エピソード 1ー2
桜坂財閥のお嬢様と取り引きして、悪役令嬢になると約束した。だがそれは、私が桜坂家の養女になることを意味していると告げられた。
聞いてないよと、ちょっと取り乱した。
でも、悪役令嬢にはそれ相応の身分が必要だと説明され、私はそれに納得してしまった。妹を救うために桜坂家の養子になる必要があるのならためらう理由はない――と。
だけど、私が納得するのと、両親が納得するのは別問題だ。すべてを正直に打ち明けても、両親や妹に反対されることは想像に難くない。
だから私はまず、雫の病室へとおもむいた。
「澪お姉ちゃん、転院が決まった……って、どういうこと?」
「だからね。私がひったくり犯から鞄を取り返した相手が、偶然にも桜坂財閥のお嬢様だったの。それで雫のことを話したら、財閥御用達の病院で面倒を見てくれるって」
入院費用は全部相手持ちで、しかも充実した医療を受けられるんだよと説明する。それを聞いた雫は喜ぶでなく、ただ半眼になって私を睨んだ。
「お姉ちゃん? いくら私でも、そんな作り話は信じないよ」
「そういうと思って、はい、証拠」
紫月さんにお願いして撮影した、ツーショット写真をスマフォで表示する。
「うわぁ、モデルみたいに綺麗な人だね。でも、この人が財閥のご令嬢だって証拠にはならないよ。プロフィールでも載ってるなら別だけど――」
疑う雫に向かって、続けてあらかじめ検索していたページをブラウザで表示する。検索ワードは、財閥と桜坂紫月だ。彼女がなにかのパーティーに出席した写真が表示されている。
それを見た雫は目を見張って、自分の手元にあるノートパソコンで検索を始めた。
「お姉ちゃん、もう一回、さっきのツーショット写真を見せて!」
「……これでいい?」
私がその写真を表示すると、雫はマジマジと私のスマフォと自分のノートパソコンを見比べる。それを十回くらい繰り返した雫は「嘘、本当に本人だ……」と呟いた。
「それじゃあ……私が病院を移るのも本当なの?」
「神様がくれたクリスマスプレゼントかもね。これで雫の病気もきっとよくなるよ」
私は優しく微笑みかける。
こうして、雫が医療体制の充実した病院へ移れるという事実を打ち明けた。だけど私が悪役令嬢を目指すことはもちろん、養子になることは打ち明けなかった。
理由は単純だ。
妹のために無理をしていると誤解されたくなかったから。
私がバイトを始めたのは雫の病室を個室にするため。
雫は私の一つ下で、十四歳の女の子だ。そんな年頃の女の子が不特定多数の人が出入りする大部屋で生活するのは大変だから、個室に入れてあげたいと思った。
だけど、そうするには個室ベッド代が掛かる。
医療費は限度額が決まっているけれど、リース代や食費を始めとした経費は別に必要になる。個室を希望した場合の差額ベッド代も含めれば、月に十数万のお金が必要となる。
短期入院ならなんとかなっただろう。でも雫が患ったのは難病で、入院は年単位で続くことが予想される。十数万に及ぶ費用を毎月、何年も払い続けるのは大変だ。
それが分かっているからか、妹は個室に入りたいとは言わなかった。だから私が半ば強引に個室を指定して、その費用を稼ぐためにバイトを始めたのだ。
でもそれは、私がそうしたかったから。義務として嫌々やっている訳じゃない。なのに、バイトに行くと告げる私に、雫はいつも申し訳なさそうな顔をする。
だから、私が養子になることや、悪役令嬢を目指すことは秘密だ。三年後に最新の医療を受けられるかもしれないこともしばらくは秘密にする。
だけど、転院すると聞いた雫が浮かべたのは、様々な感情をごちゃ混ぜにした笑顔だった。
財閥御用達の病院に移ることで生じる希望と、そんな幸運があるのだろうかという困惑。そして、姉が無理をしているのではないかという疑念。
賢い雫は、私がなんらかの代償を支払った可能性を疑っているのだろう。
それでも、雫に想像が可能なのは、私が少し大変なバイトをしていると予想する程度だろう。私が桜坂家の養子になって、悪役令嬢を目指すことになったとは夢にも思わないはずだ。
だから、これでいい。
真実を知らなければ、雫がこれ以上の責任を感じることはない。
「転院は週明けだから、用意しておいて……くれるよね?」
このプレゼントを受け取ってくれるかと言外に問えば、雫は涙を浮かべて微笑んだ。
「ありがとう、澪お姉ちゃん。この恩は死んでも忘れないよ」
「……っ。それじゃ、私は行くから。転院の用意を忘れないでね」
私はクルリと身を翻し、足早に雫のいる病室を後にした。
そして――壁に腕を叩き付けた。
雫はこの恩を‘死んでも’忘れないと言った。自分の余命が残りわずかだと知り、自分には恩返しの機会が残されていないと思っているのだ。
それは転院の件を聞かされた後でも変わっていない。
雫はあの小さな身体で自分の死を受け入れてしまっている。
だけど、そんな悲しい結末を私は認めない。
雫は私が死なせない!
