
一呼吸おいてから、運転手がエリカを叱った。
「き、君……あぶないじゃないか⁉ もしタイヤが破裂していたら大事故だったぞ……!」
逃げようとしたエリカを大勢のツアー客たちが押さえこむ。
「(ぐ、ぐああああああっ……⁉ ちょ、ちょっと待てえっ! おれは無実だぞおっ……⁉)」
エリカの勝手な行動せいで、まるで犯罪者のような扱いを受けたことが、おれの精神を揺さぶった。
これまで父にもぶたれたことのなかったおれは、生まれて初めて悪の烙印を押されたような錯覚に陥る。
「(ま、待てぇえええっ……! おれは何もしてないぞ……! やったのは、このガキひとりだ! おれは……無実なんだぁああああああっ……!)」
エリカの中でひとり喚くおれの訴えは虚しく、そのまま身柄を確保され警察のお世話になることになった。
結局このあと、バスツアーは中止。
後日あらためて別のバスで行われることになったそうだ。
エリカはというと、家に帰ってから母親にこっぴどく叱られていた。
「エリカ……! なんてことしたの⁉」
「……」
むすっとして黙り込むエリカ。
下を向いて、目には涙を浮かべていた。
「まずは、みなさまにご迷惑をおかけしたことを反省しなさい!」
それでもエリカは、下唇を噛みしめ、しかめっ面をするだけだった。
母親が言う。
「……別にね。おかあさん、お金のことで怒ってるわけじゃないのよ……」
エリカが起こした騒動によって、予定を狂わされたツアー客の怒りもあったが、それより何よりツアー会社が受けた損害による賠償が、エリカの母親に降りかかっていたのだ。
それでも無言をつらぬくエリカを前に、ついに母親の目から涙がこぼれた。
「もし……タイヤが破裂したら、どうするつもりだったの⁉ 一歩間違えれば死んでいたかもしれないのよ……?」
母親は泣きながら、訴えるように言葉を続けた。
「おかあさんは、エリカが無事だったことが何より……。でも……もう、こんな危険なことはしないで欲しいの……」
母親の言葉を聞いて、エリカは泣きながら謝り始めた。
「……ごめんなさい…………。ごめんなさいっ…………!」
すると母親は、エリカを抱きしめながら言った。
「エリカ……。生きていてくれて、ありがとう……。おかあさん、うれしいわ……。だからもう、こんな危険なことしないって約束して……?」
「……うん。ごめんなさい……もうしません……」
両腕を使って涙を拭うエリカ。
母親もエリカを強く抱きしめる。
おれもその様子をエリカの中から見守っていた。
そしてこれは、おれの中に初めて感じる戸惑いが生まれた瞬間でもあったのだ。
((エリカのしたことは悪だ……。到底、許されるべきじゃない……。だが──))
この日、エリカは早めに自分の部屋に戻った。
母親に叱られたことが、よっぽど堪えたのだろう。
部屋で落ち込むエリカの中で、おれは思う。
((なぜエリカは、あんなことをした……? あの騒動によってもたらされたのは『ツアーの中止』……。もしかして……エリカには、あのバスが事故を起こす未来でも見えていたのか……? そうだとすれば────))
そして、翌朝────
テレビには『工場の爆発事故によって23名が死亡』というニュースが流れていた。