エピソード 1-1
中学からの帰り道、病院に立ち寄るのが私の日課となっていた。
「澪お姉ちゃん、いつもありがとうね」
病院にある小さな個室のベッド、上半身を起こした少女が穏やかな声でお礼を言う。彼女の名前は雫。私にとって掛け替えのない妹だ。
だけど彼女は数年前に難病を患って、それからずっと入院生活を続けている。
「雫、体調はどう?」
「……うん、最近はだいぶ調子がいいよ」
その優しげな瞳に私を写し、ふわりと笑みを浮かべる。
彼女が患っている難病にはこれといった治療法がない。治るか悪化するかは本人の運次第である部分が大きいのだけど、ここ最近の雫は少しずつ明るさを取り戻している。
この調子ならきっと、すぐに元気な雫に戻ってくれるはずだ。
「早くよくなって、昔のように一緒にお出かけしようね」
雫に手を伸ばし、私と同じ夜色の髪を指で梳いてあげる。彼女はくすぐったそうに目を細めて「うん、そうなるといいね」と笑みを浮かべた。
「そういえば、今日学校でね――」
友達から教えてもらった流行について語る。他にも雫が愛読しているファッション誌を一緒に眺めたりと、穏やかな姉妹の時間を過ごした。
そうしてほどなく、スマフォに設定していたアラームが鳴った。バイトまではまだ少し時間があるけれど、今日は買い物があったことを思い出す。
「そろそろ行かないと」
「まさか、バイトの時間を早めたの?」
「違うよ。今日は少し買い物があるの」
「そっか。澪お姉ちゃん……その、ごめんね?」
「どうして雫が謝るのよ。それじゃ、もう行くわね」
雫の反論を封じ、私は病室を後にした。
そうして部屋を出たところで雫の担当医と出くわした。年の頃はパパより少し若いくらいだけど、とても優秀な先生だと、仲良くなった看護師のお姉さんから聞いている。
「先生、いまから雫の往診ですか?」
「いや、キミに話がある。いまから少し時間はあるかい?」
「……はい、少しなら」
買い物は明日だって出来る。というか、妹の担当医から真面目な口調で私に話があると言われて、それを聞かないなんて出来るはずがない。
私は先生の案内で、受付の奥にある部屋へと連れてこられた。
看護師さんの勧めに従って、そこに置かれていた丸椅子に腰掛ける。そうして、向かいの席に座った先生に「……話ってなんですか?」と問い掛けてスカートの裾を握る。
「話というのは他でもない、雫さんのことだ。キミのご両親には先生の口から上手く伝えて欲しいとお願いされ、雫さんには黙っていて欲しいとお願いされたんだが……」
長い前置きが私の胸をじりじりと焦がす。
「教えてください、雫になにかあったんですか?」
「……落ち着いて聞いて欲しい。雫さんの容態がかなり悪化しているんだ」
とたん、目の前が真っ暗になった。
「嘘、です! 雫、さっきも最近は調子がいいって……っ」
「それは……キミの前だからだよ。彼女はキミが来たときだけ元気に振る舞っているんだ。本当なら、キミと話すだけでもかなりしんどいはずだ」
「……そん、な」
信じられない。信じたくない。
でも同時に、先生の言葉が真実だと納得する自分がいた。私が元気かと問い掛けたときの雫は私の目を見て、それから一拍おいて笑みを浮かべた。
自然に零れた笑みなら一拍置くのは不自然だ。
あれは、私を心配させないために、無理に浮かべた笑顔だったのかな? そうして思い返すと、心当たりがいくつも浮かんでくる。
私は思わず先生に縋り付いた。
「先生、教えてください。雫は……雫は、どういう状況なんですか?」
「……いますぐどうと言うことはない。ただ、よくない方向に向かっていることだけはたしかだ。このままだとおそらく……あと三年と言ったところだろう」
ふらりと、その場で意識を失いそうになった。
その瞬間、背後に控えていた看護師のお姉さんに肩を支えられる。
あぁ……そっか。私に椅子を勧めたのは、こうなることを予想していたからか。