こうして両親に内緒で計画を進めた私は、その帰りにバイト先のカフェを訪れた。
代わりのバイトが見つかるまで、桜坂家が代理を派遣してくれることになり、私がバイトに向かう必要はもうないと言われた。でも、最後に一日だけ働かせて欲しいとお願いしたのだ。
結果、クリスマスが私にとって最後のバイトの日になった。カフェの制服に着替えてフロアに顔を出すと、ちょうど楓さんがレジを打っているところだった。
レジを打っていると言うことは、そのお客さんが席を立ったということだ。私はすぐにトレイを持って席に移動し、テーブルの上を片付ける。
まずは食器を下げて、続けてテーブルを綺麗に磨きあげる。周囲にゴミが落ちていないか確認すると、椅子の上に真っ白なマフラーが落ちていることに気が付いた。
お客さんが落としたのかなと、私はマフラーを持ってレジに急ぐ。
「楓さん、これ、忘れ物です」
「あっちゃ~、いまちょうど出たところよ。忘れ物置き場に置いておいて」
「……楓さん、このマフラーを使ってたの、どんな人ですか?」
預かっておくだけでも問題はないのだけど、私がこのお店で働くのは今日が最後だ。だから心残りは残したくない。そう思ってお客さんの容姿を尋ねた。
幸い特徴的な容姿だったから、いまならまだ見つかるかもしれない。
「ちょっと見てきます」
真っ白なマフラーを持って店の外に出る。少し周囲を見回すと、楓さんから聞いたとおりのお嬢様風の恰好をした女の子が、少し離れた場所にたたずんでいた。
私の妹と同い年くらいだろうか? 儚げで愛らしい女の子だ。
「あの、すみませんっ」
「……なんだ、おまえは」
駆け寄ると、少し気の強そうな男の子が、儚げな女の子を庇うように割り込んできた。女の子に負けず劣らずの整った顔立ちで、二人揃うと物凄く絵になっている。
思わず見惚れていると、男の子が胡散臭そうな顔をした。
「あ、えっと、私はそこのカフェで働いている店員です。それで、マフラーの忘れ物を見つけて届けに来たんですが……そちらの女の子のマフラーではないですか?」
「……ああ、たしかにそれは瑠璃のマフラーだな」
女の子は瑠璃と言うらしい。彼女は自分の首にマフラーがないことを確認してハッと驚くような顔をする。どうやら、彼女のマフラーで正解だったようだ。
それを確認した私は、瑠璃ちゃんの首にマフラーを巻いてあげる。そうして顔を盗み見ると、されるがままの瑠璃ちゃんの頬が少し赤らんでいる。
「マフラー、もう忘れちゃダメだよ」
「……ありがとう、ウェイトレスのお姉さん」
赤らんだ顔で私を見ていた瑠璃ちゃんがぎこちなく笑った。この子、もしかして……と考えていると、男の子に「おい、おまえ」と腕を摑まれる。
「……えっと、なにか?」
私が少し警戒すると、瑠璃ちゃんが「妹の前でナンパですか?」と首を傾げた。どうやら二人は兄妹のようだ。半眼で睨まれた男の子があからさまに動揺する。
「いや、そうじゃない。その……さっきは疑って悪かった。それと、瑠璃のマフラーをわざわざ届けてくれたことに感謝する。これは瑠璃が大切にしているマフラーなんだ」
「そうだったんですね、なくさないでよかったです」
私は笑みを浮かべ「ところで――」と瑠璃ちゃんに視線を向ける。妹の件で人の体調について注意深くなっている私の勘が、瑠璃ちゃんの体調不良を訴えている。
「彼女、もしかしたら熱があるんじゃないですか?」
「なにっ!?」
男の子が慌てて瑠璃ちゃんのおでこに手のひらを押し当てた。それから反対の手を自分のおでこに当てると、その温度差をたしかめて表情を険しくした。
「……たしかに熱があるようだな。すぐに家に帰ろう」
「これくらい大丈夫です」
「おまえの大丈夫はあてにならない」
次の瞬間、男の子が瑠璃ちゃんを抱き上げた。
うわぁ……お姫様抱っこだ、私と同い年くらいなのに、女の子を軽々と抱き上げるなんてすごい。とても妹さん想いの優しい男の子なんだね。妹ラブの私的に、妹を大切にする男の子はポイントが高い。そんな風に微笑ましく思っていると、男の子が私に視線を向けた。
「妹は病弱なクセに意地っ張りでな。熱が出ていることに気付いてくれて助かった。この借りは、後日必ず返させてもらうと約束しよう」
