エピソード 3
1
リムジンに乗り込んだ私は体操着を脱ぎ捨て、用意してあったドレスを身に着ける。そうして手早く身だしなみを整え、スマフォのアプリを起動した。
桜坂財閥の技術部が開発した悪役令嬢専用のアプリ。
私が悪役令嬢の役目を果たし、破滅へと至るための情報が詰め込まれている。そのアプリに追加されたのは、明日香さんのお見合いを阻止しろというミッションだ。
「ありがとうございます、紫月お姉様」
きっと、乃々歌ちゃんをヒロインらしく育て上げてハッピーエンドを迎えるだけなら、明日香さんのお見合いを阻止しないという選択もできたはずだ。
それなのに、このミッションを追加してくれた。紫月お姉様に感謝しながら、ミッションの概要を目にした私は思わずぽつりと呟いた。
「紫月お姉様、頭おかしいんじゃないの?」
騎馬戦が始まるまでに、お見合いを阻止して帰ってくる。話し合いに少しでも手間取れば、騎馬戦に間に合わないようなタイトなスケジュール。
どうやって間に合わせるのかと思ったけれど……
なるほど、納得の計画である。
私はその計画に必要な情報を頭に叩き込んでいく。そうして車に揺られること数時間、たどり着いたのはお見合い会場となっているホテルのロビー。
「まずは明日香さんのお母様に会うわ。ロビーで居場所を――いえ、必要なくなったわ」
同行しているメイドに指示を出す途中、私を見て目を見張る明日香さんを見つけた。すぐに悪役令嬢然とした表情を浮かべ、明日香さんの下へと歩み寄る。
「ご機嫌よう、明日香さん。今日は体育祭日和ですのに、ここでなにをなさっているの?」
「え、あ、その……」
私が何処まで知っているのか分からないから、どう答えるべきか迷っているのだろう。だから、私は彼女が迷う手間を省くことにした。
「沙也香さんからおおよそのことは聞きましたわ」
「……そう、ですか」
口止めしたのにという不満がその瞳に滲んだ。それがすぐに、友人に思われていることを喜ぶような表情に変化する。続けて、その瞳に強い意志が滲んだ。
「まず、事前に連絡できなかったことを謝罪いたします。ですが、このお見合いは我が東路家のためにおこなうこと。だから、止めないでください」
自分を犠牲にしても、大切ななにかを護ろうとする強い意志を秘めた瞳。その眼差しを私はよく知っている。毎朝のように鏡で見る、妹を思う私の瞳と同じだから。
まさか、悪役令嬢の取り巻きでしかない彼女が、こんなにも強い意志を持っているなんてね。つくづく、ゲームと現実は違うんだって思い知らされる。
「ここに来るまで、家のために自分を犠牲にするなんて、馬鹿な真似は止めなさいと説得するつもりだったのだけど……止めたわ」
私が溜め息交じりに髪を掻き上げれば、明日香さんは儚げに微笑んだ。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「ええ。理解したわ。だから、明日香さん。家のために――お見合いを止めなさい」
「……はい? それは、どういう……?」
明日香さんが困惑した様子で問い掛けてくる。それに答えようとしたそのとき「明日香、こんなところにいたんですね」と割って入る声があった。
明日香さんが「お母様」と呟いたことから、彼女の母親だと理解する。そんな彼女は私を一瞥した後、明日香さんへと視線を戻した。
「明日香、本当にかまわないのですね?」
「ええ。東路に生まれた娘としての役目は理解しています。それに、その……このようなことになったのは、私が失態を起こしたせいでもありますから」
明日香さんはその言葉の途中で、気まずそうに私を見た。
え……? 待って。まさか、明日香さんが政略結婚をすることになったそもそもの原因って、私に楯突いて立場を失ったから? だとしたら、私のせいでもあるんだね。
「ところで明日香、そちらのお嬢さんは?」
「あ、彼女は、その――」
明日香さんのセリフを手振りで遮って、私は一歩まえに出た。
「お初にお目に掛かります。わたくしは桜坂家の娘、桜坂 澪と申します」
「さ、桜坂家のご令嬢!? って、澪さんと言えば、たしか……っ。明日香、これはどういうことですか? 貴女はたしか、彼女と衝突して、それで……」