――と、そんなどうでもいいことを理解して冷静になる。私は先生の言葉を思い返した。雫は私の一つ下で中学の二年。つまり、雫が高校を卒業することは出来ない。
思わず唇を噛んだ。
雫が患っているのは難病の一つだ。完治した例もいくつか存在するが、これといった治療法は存在しない。運命に身を任せ、やがて死に至るケースが大半である。
それでも、雫は小康状態を保っていた。だから、いつかは難病なんて蹴り飛ばし、元気な雫が帰ってくるんだって信じてた。……信じて、いたのに……っ。
「お願いします、雫を救ってください! 必要なら、私の臓器でもなんでも使ってくれてかまいません! だから、どうか、お願いだから、雫を……妹をっ!」
「残念だが、臓器移植で救えるような病気ではないんだ。それに、現時点でこれといった治療法は存在しない。海外では様々な治験がおこなわれているから、あと五年も経てば……」
先生は酷く後悔した顔で口を閉じた。その五年が、雫には残されていない。奇跡でも起きなければ、雫を救うのは不可能だと言うことだ。
「……悔しいよ。どうして神様はこんな酷いことをするの?」
雫はとても優しい女の子だ。
心配させまいと、私のまえでは笑顔を浮かべていた。先生を口止めして、私が雫の状態を知らないでいられるようにしようとした。自分が一番苦しいはずなのに、私や両親の心配ばかりしている。そんな天使みたいな雫が、成人することすら出来ないの?
あまりの悔しさに、私の視界が涙でにじんだ。
「澪さん、気を落とさないで。さっきも言ったが、いますぐどうと言うことはないんだ。それに、三年と言ったのは、回復の兆候が見られなければ、ということだよ。いまは悪化を続けているが、いつか回復の兆しが現れるかもしれない」
もちろん、可能性は零じゃないのだろう。
でも、いままで私が思っていたような確率でもない。先生の言葉が私に対する慰めの意味しか持たないと理解して、それでも希望を取り戻すなんて私には出来なかった。
慰めに対して「ありがとうございます」と精一杯の笑みを返す。そうして不器用に笑う私に、先生はとても哀しそうな顔をした。
「……しばらく、ここで休んでいくといい」
先生はそう言って、看護師のお姉さんと共に席を外した。
一人で席に座り、思い返すのは雫との思い出だ。
小さい頃の私は自分に自信がなくて、よく妹の雫に手を引いてもらっていた。私が近所の男の子にからかわれたときは、雫が私を庇ってくれた。
いまの私があるのは雫のおかげだ。
その雫があと三年で死んでしまう。
そう思うと胸が苦しくて、昔のように雫に泣きつきたくなってしまう。
だけど……ダメだ。
私よりずっと雫の方が辛い状況にある。
残された時間がわずかだと知って一番絶望したのは雫本人だ。それなのに、私がここで下を向く訳にはいかない。いまこそ、私がお姉ちゃんとして雫を支える番だ。
でも、私に雫の病は治せない。
いまの私に出来るのは、妹の入院費用に充てるお金を稼ぐことだけだ。だから――と、私は袖で目元を拭って席を立った。そうして先生に挨拶をして、バイト先へと向かう。
私はまだ十五歳。
中学三年の私は本来働くことが出来ないけれど、家庭の事情を鑑み、親戚のお姉さんが経営するカフェで働くことを特別に許可してもらっている。
バイト先のカフェは、桜花百貨店の上層階にある。その百貨店の正面、横断歩道の向かい側で信号待ちをしていた私は、不審な挙動をするお嬢様風の女の子を見かけた。
長いブロンドの髪は、この国でもそれほど珍しくはない。珍しいのは、私が身に付けるのとはまるで違う、高級感にあふれる装いをしていることだ。
手には煌びやかな手提げ鞄、暖かさそうなモコモコのコートを羽織り、その下にはハイウエストのロングスカートというコーディネートで見るからにオシャレ。
あんな風に着飾れば、私も可愛くなれるのかな? 雫が病気じゃなければ――と、一瞬だけ浮かんだ醜い感情を慌てて振り払う。
ばか、なにを考えてるの? 私に取って雫は誰よりも大切な存在じゃない!
