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003 エリカ

 激しく広がった光は、すぐに収まっていくように感じられた。

 おれは目を細めながら、恐るおそる慎重にまぶたを上げる。


 大丈夫──

 もう眩しくない。


 光が収まっているのを確認すると同時に、おれの視界に飛び込んできた風景。


((ど、どこだ……ここは────?))


 見たことのない部屋。女性の部屋だろうか。

 かわいらしいレース柄のカーテンをはじめ、うすピンクや白を基調としたものが多く、いかにも女性を彷彿とさせる印象の部屋だ。

 おれは、その部屋の中心に設置してあった、ふかふかのベッドの上に腰かけていた。


「(な、なんでおれが、こんな部屋に……)」

 そう喋ろうと思って、違和感に気づく。

「(あ、あれ……? 声が出てない? ……というか、動けない⁉)」


 喋っているつもりが、肉体から声が出ていないのだ。唇が動かない。

 慌てて立ち上がろうとしたが、立ち上がることすらできない。

 手が────動かない。


「(ど、どうなってるんだ……⁉)」


 身体の自由が奪われてしまったかのようだ。

 その時、おれの意思とは関係なく身体が動き始めた。


「(え……? か、身体が勝手に……⁉)」


 おれの身体は勝手に立ち上がり、そのままどこかを目指して一直線に歩いていく。

 部屋を出て、廊下を歩き、階段を降りて、その通路の途中にあるドアを開けた。


「(い、いったいおれは、どうしてしまったんだ……)」


 おれがたどり着いた場所。それは洗面台の前だった。

 そして洗面台といえば鏡がある。


 おれは鏡に映った自分の姿に目を疑った。


 おれの瞳に映っていたのは──

 おれではなかったのだ。


 どこかで見覚えのある女性。

 おれは記憶を思い返していく。


 そうだ。魔王だ。

 服装や装飾品などは違うが間違いない。


 しかし髪の色が違う。

 魔王の髪は赤かったはずだが、今のおれ──というか鏡に映っている女の子の髪は黄色。

 瞳の色も黄色ではなく、緑。

 何より魔王と比べて、あきらかに幼い。


 そのため印象は違って見えるが、どことなく雰囲気はあるのだ。

 それより何より、つい先ほどまで敵対して殺し合っていた者の顔を、見間違えるわけがない。


 間違いなく、こいつは──

 いや……今のおれの姿は魔王────



 そう思った矢先、背後から何者かの声が聞こえてきた。


「エリカー! 朝食の準備できてるわよー!」

「はーい! おかあさん!」


 エリカ。今、たしかにそう呼ばれた。

 そしておれの身体は、その声に反応して勝手に返事をした。

 おれの声じゃなく、女性の声で。


 つまり──

 おれは今、この『エリカ』という幼女の身体の中に、意識だけが入っている状態なのだろう。


 どうしてこんなことになってしまったのかわからない。

 思えば、魔王へ聖剣イフェイオンを突き刺したら、突然あたりが光に包まれて……次の瞬間には、こんなことになっていたのだ。


 おれがいろいろと思考を巡らせているあいだも、おれの身体は勝手に動きまわり、歯磨きを終えて、朝食が置いてあるテーブルへと向かっている。


 パンのいい匂いがする。

 食欲をそそる香りに、思わずおれの意識はテーブルの上へと移った。


 大皿に盛られたサラダは彩り豊かな緑黄色野菜で構成されており、その中にある真っ赤なプチトマトがその存在感を主張している。

 綺麗に織られた手編みのかごの中には、斜めにカットされた焼きたてのバゲットが丁寧に並べられていた。

 ほかにも大きなビンに入ったミルクと、それぞれが飲むために使うガラスのコップ。バゲットに塗るために用意されたバター。それからイチゴやリンゴなどのフルーツ系のジャムなども置いてある。

 


