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エピソード 2ー1

 桜坂 澪に生まれ変わったその日、私はわずかな手荷物を持って生まれ育った家を出る。玄関で靴を履いて外に出ると、迎えに来たリムジンの側にパパとママが揃っていた。


 どうやら、シャノンさんに私のことをお願いしているようだ。

 それを理解した瞬間、訳も分からず涙があふれそうになった。きゅっと拳を握り締めて笑みを浮かべ、何事もなかったかのようにみんなのもとへと駆け寄る。


「おはよう。えっと……その、二人とも」


 パパとママ、そう呼ぼうとして寸前で踏みとどまった。それに気付いたのか、二人が揃って唇を噛む。その横でシャノンさんが私の前に進み出た。


「おはようございます、澪お嬢様。お車に積み込むので、荷物をお預かりします」

「え、でも荷物って言っても、これだけで……」


 着替えも、身の回りの物もすべて、桜坂財閥の娘に相応しい物を向こうで用意してある。そう言われたから、私の手荷物は必要最低限の小さな手提げ鞄が一つだけだ。

 それなのに、なにを言っているんだろうと首を傾げた。

 そんな私に対し、シャノンさんは静かに頭を下げた。


「実は出発の準備が少々滞っておりまして、私はしばらく席を外します。大変申し訳ありませんが、澪お嬢様はここでお待ちください」


 恭しく頭を下げると、私の手荷物を持って踵を返した。その後ろ姿を見送った私は、シャノンさんの言葉の裏に隠された意図にようやく気が付いた。

 シャノンさんの背中に向かって感謝の言葉を伝えて、それからパパとママに向き直った。


「パパ、ママ、行ってくるね」

「……行って? いや、それよりも、その呼び方は……」

「ここには私達しかいないから大丈夫だよ」


 公式の場では、桜坂 澪として振る舞わなければいけないけど、家族しかいない場所でなら、佐藤 澪として振る舞ってもバレることはない。

 いまなら目こぼしをすると、シャノンさんはそう言ってくれたのだ。


「向こうに着いたら、ちゃんと電話するからね」

「そうか……澪がいなくなる訳ではないんだな」

「澪、私の可愛い娘。辛くなったら、いつでも帰ってきなさい」


 パパとママが抱きしめてくれる。私はそんな二人にしがみついた。


「ありがとう。……パパ、ママ、大好きだよ」



 涙する両親に見送られ、私はリムジンへと乗り込んだ。本当に車内かと疑いたくなるようなゆったりとしたスペース。ソファに腰掛けると、向かいの席にシャノンさんが腰を下ろした。


「それでは、桜坂邸へと向かいます。飲み物はカフェオレでよろしいですか?」


 車内でさらっと飲み物が出ることに驚いて、次いでその飲み物が私の好んでいるカフェオレであることに再び驚いた。さらりと私の好みが把握されている。

 ここまで来ると溜息しか出ない。

 開き直った私はお礼を言って、カフェオレの入ったグラスを口に運んだ。


「ありがとうございます。慰めて、くれているんですよね?」

「十五で親元を離れるのは、財閥の子息子女なら珍しくありません。ですが、その覚悟をする暇もなく、いきなり親元を離れる心中はお察し致します」

「あはは……」


 フォローされると同時に、考え方がそもそも甘いのだと叱責された。財閥の娘として悪役令嬢を目指すなら、その甘さは捨てなくてはいけないということだ。


「そういえば、シャノンさんはメイドになって長いんですか?」


 沈黙を嫌った私は当たり障りのない話題を振ってみる。


「大学に在学中、とあるパーティーでお嬢様にスカウトされ、卒業後すぐに雇っていただき、今年で五年といったところですね」

「五年ですか……」


 ストレートに卒業しても、そろそろ三十路という計算になる。とてもそうは見えないなと思っていると「私は飛び級ですから」という答えが返ってきた。


「大学を飛び級で卒業したのに、紫月さんのメイドをやっているんですね。それってやっぱり、紫月さんに惹かれたとか、そういう理由なんですか?」

「いまならそうだと答えます。ですが、当時は稼げると思ったのが一番の理由ですね」


 ちょっと、いや、だいぶ予想外だった。だって、私の思い浮かべるメイドって、そんなに給料が高くなさそうだったから。


「メイドって、給料高いんですか?」

「桜坂財閥のメイドですからね。でも、私が稼げると言ったのはそれが理由じゃありません。さすがにメイドとしての給料なら、ウォール街に勤めていた方が稼げます」

「……ウォール街、ですか?」

「大学を卒業後、ウォール街で働く予定だったんです」


 このときの私は知らなかったけれど、ウォール街は金融関係の企業が集まる地域らしい。つまり、ウォール街で働くというのは、金融の一流企業に勤めるというのと似た意味を持つ。