男の子はそう言いながら私の制服を見て、続けて私がやってきた方に視線を向けた。もしかしたら、後日カフェにお礼に来るつもりなのかもしれない。
だけど、私がカフェでバイトをするのは今日で最後だ。
私と彼が再会することはない。
「気にしなくていいですよ」
「そうはいかない。受けた恩は必ず返す」
彼はそう言い残し、瑠璃ちゃんをお姫様抱っこしたまま去っていった。瑠璃ちゃんは恥ずかしそうに下ろしてと抗議していたけれど、彼は聞く耳を持っていないみたいだ。
そんな二人の微笑ましい姿を無言で見送り、私もまたカフェに戻る。
「おかえり、どうだった?」
入り口で、心配そうな楓さんに出迎えられた。
「大丈夫です、ちゃんと届けられました」
「そう、よかったわ。……それじゃ、バイトの最終日、よろしくね」
「はい、任せてください!」
寂しさを振り払い、私は最終日のバイトに臨む。
今日はクリスマスということで、桜花百貨店も若いカップルや親子連れなんかで賑わっていた。普段より客足が多く、また客の出入りもいつもより激しい。
楓さんは大忙しで、私もまたせわしなくフロアの中を走り回った。そうして夜になり、客足が落ち着いた頃、ついにバイトの終わる時刻が訪れた。
私はカウンターの向こうにいる楓さんにぺこりと頭を下げた。
「楓さん、いままで中学生の私を働かせてくれてありがとうございました」
「こちらこそありがとう。貴女が働いてくれてよかったって心から思っているわ。また働く気になったらいつでもいらっしゃい。貴女ならいつだって大歓迎よ」
「楓さん、ありがとう!」
感謝の気持ちを込めてお礼を口にする。
すると、楓さんが不意に心配するような面持ちになった。
「ところで、シャノンさんから事情を聞いたわよ。桜坂家の養子になるんですってね? ずいぶんと思い切ったことをしたわね」
「条件がよかったんです。あと、すみません。その件は秘密なので……」
「もちろん分かってる。シャノンさんから口止めされているし、桜坂財閥を敵に回すような真似はしないわ。ただ、両親をどうやって説得したのかなって」
私はそっと視線を外した。
「……もしかして、まだ話してないの? どうするつもりよ」
「大丈夫です。作戦はちゃんと考えています」
「作戦?」
私はこくりと頷き、パパとママのことを思いだして微笑んだ。
「私のパパとママは凄く優しいんです。それに私達のことを心から大切にしてくれています。だから、娘を犠牲にするようなことは絶対にしない」
「そうね。でも、だからこそ、貴女を養子に出すのは反対するはずよ?」
その言葉には首を横に振って応じた。
医療費の肩代わりが条件なら、楓さんの言うように賛成してくれなかっただろう。でも、そうじゃない。私が養子になれば、雫の命を救う希望がある。
だから――
「必ず賛成してくれると私は信じてます。だってパパとママは大切な娘のためなら、どんな犠牲だって厭わない優しい人だから」
私がそういって笑うと、楓さんは複雑そうな顔をした。
「澪、貴女も二人の大切な娘なのよ?」
「もちろん分かっています」
だからこそ説得できるという確信があった。
「……分かっているならもうなにも言わないわ。でも、なにか困ったことがあればいつでも相談しなさいね。貴女が私の可愛い従妹であることは変わりがないもの」
優しく微笑む楓さんに、私は深く頭を下げた。
準備は整った。
私は満を持して、途中でシャノンさんと落ち合って家に帰った。そうして、紫月さんが私をいたく気に入って、養子にしたがっているという方向で両親を説得する。
私が悪役令嬢になって破滅を目指す――という部分はもちろん秘密である。
それでも――
「なにを言っているんだ、澪!」
「そうよ、貴女を養子になんて出すはずないでしょう?」
桜坂家の養子になりたいと言う私に、パパとママは猛反対した。
それは私にとって予想通りの反応だ。
パパもママも凄く優しくて、心から私のことを愛してくれている。私が他所の子になるなんて言い出せば、絶対に反対すると分かっていた。
だから――
「私が養子になれば、雫の病気が治せるかもしれないの」
私は雫のことを持ち出した。
パパとママの顔が目に見えて強張った。