その雫のことを疎ましく思うなんてあり得ないと、自己嫌悪に陥って頭を振った私は、背後からお嬢様に近付く男性に気が付いた。
お嬢様はきょろきょろと辺りを見回していて、背後から近付く男には気付いていない。というか、男はお嬢様に気付かれないように立ち回っている節がある。
妖しい――けど、知り合いが脅かそうとしているだけかもしれない。
そう思った次の瞬間、男がお嬢様の手提げ鞄をひったくった。お嬢様が驚いて振り返る。それと同時、私の横を駆け抜けようとするひったくり犯。
気が付けば、私はその男が手にする手提げ鞄に飛びついていた。
「――っ、なんだ、おまえは、放せ!」
「貴方こそ、鞄を返しなさいよ!」
「くっ、放せって言ってるだろ!」
ドンと突き飛ばされた私は歩道の上に倒れ込んだ。だけど、鞄の感触は胸の中に残っている。鞄を奪い返されたことに気付いたひったくり犯は舌打ちを残して逃げていく。
「貴女……大丈夫?」
気遣う声に気付いて顔を上げれば、気の強そうな美少女――鞄をひったくられたお嬢様が、心配そうな顔で私を見下ろしていた。
年の頃はおそらく私と同じか、少し上くらいだろう。スタイルはよく、手足も細くスラリと伸びている。まるでモデルのように整った体型。
そして、ブロンドのロングヘアに縁取られた小顔には、意志の強そうな紫の瞳と高い鼻、それに艶のある唇が絶妙なバランスで収まっている。年相応の幼さは残しているが、まるでファッション誌のトップを飾る女の子のような輝きを秘めている。
私は思わず、そんな彼女に見惚れてしまった。
「ねぇ、ちょっと、ほんとに大丈夫? 頭でも打った?」
「あ、いえ、大丈夫です」
気遣う彼女の声で我に返り、慌てて問題ないと取り繕う。それから、ひったくり犯から取り返した鞄を胸に抱いたままだったことを思い出す。
「そうだ、この鞄、お返ししま――すっ!?」
彼女に鞄を差し出した私は声にならない悲鳴を上げた。ひったくり犯と引っ張り合ったせいか、持ち手の付け根が大きく裂けていたからだ。
「――ごめんなさいっ!」
鞄を差し出したまま深々と頭を下げる。
これ、ブランドのバックだよね? もし弁償しろって言われたらどうしよう? そんな風に心配するけれど、すぐに「貴女が謝る必要はないでしょう?」と穏やかな声が響いた。
顔を上げると、彼女は「取り返してくれてありがとう」と鞄を受け取った。
「心配する必要はないわ。ひったくり犯から鞄を取り返してくれた貴女に文句を言うなんて、そんな恩知らずな真似はしないわ。それに、償いは彼にさせるから」
――と、アメシストのような瞳を細め、私の斜め後ろに視線を向ける。釣られて振り向くと、黒服の男に拘束されたひったくり犯の姿があった。
いつの間にか、周囲に黒服の男やメイドが集まっている。
「お嬢様、ひったくり犯はどういたしましょう?」
「そうね、ただの身の程知らずだと思うけど、私個人を狙った可能性もあるから尋問はしておいて。警察には、確認が終わったらお届けすると伝えなさい」
命令を下す姿は凜として、人を使うことに慣れきっていることがうかがえた。やっぱり、本物のお嬢様なんだと感心していると、指示を終えたお嬢様が私に向き直った。
「あらためてお礼を言うわ。私の鞄を取り返してくれてありがとう」
「いえ、そんな、私はなにも……」
というか、ひったくり犯は彼女の護衛かなにかに捕まっている。私が手を出さなければ、鞄が傷付くこともなかったんじゃないかなと思ってしまう。
でも、彼女は私の内心を見透かしたかのように首を横に振った。
「貴女が足止めしてくれなかったら逃げられていたかもしれないわ。それに、仮にそうじゃなかったとしても、貴女が私を助けようとしてくれた事実は変わりないもの」
だから、ありがとう――と、微笑む彼女の姿はとても美しかった。