「それなのに、メイドになることを選んだんですよね?」

「はい。当時はまだ十歳でしかなかった紫月お嬢様の、未来予知じみた株価の変動予測に惚れ込んで……と、これはいま話すことではありませんね」

「……あ、ごめんなさい、込み入ったことを聞いて」


 よく分からなかったけど、あまり追求する話ではなかったようだ。


「気になることを聞いてくださるのはかまいません。ただ、貴女は桜坂家のご令嬢となられたお方ですから、私のことは呼び捨てにして、敬語も使わないようにしてください」

「でも、私は……」


 私は桜坂家のお嬢様――の振りをした偽物だ。それなのに、使用人を呼び捨てにするなんて出来ないという後ろめたさを抱く。

 それを見透かしたように、シャノンさんは指先でトンとテーブルを叩いた。


「たしかに、急に自覚を持てと言われても難しいでしょうね。ですが、貴女はそれを承知の上で、桜坂家の養子になることを選んだのではありませんか?」


 その言葉にハッとさせられる。

 私が目指すのは、桜坂家の悪役令嬢。そして挑む相手はこの国でトップクラスの子息子女だ。自分の家のメイドに敬語を使うような、元庶民のお嬢様はお呼びじゃない。

 ……私は深呼吸をして、いまの自分に必要な振る舞いを思い浮かべる。


「忠告に感謝するわ、シャノン」


 偉そうに、何様なのよ――と、自分で自分にツッコミを入れたくなる。シャノンさんもなにか言いたげな様子だったけど、結局はなにも言わなかった。

 ひとまず、及第点の対応だったのだろう。

 そう思ってほっと一息。何気ない気分で窓の外に視線を向けた私は、スモークガラスの向こうに広がる街並みがずいぶんと様変わりしていることに気が付いた。


「この辺りはずいぶんと大きなお屋敷が多いんだね。もしかして、お金持ちが集まる土地、という感じなのかな?」

「いいえ、ここはお金持ちが集まる土地ではなく、桜坂一族の集まる土地――この一帯にあるお屋敷はすべて、桜坂一族が所有するお屋敷です」


 衝撃に息を呑んで、窓の外に視線を向ける。大きな庭付きの豪邸が見渡す限りに並んでいて、その数はどう考えても一桁で収まる数じゃない。

 そのお屋敷全部が、桜坂家の所有物……?


 私の想像するお金持ちとは桁が違う。

 そうして呆気にとられていると、ひときわ大きなお屋敷が見えてきた。


「もしかして……あれが紫月さんのお家なの?」

「ええ、その通りです」


 シャノンは当然とばかりに頷いた。でも、私が通っていた学校、しかも校庭を含む敷地よりも大きい。その敷地すべてが個人の持ち物だなんて、すごすぎて溜息しか出ない。


 でも、敷地が広すぎていいこともあった。敷地が広かったおかげで門まで時間が掛かり、私はそのあいだに平常心を取り戻すことが出来たからだ。

 途中で、驚きが呆れに変わったとも言う。

 ともあれ、屋敷の前に到着すると、先に車を降りたシャノンが手を差し伸べてくれる。少し迷ったあと、私はその手を摑んで車を降りたった。


 その後は、彼女の案内にしたがって正面玄関をくぐり、エントランスホールを抜け、真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を歩く。

 赤く深い絨毯が足音を吸収してしまっているのか、廊下は物凄く静かだ。


「紫月さんはここで暮らしているんだね」

「はい。そして、今日からは澪様のご実家でもあります」

「実感、沸かないなぁ……」


 養子縁組の手続きをしたのはシャノンで、私はいまだに両親の顔すら知らない。なにより、お屋敷が大きすぎて、ここが家だと認識が出来ない。

 なんというか、超豪華なホテルに連れてこられたという感覚だ。


 そんな心境で長い廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから、紫月さんが姿を現した。彼女の隣には、紫月さんと同い年か、少し上くらいの男の子がいた。