「(う……美味そう!)」


 思わずおれは、そう口にした。

 だがおれの声は、音声となって周囲に発せられることはなく、誰の耳にも届かない。

 もちろん、おれと身体を共有しているエリカという女の子にも──。


 エリカは迷うことなく、いちばん奥の席に座った。定位置なのだろう。

 席は手前と奥にふたつ。それぞれの席の前にフォークとサラダを取り分けるための木皿がワンセットずつ。母とふたり暮らしだということが想像できる配置だ。


 エリカはバゲットをひとつ手に取ると、目の前に置いてあったリンゴのジャムをたっぷりと塗って美味しそうにかぶりつく。

 その味はエリカの味覚を通して、おれも共有することができた。


「(う……美味い!)」


 自分の意思でエリカの身体は動かせないため、咀嚼タイミングなどもすべてエリカ頼みである。


「(は……早くっ! もっと食わせろ!)」



 目の前の席に、エリカの母が座る。

 やさしそうな顔をした女性だ。

 彼女はミルクをグラスに注いで、最初にエリカの前に置いた。


「ありがと。おかあさん」


 それから彼女は、自分のグラスにもミルクを注いで、ひと口だけ飲む。

 そしてバゲットにイチゴのジャムを塗ると、エリカの顔を見つめながらバゲットをおいしそうに食べはじめた。


 やさしく微笑みながら、バゲットをほお張る母。

 楽しそうにエリカを眺めている。


 窓からわずかに射し込む日差しがあたたかい。

 ゆったりとした朝の時間が心地よく感じる。


 何年も勇者として旅をして、魔物と戦い続けてきた日々。

 忘れかけていた感覚。おちつく時間。


((ああ……至福……! ずっと、こんな時間が続けばいいのに……))


 平凡な家庭の──

 平和な時間。


 きっとおれは、こんな時間を護りたくて、これまで必死に魔物どもを退治してきたのだ。そう自分に言い聞かせて、自分の思考に酔いしれる。


 エリカになりきった、おれ。目の前にはやさしそうな母。

 おれはエリカ視点で、母とのしあわせな時間を体感して、悦にひたっている。

 エリカが口に放り込んでいるバゲットもサラダも、この空間のおかげでよりおいしく感じられた。


 朝食の最中、ずっとエリカが楽しそうに語っていたこと。

 それは彼女が日課にしているボランティア活動に関しての報告だった。


 エリカは昨日、報告し忘れていたことを母に話す。


「そうだ! 聞いて、おかあさん! 昨日、忘れてたボランティアの話!」

「あらあら、楽しみ」

「わたしね。昨日、困っているおばあちゃんを助けたの!」

「へぇ……? なにがあったの?」


 いつもは当日中に話しているようだが、昨日は別の話題に夢中になっていて、寝る時間になってしまったらしい。

 得意げに話すエリカの言葉を、うれしそうに笑顔で聞く母。


「なんかね。列車に乗ろうとしてたんだけど、荷物が重そうで……。間に合いそうになかったから、わたしが代わりに荷物を持って、手を引いてあげたんだ!」

「それで間に合った?」

「うん! とても感謝されたわ!」

「ふふ。いいことしたわね。エリカ」


 ほかにも街のゴミ拾いをして回ったのだと、エリカは母に報告していた。


 ゴミ拾いなどは典型的なボランティア活動と言えるだろう。

 やろうと思い立ったときに、いつでも誰もが、すぐに実践できるもの。

 なぜなら、いくら注意を促しても、路上にゴミを捨てるバカがあとを絶たないからだ。


 だが『困っている人を助ける』という活動は、思い立ったからといって、すぐに実践できるものではない。

 なぜなら、それは困っている人がいて初めて成立する行為だからだ。

 そもそも困っている人がいなければ、やりたくてもできないのだ。


 エリカが意識しているボランティア活動とは、かなり幅広い人助け行為も含めた、世のため、人のためになる活動のことだろう。


 ボランティアとは見返りを求めない慈善活動のひとつでもあることから、当然お給料をもらってやっているというわけではない。

 しかし誰かに自分が頑張ったのだという証を認めてもらいたいのは、人として当然の承認欲求でもあるだろう。

 エリカにとってのご褒美は、母に自分のおこないを聞いてもらって、褒めてもらうことだったのだ。


「よかったわね、エリカ。わたしもエリカの母であることが誇らしいわ」

「えへへ」


 とても微笑ましい家庭。つい、おれもうれしくなる。

 おれがエリカの中に入ってしまったのは、お互いに正しい心の持主だからこそ惹かれ合ってしまったのかもしれないな。


 そんなことを考えていると、ふたりは朝食を終えて、あとかたづけに取りかかっていた。

 エリカは、あとかたづけをしながら、母に今日の予定を話している。


「今日は、お友だちと遊びに行ってくるね!」

「遅くならないように、気をつけていってらっしゃい」

「うん!」


 さっき鏡で確認できた容姿から考えても、おそらくエリカの年齢は11か12歳くらいだろう。

 その若さでボランティアに生きがいを感じているとは、おれに勝るとも劣らない有能な人間になれる素質がある。


 おれがひとりで妄想を繰り広げていると、エリカは勝手に身支度をして、出かける準備を整えていた。


「それじゃ、いってきまーす!」

「いってらっしゃーい!」


 こうしてエリカは家を飛び出して、友だちと約束している場所へと向かったのだった。

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