そんな彼女の紫の瞳が猫のように細められる。
「ところで貴女、お礼をしたいのだけど、いまから時間はあるかしら?」
「え、時間――」
と、スマフォの時計を見た私は青ざめた。
「ご、ごめんなさい、バイトに遅刻しそうだからもう行きます!」
幸いにも横断歩道の信号は青。私はお嬢様の返事を聞く暇も惜しんで駈け出した。
横断歩道を渡り、桜花百貨店の玄関をくぐり、エレベーターを使って上層のレストラン街へ移動する。続けてフロアを早足で駆け抜け、私が働いているカフェに飛び込んだ。
現在の時刻は、バイト開始の五分前を少しだけ割り込んでいた。
「……はあ、はぁ、楓さん、遅くなってすみません」
「あら、走ってきたのね。時間には遅れていないし、そこまで急がなくても大丈夫よ」
柔らかく微笑んで、水を注いだコップを差し出してくれたのは楓さん。このカフェを経営する店長で、私の従姉に当たるお姉さんだ。
私はコップの水を受け取って、くいっと一息に飲み干した。
「ありがとうございます。でも、雇っていただいている身ですから」
「ふふ、ずいぶんと頼もしくなったわね。初めてバイトに来たときは、お客さんに話しかけられただけではわわ~って、なっていたのに」
「か、楓さん、恥ずかしいことを思い出させないでください!」
指先で火照りそうな頬を隠し、着替えてきますからと更衣室へと足を運んだ。
更衣室で学校の制服を脱いだ私は、雫の担当医から聞いたことを思いだして胸が苦しくなった。でも、負けちゃダメだと自分を叱咤して顔を上げる。
そうして、身に付けるのは、ブラウスとズボンを合わせたカフェの制服だ。ウェイトレスはスカートなのだけど、私だけがズボンという出で立ち。
中学生の私が出来るだけトラブルに巻き込まれないようにという、楓さんの気遣いである。
ちなみに、私がこのカフェで働くようになってもうすぐ一年が経つ。
最初は叱られることも多かったし、困った客の対応を上手く出来なくて悔しい思いをしたこともある。でもいまは、ウェイトレスとしてそれなりに働けていると思う。
レジはいまだに触らないように言われているけど、オーダーを通したり、出来上がった料理を運んだり、お客さんが帰った後のテーブルを片付けたりするのは私の仕事だ。
そうして一通りの仕事をこなしていると、客足が落ち着いたころに二人組の女性客がやってきた。銀髪のお姉さんは二十代半ばくらいで、金髪の少女は十代半ばくらい。年齢だけを考えれば、少し歳の離れた姉妹かなにかと思うところだけど――その二人に限っては違うだろう。
二十代半ばのお姉さんはメイド姿で、もう一人は――さきほどのお嬢様だった。どうしてここに……と困惑していると、楓さんに小声で接客を促される。
我に返った私は慌てて二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ、お席に案内いたします」
「――恐れ入りますが、窓際の席でもよろしいですか?」
案内をする私にメイドさんが希望したのは、窓際にある四人掛けのテーブル席。混んでいる時間帯なら遠慮してもらうところだけど、この時間帯なら問題はない。
「かしこまりました。では、窓際の席にどうぞ」
席に案内して、お水をお持ちしますと言ってカウンターの奥に戻る。そうして水を注いだコップをトレイに乗せていると、さきほどのメイドさんがやってきた。
彼女はカウンター越しに話しかけてくる。
「失礼いたします。このお店の責任者はどなたでしょう?」
「責任者は楓さんですが――」
そう言って視線を向ければ、声が聞こえていたのか、楓さんが「私が責任者の松山ですが、どういったご用件でしょうか?」と応じた。
「申し遅れました。わたくし、桜坂財閥の紫月お嬢様にお仕えするシャノンと申します」