 漆黒の髪に、これまた黒い瞳。顔立ちは整っていて、少し気が強そうな印象を受ける。紫月さんとは髪の明るさが対照的だけど、その身に纏う風格が兄妹のように似ている。

 紫月さんに兄弟はいないはずなので、従兄か他人の空似だろう。


 その二人を目にした瞬間、シャノンは廊下の端によって、中央に向かって頭を下げた。反射的にそれに倣おうとして、寸前で踏みとどまった。


 シャノンにも、桜坂家の令嬢としての自覚を持てと忠告されたばかりだ。相手が他家の財閥の子息だった場合、私がここで庶民っぽい振る舞いはみせられない。男性の雰囲気が紫月さんに似ているのが気にはなるけど――と、私はピンと背筋を伸ばして二人を出迎えた。


「紫月お姉様、ただいま戻りました」


 紫月さんは瞬いて、それから「へぇ……」と感嘆の声を零した。だけど男の人は眉をひそめて「紫月お姉様? どういうことだ?」と紫月さんに問い掛ける。

 紫月さんは小さな笑みを返した。


「――恭介きょうすけ兄さんに紹介するわ。彼女は澪、私の可愛い妹よ」

「……は? おまえの妹、だと?」

「澪、こっちは桜坂 恭介。従兄のお兄さんよ」


 どうやら、私の心配は杞憂だったようだ。紫月さんの従兄なら、もっと殊勝の挨拶をしておくべきだった――と後悔するけれど後の祭り。私は気を取り直して頭を下げた。


「初めまして。紫月さんの再従姉妹で、今日から義妹になる澪と申します」


 恭介さんはいぶかしげな顔をした。

 彼は『なにを言ってるんだ、こいつは?』とでも言いたげな顔をしているけど、口には出していないので、私も答えられずにいる。

 どうしようと困っていると、紫月さんがフォローを入れてくれた。


「庶民の娘と駆け落ちした、お祖父様の兄がいたでしょう? 澪はその孫娘なの」

「……あぁ、たしかに聞いたことがある。だが、桜坂家の血を引いているからといって、このように不躾な娘をおまえの義妹にしたというのか?」


 恭介さんの言葉はわりと失礼だ。でもそれは、私を馬鹿にするようなニュアンスではなく、ただ事実を事実として口にしているような、淡々とした口調だった。

 実際、不躾な挨拶だったのは事実だ。だから、私は恭介さんの言葉に腹立たしいという気持ちは抱かなかった。だけど、紫月さんが腰に手を当てて不満を口にした。


「お言葉ね。澪はこう見えて、桜坂家の将来を担う逸材よ」

「……は?」


 紫月さんの言葉に対し、間の抜けた声を上げたのは私だ。なにを言っているのかと、慌てて訂正しようとする。だけど私が口を開くより早く、恭介さんが呆れ顔で口を開いた。


「紫月、おまえ、本気か? 礼儀も知らぬ娘が桜坂家の将来を担う逸材だと、本気でそんなことを思っているのか?」

「ええ、わたくしはそう確信しているわ」


 恭介さんは最初、紫月さんが冗談を言っていると思ったのだろう。でも、答えた紫月さんの目は真剣そのもので、恭介さんにも彼女の言葉が本気だと伝わったようだ。

 だから、彼は眉を寄せた。

 そして、真意をたしかめるように私に視線を向けた。


「……この娘がそれだけの逸材だと? 紫月、自ら立ち上げたファンドが思いのほか好調だからと、少し思い上がっているんじゃないか?」

「そうかもね。でもわたくしは、自分の見る目を信じてるわ」

「はっ、愚かなことだ。たしかに、おまえの情勢を見る目は一流だが……人を見る目はなかったようだな。精々、坂を転げ落ちないように気を付けることだ」


 恭介さんは不満気に言い放ち、今日はこれで失礼すると踵を返した。


「――待ってください」


 立ち去ろうとする彼を引き止めたのは私だった。だけど、それはなにかを意図しての行動じゃない。ただ、反射的に口が動いただけだった。


「なんだ娘、俺に平凡呼ばわりされたことに異論でもあるのか?」


 それは訂正するまでもなく事実だ。だから、平凡だと言われたことを悪口だとは思っていない。でも、だったらどうして、私は彼を引き止めたりしたのだろう?