「雫の容態、あまりよくないんだよね? でも、海外では、雫が患っている難病を治療する方法を研究する機関があって、その治療の治験が三年以内に終わると言われているの」
「その話なら私達も知っている。だが、雫がその治療を受けられるのは……」
パパが唇を噛んだ。
「分かってる。普通ならもっと後になるんだよね? でも、紫月さんが言ってくれたの。桜坂家の養子になるのなら、コネを使って最速で治療を受けさせてくれるって」
「それは……」
昨日の私と同じような心配をしているのだろう。私が一度通った道だから、それらを予測するのは簡単だ。だからその説明は、事前にシャノンさんにお願いしてある。
パパとママに向かって、シャノンさんが口を開いた。
「澪様の仰っていることは事実です。もしも澪様が桜坂家の養子になることを受けてくださるのなら、最速で最新医療を受けられるように手配すると約束いたします」
パパとママが顔を見合わせる。
そこに畳み掛けるように、シャノンさんが追加の提案をする。
「その上で、雫様は財閥御用達の病院に転院させ、二十四時間態勢で容態をモニタリング致します。もちろん、それらに掛かる費用はすべて桜坂家で負担いたします」
転院と、転院先でかかる入院費の件はすべて、私がひったくり犯から鞄を取り返したことへのお礼だ。でも私は、それが養子とセットであるかのようにパパとママを誤解させる。
「私が養子になれば、これだけの手当を受けられるんだよ」――って。
紫月さんの提案はなにからなにまで至れり尽くせりだ。この話に乗れば本当に雫が助かるかもしれないと、一度は絶望した私が希望を抱くほどに。
でも、だからこそ、パパとママは表情を強張らせた。私を養子に差し出して雫を救うか、私を養子に差し出さずに雫を諦めるか、どちらかを選ばなくてはいけないと気付いたから。
絶望と希望をないまぜにして、どちらかしか選べない自分達の不甲斐なさに唇を噛む。そのときのパパとママの顔を、私はきっと一生忘れないだろう。
パパとママは、雫の命と、私の養子縁組を天秤に掛け、その答えを出せないでいる。
雫と同じように私を愛してくれている。
――だから、私はお願いした。
「雫を助けたいの。そのために、桜坂家の養子になることを認めてください」
パパとママが、雫のために私を手放すんじゃない。
私が、雫のために家を出る。それを認めて欲しいのだと懇願する。
これで、二人は私のお願いを断れない。
だって、パパとママは娘を心から大切にしている。
娘のためなら、どんなことだってしてくれるほどに。
だから、娘である私の本気の願いを無下にしたりしない。
娘である雫を救える機会を手放したりしない。
たとえそれが、愛する娘を手放す悲しみを背負うことと引き換えだとしても。
だから、パパとママは泣きながら私に謝って、最後は私の選択を認めてくれた。
その上で、シャノンさんに深く頭を下げた。
「どうか、娘達をよろしくお願いします」――って。
こうして、私は桜坂家の養子になることが決定した。
思ったよりもあっさりと事が進み、用意した切り札を使わずに済んだことに私は心から安堵する。
それから、戸籍のロンダリングをすることになった。
元庶民の養子では、悪役令嬢としての立場が弱いということで、私は庶民の娘と駆け落ちした、桜坂財閥の前当主の兄の孫娘ということになった。
どうやら、駆け落ちした人物は本当にいるらしい。ただ、桜坂財閥の力でその家族の存在は隠されていて、見つけ出すのはほぼ不可能ということだ。
その立場を私に当てはめた。
庶民の娘と駆け落ちした前当主の兄と、その娘夫婦――つまり、私の祖父母と両親は、桜坂財閥の力でその居所や現在の名前を隠されていて、孫娘の私だけが桜坂財閥に復帰することになる。
――という設定。書類上のこととはいえ、立派な戸籍の改竄である。
だから、この秘密は決して人に知られてはいけない。人前でパパやママの娘だと名乗ることは出来ないし、雫のお姉ちゃんだと名乗ることも出来なくなった。
それが寂しくないといえば嘘になる。
でも、とっくに覚悟は決まっていると、養子縁組の書類にサインをした。
これが、私が佐藤 澪として過ごした最後のクリスマス。
これからの私は桜坂 澪となり、悪役令嬢としての人生を歩み始める。