私達は揃って目を見張った。桜坂財閥といえば、三大財閥の一角、日本で暮らしていて、その名を知らない者はいないほど有名な財閥だ。
「その桜坂財閥のメイドさんが、私になんのご用でしょう?」
「さきほど、そちらのお嬢さんに紫月お嬢様がお世話になりまして。ぜひお礼をしたいとお嬢様が仰っています。ですので、彼女のお時間を少しお貸しいただけないでしょうか?」
「桜坂財閥のお嬢様のお世話を、澪が?」
楓さんに『どういうことか説明して!』と目で訴えられる。私は少し目を泳がせつつ「さっき、その……色々ありまして」と応じた。
色々ってなによ! と言いたげな楓さんはちょっぴり涙目である。
「松山様、言葉足らずで申し訳ありません。さきほど、彼女がひったくり犯から、お嬢様の鞄を奪い返してくださったので、そのお礼という意味で他意はございません」
「そ、そうなの? というか、澪、そんな危険なことをしたの?」
ジロリと睨まれてさっと視線を逸らした。
楓さんは小さく溜め息をついて、メイドのシャノンさんに視線を戻す。
「事情は承りました。――澪、少し休憩を取ってかまわないわ」
「接客は大丈夫ですか?」
私が来る前にいたバイトは入れ替わりで上がっている。まだ混み始める時間ではないけれど、私が席を外すと困るのではないかと心配した。
「僭越ながら、澪様をお借りしているあいだは、私が接客のお手伝いをさせていただきます」
シャノンと名乗ったメイドさんが名乗りを上げる。楓さんは私とメイドさんを見比べ、どこか疲れた顔で「そういうことみたいだから大丈夫よ」と息を吐いた。
なんかごめんなさいと心の中で謝って、私はお嬢様が座る席に向かった。
「お待たせしました」
「来たわね。まずは座って」
勧められたのは上座の席、お嬢様が座っているのが下座である。
窓際の席で分かりにくかった――なんて、財閥のお嬢様やメイドさんが気付かないはずないよね。ということは、恩人として私を立ててくれているのかな?
そう思った私は彼女の勧めに従って席に座った。それを見届けたお嬢様がふっと笑う。
「物怖じしない性格ね。それに頭の回転も悪くないし、判断までの時間も速い。やっぱり、私の判断は間違っていなかったわ」
「……はい? あの……なんの話ですか?」
「貴女へのお礼の話よ」
どう考えても、そういう話じゃなかった気がする。でも、それは情報が足りていないからだろう。そう思った私は彼女が説明するのを待った。
お嬢様は満足気に頷き、話を再開する。
「そういえば名乗っていなかったわね。私は桜坂 紫月よ」
「あ、すみません。私は――」
「佐藤 澪さんでしょ? 貴女へのお礼を考える際に、少し貴女のことを調べさせてもらったわ。妹さんがずっと入院しているそうね?」
名前どころか、妹のことまで知られている。あれからまだ一時間くらいしか経っていないのに、彼女は私の素性を調べ上げたらしい。
でも、私が感心していられたのは次の言葉を聞くまでだった。
「妹さんの容態、思わしくないそうね」
なぜそのことを話題にするのか理解できなかった。せっかくバイトに集中して、頭の片隅に押しやっていた不安が膨れ上がる。
彼女に対する負の感情と、妹を心配する負の感情が交ざってぐちゃぐちゃになった。
「わたくしの代わりに悪役令嬢になりなさい。そうしたら貴女の妹を助けてあげる」
不意に、彼女がそんな提案をした。いきなり、悪役令嬢になれと言われても意味が分からない。でも、妹を助けるという言葉が私の琴線に触れた。
「……妹を、助けられるんですか?」
縋るような視線を向ける私に、彼女はこくりと頷いた。
「私の代わりに、貴女が悪役令嬢になってくれるのならね」
もしも悪魔に魂を差し出せと言われたなら、私は即座に頷いたかもしれない。けど、悪役令嬢になれというのは、応じる応じない以前に意味が分からない。
そうして混乱した私は思わず――