 そう自問自答していると、紫月さんの姿が目に入った。

 その瞬間、自分がどうして彼を引き止めたのか理解する。


「訂正、してください」

「あくまで、自分は平凡じゃないと主張するのか?」

「いいえ、私は平凡ですし礼儀も知りません。非礼があったのならお詫びします。でも、紫月さんはそんな私に手を差し伸べてくれた優しい人です。愚かなんかじゃありません」


 そう口にしながら『なにを言ってるの? いきなり、桜坂家の身内に突っかかってどうするのよ、このバカ!』と、冷静な自分が叱りつけてくる。

 それでも、一度口にした言葉は飲み込めなかった。


「紫月さんへの侮辱を訂正してください」

「ほぅ、それは俺に命令しているのか?」


 恭介さんが牙を剥いた。その姿はまるで、無礼な雑兵をまえにした皇帝のようだった。

 彼ならば、私という存在を簡単に壊せるのだろう。


 廊下の気温が下がったような気がした。

 怖い。怖くて足の震えが止まらない。

 それでもスカートの端を握り締め、私はその場に踏みとどまった。


「訂正、してくださいっ。紫月さんは、愚かなんかじゃありません……っ」


 震える声で言い放つ。

 彼は目を丸くして、それからお腹を抱えて笑い始めた。そのあまりの爆笑っぷりに、私は自分が一体どういう状況に置かれているか理解できなくなって困惑してしまう。

 助けを求めて紫月さんを見れば、彼女は満足そうに笑っていた。


「どうかしら? これでも、わたくしの目が曇っていると思う?」

「いや、さきほどの言葉は訂正しよう。無知、無謀を絵に描いたような愚か者だが、その根性だけは認めてやってもいい。たしかに、おまえが気に入りそうな娘だ」


 恭介さんが笑って、紫月さんも満足そうな顔をしている。――っていうか……え? この二人、仲が悪かった訳じゃないの? え? もしかして私、勘違いしてた?


「おまえ、澪と言ったな?」

「は、はい、そうですけど……?」


 混乱する私はそう応じるのが精一杯だった。


「おまえは、紫月が侮辱されるのを許せないと、そう思っているんだな?」

「はい。彼女は私に救いの手を差し伸べてくれましたから」

「……そうか。なら、一つだけ忠告しておいてやる。紫月がなぜおまえのような娘を妹にしたのかは知らないが、妹にした以上、おまえの行動はすべて紫月に跳ね返る」

「私の行動が跳ね返る……ですか?」

「おまえが優秀な結果を残せば、おまえを妹にした紫月も評価されるだろう。だが、おまえがいまのように無知を晒せば、おまえを妹にした紫月が愚か者扱いされると言うことだ」

「――っ」


 ただの姉妹なら、妹の責任を姉が取る必要はない。でも、私を妹にしたのは紫月さんの意思だ。だから、その責任が紫月さんに発生するのは必然だ。

 私は、そんなことすら考えていなかった。


「……すみません」

「ふむ、素直なのは美徳だな。精々、紫月の名誉を穢さぬように精進することだ。おまえが紫月にとって害となると分かれば、俺はどんな手を使ってもおまえを排除するからな」


 彼は淡々とした口調で警告すると、今度こそ立ち去っていった。彼の姿が廊下の向こうへ消えると同時、緊張から解放された私はふらついて壁に寄りかかった。


「ちょっと、澪、大丈夫!?」

「す、すみません、緊張の糸が切れたみたいです」


 私が力なく答えると、紫月さんがふっと笑った。


「もう、脅かさないでよ」

「すみません」

「まぁでも、無理もないわね。桜坂本家の御曹司に食ってかかったのだもの」

「……桜坂本家の御曹司?」


 思ってもないことを聞かされて混乱する。というか、理性がその言葉の意味を理解することを拒否していた。だって、本家の御曹司って、それじゃ……


「まさか、知らなかったの? 彼は桜坂財閥を纏める当主の跡取り息子よ」

「そんなの、知るはず――っ」


 ないと言おうとして、財界の人間なら知っていて当たり前のことなのだと気が付いた。というか私、紫月さんについても、桜坂家のお嬢様としか聞いていない。


「……じゃあ、紫月さんは?」

「わたくし? そういえばちゃんとは名乗ってはいなかったわね。わたくしは桜坂財閥、先代当主の孫娘よ。だから、恭介兄さんとは再従兄妹はとこの関係になるわ」

「そ、そうだったんですか……」


 紫月さんが、桜坂家のどういう立場かまったく考えていなかった。というか、紫月さんが本家の娘だと勝手に思い込んでいた。


「もしかして私、結構危ないこと、しましたか?」

「まぁね。彼を敵に回すと言うことは、桜坂財閥を敵に回すも同然だから」


 つまり、彼は紫月さんより立場が上。私の行動は、紫月さんに迷惑を掛ける可能性すらあった。というか私、彼に紫月さんの名誉を穢せば、排除すると宣告されたんだけど。

 ……もしかして、大ピンチ?

 今更ながらに自分がどれだけ危ない橋を渡っていたかに気付いて目眩がした。


「ちょっと、澪!?」

「澪様、しっかりしてください、澪様!?」


 私の意識はそこで途切れた。


     ◆◆◆


 紫月が自室で経済誌に目を通していると、澪の看病を終えたシャノンが戻ってきた。


「澪の様子はどうだった?」

「緊張続きだったのが原因でしょう。いまはベッドで眠っています」

「……よかった。まさか意識を失うとは思わなかったから驚いたわ」


 澪が恭介の正体に気付いていなかったのは想定していた。だけど、まさか正体を知ったショックで立ったまま気を失うとは夢にも思わない。床が深い絨毯だったとはいえ、シャノンがとっさに支えてくれなければ頭を打っていただろう。