「貴女は悪役令嬢なんですか?」
すごく失礼なことを口走ってしまった。
でも、
「そうよ」
返ってきたのはそれを肯定する言葉。
彼女がお嬢様であることは間違いない。でも、悪役令嬢と言われて思い浮かべるような嫌味な性格だとは思えない。私をからかっているのなら酷いと思うけど……
そうやって私の混乱が加速していく。
「すみません、順を追って説明していただけますか?」
「そうね、少し急すぎたわね。まずは……そう、お礼の話から始めましょう。取り引きに応じてくれるのなら、貴女の妹を助けてあげるわ」
「……妹の、病気を知っているのですか?」
「そちらも確認済みよ。難病を患っていて、最近になって症状が悪化しているのよね?」
「それでも、妹を助けてくれる、と?」
彼女の返答を待つ私は、知らず知らずのうちに息を止めていた。私には雫を救う方法を見つけられなかったけど、桜坂財閥のお嬢様ならなにか方法を知っているかもしれない。
「海外で治験がおこなわれているのは知っているかしら?」
「……はい。でも、治療法として認可されるのは、早くても五年だって」
「少し違うわね。日本で一般的に治療を受けられるようになるまでが五年くらいよ。海外で認可されるのはおそらく三年後になるわ」
「……三年後なら、その治療を受けられるんですか?」
先生が言うには、雫の余命はあと三年ほどだ。三年後に治療法が認可されるなら、雫はギリギリ助かるかもしれないとわずかな希望を抱いた。
「残念だけど、ただの庶民が海外で認可されたばかりの治療を受けるのは不可能よ。よほどのお金とコネがなければ、ね」
「お金と、コネ……」
どちらも私にはないものだ。だけど、彼女は取り引きと言った。だったら――と、期待と不安をないまぜにしたような視線を向けると、桜坂財閥のお嬢様は小さく頷いた。
「その治療法を研究している機関には、私個人が資金援助をおこなっている。つまり、私が声を掛ければ、誰よりも早くその治療を受けることが可能よ」
ここに来て、雫を救える希望が見えてきた。
だけど――と、彼女は続ける。
「ひったくり犯から鞄を奪い返してくれたことは感謝しているわ。でも、貴重なコネを使い、莫大な治療費を肩代わりするほどの感謝ではないわ」
「それは……はい」
様々な費用を含めると、入院しているだけでも毎月十数万円の費用が掛かっている。保険が利かない海外の最新医療ともなれば、桁がいくつか変わってもおかしくない。
貴重なコネと莫大な費用、それをお礼に欲しいなんて言えるはずがない。
だけど、それでも――と、私は唇を噛んだ。
雫を救える可能性が目の前にあるのに、私はその希望を摑むことが出来ない。自分の非力さに下を向いていると「だから、恩人の貴女に機会をあげようと思ったの」と彼女は言った。
そうだ、彼女は交換条件を出していた。
それを思いだした私は顔を上げる。
「その条件というのは、貴女の代わりに悪役令嬢になること、ですか?」
「ええ。貴女が悪役令嬢になって目的を果たしてくれたのなら、新たな治療法が認可され次第、雫さんに治療を受けさせてあげる。もちろん、費用はすべてこちら持ちよ」
その治療法が、本当に雫の病を癒やしてくれる保証は何処にもない。だけど、いままでは、その保証のない可能性すら存在していなかった。
その治療法こそが、雫を救う唯一の希望のように思えた。
問題は、治験が終わるのがおよそ三年後ということだ。その治療法で本当に雫の病気が治るのだとしても、雫がそれまで生きられなければ意味がない。
そんな私の懸念を見透かしたかのように、彼女は提案を口にする。
「貴女がひったくり犯から鞄を取り返してくれたお礼に、妹さんを国内で最高の医療体制が整った、財閥御用達の病院で面倒を見てあげる。もちろん、その費用もこちら持ちよ」
「……財閥御用達の病院、ですか?」