「ほんと、面白い子よね」


 紫月のために、桜坂本家の御曹司に食ってかかった。その勇姿を思い出した紫月は口元をわずかに緩めた。そんな紫月に向かって、シャノンがなにか言いたげな顔をする。

 それに気付いた紫月が「言いたいことがあるのなら言いなさい」と笑う。


「……はい。紫月お嬢様はどうして澪お嬢様をお選びになったのですか?」


 そう尋ねるシャノンは紫月の腹心である。

 いまから五年前、ここが乙女ゲームを元とした世界だと気付いた紫月は、自分の運命を変えるための手足を必要としていた。そうして最初に見つけたのがシャノンだった。

 そういった事情もあり、シャノンはここが乙女ゲームを元にした世界だと知っている。


 ゆえにシャノンも、紫月が代役を用意したことは理解できる。だが、なぜ代役として選んだのが、澪のような普通の女の子なのかは理解できないでいた。


「シャノンは澪を桜坂家の令嬢に相応しくないと思っているの?」

「それは……」


 シャノンは澪のことを思い返す。

 澪は両親に事情を話すより先に、妹に転院の事実を打ち明けた。そのときのシャノンは、ずいぶんと軽はずみな行動を取るものだと思ったが、後からそれは勘違いだと理解した。

 養子縁組と転院の件がセットであるかのように、澪が両親を誤解させたからだ。


 それこそが、澪が使わなかった切り札だ。

 もしも両親が最後まで養子縁組を拒んでいたのなら、彼女はこう言っていただろう。


『雫には転院の件を話してあるの。この話が立ち消えになったら雫が悲しむよ』――と。


 もちろん、転院の件は養子縁組とは別件だ。

 でも、両親は二つがセットだと思い込んでいる。あと三年しか生きられないと知っている娘に与えられたわずかな希望の光。それを奪うつもりなのかと脅迫する布石。


 本音を言えば、あまりスマートなやり方とは思えない。紫月はもちろん、シャノンでももっと上手くやる。それは他の財閥の子息子女でも同じことだ。

 だけど、澪はごく普通の家庭で生まれ育った女の子だ。それを考慮するのなら、澪の手際は及第点を与えられる――と、シャノンは思っていた。

 だけど――


「相手が誰かも考えずに、本家の御曹司に食ってかかるような方を身内に取り込むのは危険です。将来、どのような問題を起こすか予想がつきません」


 世の中には、知らなかったでは済まされないことがある。

 さっきのやりとりがその一つだ。澪が恭介の正体を知らなかったとしても関係ない。澪が問題を起こせば、それが紫月の汚点になるのは恭介が指摘した通りだ。


「たしかに澪は未熟よ。庶民の生まれなのだから仕方ないという言い訳も、桜坂家の娘になった以上は通用しない。このままなら困ったことになるでしょうね」

「でしたら、悪役令嬢に選ぶのは他の娘にするべきです」


 シャノンがそう訴えるが、紫月はそれを手振りで遮った。


「いいえ、あの子が適任よ」

「彼女には素質がある、と?」


 紫月は宝物を自慢する子供のように笑った。


「ねぇ、シャノン。恭介兄さんはどうして、澪が未熟だと判断したと思う?」

「澪お嬢様が基礎的な作法すら出来ていないから、ですよね?」

「そうね、その通りよ」


 廊下での遭遇なので、澪の挨拶はそれほど間違ってない。だけど、桜坂家の娘を名乗るにしては、所作が未熟すぎる――というのが、恭介が不快感をあらわにした理由である。


「事情を知らない恭介兄さんが、澪を不躾に思うのは無理もないわ。でも、澪がごく平凡な庶民の娘だと知っていれば、感想は変わると思わない?」

「たしかに、挨拶自体は大きく間違ってはいませんでしたが……」

「そう。それって結構すごいことよ。考えてもみなさい。澪があそこで素性に繋がるようなことを口にして、私の隣にいたのが他所の人間だったらどうなると思う?」

「たしかに、そうすれば色々と台無しになっていたかもしれませんね。ただ、それは……」


 と、シャノンが言葉を濁す。


「あら、もしかして助言でもした?」

「はい。桜坂家の娘として振る舞うように――と、車内で」

「な~んだ、貴女もわりと気に入ってるじゃない」


 そうじゃなければ、シャノンがそんな助言をするとは思えない。紫月がそう言って笑えば、シャノンはふいっと視線を逸らした。


「……応援したくなるような娘なのは事実ですが、財閥の娘となる適性があるかは別です」

「そうね。でも、その適性なら間違いなくあるわよ」

「なにを根拠に、そう判断されたのでしょう?」


 シャノンが重ねて問い掛けてくる。

 これは別に、紫月の判断に反対しているとか、紫月の言葉を疑っている訳ではない。ただ、根拠を聞いて、情報を共有するための行為だ。

 それを知っているから、紫月も気を悪くする様子もなく答える。


「確信したのはさっき。澪が妹として振る舞ったときよ」

「ですが、それは……」

「ええ、そうね。妹として振る舞うに思い至ったのは、貴女の助言を聞いたからでしょう。だけど、妹として振る舞うと決めた理由はそれだけじゃないわよ」

「……他にも理由がある、と?」


 シャノンが首を傾けると、紫月は宝物を自慢する子供のように微笑んだ。


「恭介兄さんの顔を知らなかったでしょ? だけど、親戚である可能性には気付いていた。親戚に怪しまれるリスクを覚悟の上で、他人に素性を悟られるという最悪を排除したのよ」

「……庶民育ちの娘が、あの一瞬でそこまで考えられるでしょうか?」

「驚きよね。でも、わたくしが恭介兄さんを従兄だと紹介した直後、あの子はその内心を顔に出した。自分の心配はただの杞憂だったのかって言いたげな表情をね」

「紫月お嬢様の判断を疑う訳ではありませんが、にわかには信じられません」


 紫月に仕える者として、シャノンはあらゆる状況に対処できるように訓練を受けている。

 逆に言えば、訓練を受けているからこそ、不測の事態にも対処できると言える。もしもなんの訓練も受けていなければ、不測の事態には対処できない。にもかかわらず、澪は学んですらいないことをやってのけた。平凡な行動の中に見え隠れする、キラリと光る天賦の才。


 澪は路傍の石ころに見えてその実、磨けば光るダイヤの原石である。そのことを、紫月は《《最初から知っていた》》。それが、彼女を義妹に選んだ最大の理由。


「彼女ならきっと、わたくしの目的を果たしてくれるはずよ。いまのあの子は未熟だけど、決して愚かじゃない。とても強くて優しい女の子だから」


 恭介に食ってかかる澪の勇姿を思い出し、紫月は口元に小さな笑みを浮かべた。

 

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