入院費用を肩代わりしてくれるのは嬉しいけど、いま重要なのは新たな治療が受けられるようになる三年後まで雫が生きられるかどうかだ。
その病院を進められる理由が分からなくて首を傾げる。
「最新医療機器はもちろん、設備も充実した病院よ。医師の数に対して患者の数が少ないから、二十四時間態勢で患者の容態をモニタリングすることも出来るわ」
「え、それじゃあ……」
「総力を挙げて、妹さんの延命を図ると約束するわ」
すごい――と、私は目を見張った。
さっきまでは、雫を救う方法はもうないんだって絶望していた。
だけどいまは、目の前に雫を救えるかもという希望が見える。
「教えてください。悪役令嬢になれというのはどういう意味なんですか?」
「……ええっと、悪役令嬢は分かるわよね?」
「乙女ゲームなんかに出て来る、悪役であるお嬢様のことですよね?」
性格が悪く、その地位や権力を使ってヒロインを虐めたりする悪役のお嬢様だ。ユーザーの敵意を集めた後は、ユーザーの鬱憤を晴らすような形でみっともなく破滅する。
いわゆる噛ませ犬のような存在だ。
「その悪役令嬢になって欲しいの。わたくしの代わりに」
「……その、お嬢様の代わりというのはどういう意味ですか?」
「紫月でかまわないわよ」
恐れ多いとは思ったけど、いまは質問の答えを聞く方が重要だと思って、紫月さんと言い直す。そうして「お芝居かなにかに参加しろ、ということでしょうか?」と尋ねた。
「そうとも言えるけど、そうじゃないとも言えるわね。貴女が演じるのは何処かの劇場にある舞台の上じゃなくて、この世界という舞台の上だから」
「それは、どういう……」
困惑する私に彼女は静かに言い放った。
「ここは、乙女ゲームをもとにした世界なの」
理解が追いつかなかった。すぐに冗談だと思おうとした。でも、赤い瞳でまっすぐに私を見つめる彼女の姿は、とても冗談を言っている人の顔ではない。
少なくとも、彼女は本気でそう言っているように見えた。
でも、だからと言って、そんな突拍子もない話は信じられない。そう口にしようとした瞬間、紫月さんのスマフォからアラーム音が聞こえた。
「そろそろ時間ね。澪、そこから、私達が出会った横断歩道が見えるかしら?」
「え? あぁ……はい、見えますけど……」
窓から見下ろした景色には、さきほどの横断歩道の向こう側が見えている。でも、それがどうしたんだろうと首を傾げる私に向かって、彼女はこう言った。
「次に歩道側の信号が青になったら、杖を突いたご老人が横断歩道を渡り始めるわ。だけど、あの信号は歩道の青が短いでしょ? だから、通りかかった女の子が心配して、ご老人の荷物を持って、一緒に横断歩道を渡ってあげるのよ」
「……なんですか、それ」
「原作乙女ゲームのプロローグよ」
「私を……からかっているんですよね?」
信じられないと疑って掛かる私に、紫月さんは苦笑いを浮かべた。
「そうね、普通は信じられないわよね。わたくしも最初はそうだったわ。でも、この世界はわたくしの記憶通りに歴史が進んでいる。だからこれも――ほら、信号が変わるわよ」
紫月さんが窓の下に視線を移すのを見て、私も半信半疑で追随する。真下に当たる手前の歩道は見えないけれど、向かい側の歩道から歩き始める人々の姿が確認できた。
そこに、それらしき老人の姿は見当たらない。
やっぱりからかわれたんだ。そう思った瞬間、手前の死角から杖を突いた老人の姿が現れた。続いて、老人の後ろを歩く、荷物を持った少女の姿が目に入る。
「……夢でも見ているの?」
こんな予言じみたことが現実に起こるなんてあり得ない。これがすべて、彼女の仕込みなのかもしれないという考えすら脳裏をよぎる。
でも、私はただの一般人だ。
そんな私を騙すために、桜坂財閥のお嬢様がここまで手の込んだことをするだろうか?
分からない。分からないから、彼女の言葉が真実かどうかは保留。私は紫月さんの言葉が真実であることを前提に、出来る限りの情報を集めることにした。
「……あれは、どういうシーンなんですか?」
「ご老人は十五大財閥の一つである名倉財閥の当主よ。そして女の子は原作乙女ゲームのヒロインである柊木 乃々歌。庶民の男と駆け落ちをした、当主の娘の忘れ形見よ」
「……孫娘、ということですか?」
「そうよ。乃々歌ちゃんは、自分の祖父が財閥の当主だなんて知らなかった。でも、祖父の方はそうじゃない。お礼をするために彼女の名前を聞いて驚くことになるわ」
紫月さんがそう口にすると同時、横断歩道を渡りきった老人が女の子に話しかけた。そして、それに応える女の子に対し、老人は驚くような素振りを見せる。
ここから二人の表情がしっかりと見える訳じゃない。でも、紫月さんが言う通りのシーンにしか思えないやりとり。まるで、紫月さんの言葉に彼らが操られているかのようだ。
紫月さんは「そのシーンの描写はこうよ」と前置きを入れ、ナレーションのように語った。
「――それは、六つの鐘が鳴り響く聖夜に起きた奇跡だった」
直後、時計台の鐘が午後六時を知らせて鳴り響く。
あぁ……そういえば、今日はクリスマスイブだった。
歩道の二人に視線を戻した私は、それがゲームのワンシーンのようにしか思えなくなった。
「……本当に、ここは乙女ゲームをもとにした世界なんですか?」
「信じられないのなら、後でいくつか予言をしてあげるわ」
堂々とした態度の彼女は、とても嘘を吐いているようには見えない。
なにより、私がその話を信じたいと思ってしまった。
だって――
「もしかして、妹の病を治す方法が三年後に認可されるというのは……」
「原作乙女ゲームの知識よ。原作乙女ゲームの登場人物に、貴女の妹と同じ難病を抱える子がいて、その治療法によって救われるの」
魂が震えた。
だって、紫月さんの言葉が本当なら、治験中の治療法はあやふやな希望なんかじゃない。成功が約束された、雫を救う確実な希望と言うことだから。
この機会を逃すなんてあり得ない。
だけど――
「一つ、確認させてください。悪役令嬢って……破滅しますよね?」
「ええ。悪役令嬢が最後に破滅するのは運命よ」
「では、代役を立てるのは、自分が破滅したくないからですか? 破滅したくないだけなら、破滅するようなことをしなければいいと思うのですが……」
犯した罪から逃れるために、スケープゴートを用意するのは分かる。でも、まだ罪を犯してすらいないのなら、破滅を回避する方法はいくらでもある。
悪役令嬢の代役を立てるなんて、回りくどい手段を選ぶ必要はないはずなのだ。
「そうね、わたくしが破滅を回避するだけならその通りよ。実際、わたくしは乙女ゲームの舞台となる学園には入学せず、海外の高校に留学するつもりだしね」
「なのに、悪役令嬢の代役を立てるんですか?」
彼女の意図が読めなくて警戒する。
「結論を言うと、ヒロインと攻略対象が結ばれないと、未曾有の金融恐慌が日本を襲うというバッドエンドが訪れるの。そしてその場合、治療法も確立されないの」
「それらを防ぐにはハッピーエンドが必要、という訳ですか」
「そう。そしてハッピーエンドを迎えるにはヒロインが攻略対象と結ばれる必要があって、二人が結ばれるためには、悪役令嬢の破滅が不可欠なのよ」
「……なるほど」
悪役令嬢の役目を果たすと紫月さんは破滅する。でも、悪役令嬢が役目を果たさなければ金融恐慌が起きる。それは財閥の娘である彼女にとって見過ごせない事態だろう。
だから、代役の悪役令嬢が必要、ということだ。
「つまり紫月さんは私に、ヒロインと攻略対象をくっつけるために悪役令嬢になって破滅しろ……と、そう言っているんですね?」
「妹さんの命と引き換えだもの。相応の代償があるのは当然でしょ?」
紫月さんは悪びれることなく言い放つ。
私はそれを聞いて――
「安心しました」
安堵から微笑んだ。
紫月さんの眉がピクリと動く。
「……安心? どういうことかしら?」
「実のところ、あまりに私にとって都合のいい話だから、なにか騙されているんじゃないかなって警戒してたんです。でも、紫月さんの説明で納得がいきました」
それだけ重要な役目を任されるなら、妹の治療と引き換えでも不思議じゃない。そう納得したから安心したのだ。紫月さんはきっと本当のことを言っている、と。
そして彼女の言葉が事実なら、自分の身を差し出す覚悟はとっくに出来ている。
だから――
「私、悪役令嬢になります」
妹を救えるのなら迷わない。
たとえその先に待っているのが、私自身の破滅だと分かっていても。