「それは、その……」
明日香さんが視線で助けを求めてくる。
私は小さく頷いて助け船を出すことにした。
「お母様のおっしゃる通り、彼女とわたくしは一度ぶつかりました。けれど、その後に和解いたしましたの。いまでは、明日香さんはわたくしの大切な友人に一人ですのよ?」
「そ、そうなのですか?」
お母様が娘に問い掛ける。
「えっと……はい。私から友人というとおこがましいですが、よくしてもらっています」
それを聞いた母親はハッとして視線を私へと戻した。
「名乗るのが遅くなったことをどうかお許しください。わたくしは明日香の母親で、東路 菖蒲と申します」
「事情を知らなかったのなら驚くのも無理はありませんわ」
菖蒲さんがぴくりと頬を引き攣らせた。へりくだる彼女に対し、私は自分が上だと肯定した上で、貴女の無礼を許すと口にしたからだ。
桜坂家の養女でしかない私が、仮初めの力を振りかざすのは滑稽だと思う。でもこれは、明日香さんを助けるために必要なことだから、私は高圧的な態度を崩さない。
「いまどき、政略結婚とは。娘よりも家の方が大事なのですか?」
笑顔で毒を吐いた。
これは試しだ。
もし、彼女が娘に犠牲を強いることを当たり前のように思っていれば、私は少々強引な方法を使うつもりだった。だけど、きっとそうはならないだろう。
ここに来たとき、彼女は真っ先に娘の意思を確認していたから。
そして、そんな私の予想を肯定するように、菖蒲さんはなにかに耐えるように沈黙した。
娘を大切に思っている彼女は肯定することが出来ない。さりとて、家のためにその身を投げ出そうとしている娘の思いを否定することも出来ないのだろう。
思った通り、菖蒲さんは私のママに似ている。
私が雫のために養子になると言ったとき、ママはいまの彼女と同じように悲しげな顔をしていた。明日香さんと菖蒲さんの関係は、私とママの関係に似ている。
だから、私は沈黙する彼女のまえでスマフォを取りだし、ある番号をコールした。僅か一度のコールで、すぐに相手と繋がる。その電話に向かって、私は単刀直入に切り出す。
「私は澪、桜坂家の娘よ。話は……聞いているわね?」
「あ、ああ。だが、あの提案は本当なのか?」
「ええ、もちろん。それで、提案を受けるの? それとも断るの?」
「も、もちろん受けるに決まっている」
「そう。じゃあ電話を代わるわね」
私はそう言って、スマフォを菖蒲さんへと差し出した。
「……どういうこと?」
「出れば分かります」
そう言って彼女の手にスマフォを押し付けた。菖蒲さんはためらいつつもスマフォを受け取り、それを耳元へと添える。
「もしもし……え、あなた!? はい、そうですけど……えっ!?」
電話の相手は東路家が経営する会社の社長。
つまりは彼女の夫だ。
電話の相手が夫だとは思わなかったのだろう。菖蒲さんが驚きの声を上げた。そうして驚いた様子のまま、電話越しで夫との会話を続ける。彼女の顔がますます驚きに満たされていくのを横目に、私は明日香さんの手を摑んだ。
「明日香さん、体操服は何処かしら?」
「体操服、ですか?」
なんで体操服? と言いたげな顔、
「もちろん、騎馬戦に参加してもらわなきゃいけないからに決まっているじゃない」
「いえ、ですから、私は……」
「お見合いなら中止になるわよ」
私がさも当たり前のように告げれば、明日香さんはものすごく警戒するような顔になった。
「澪さん、一体なにをなさったんですか?」
「東路家の会社に巨額の融資を持ちかけたの。娘に政略結婚をさせないことを条件に、ね」
「……はい?」
なにを言っているんですか? みたいな顔をされるけど、私も同意見だ。どれくらいの規模か及びもつかないけれど、少なくとも数十万や数百万規模でないことは分かるもの。
一体、お見合いを止めるためにどれだけ使うつもりなのか、と。
でも逆を言えば、このお見合いにそれだけの価値があった、ということだろう。だからこそ、それを阻止するために、相応の価値を示す必要があった。
そして、紫月お姉様がその価値を示してくれたのは……私のため。正確には、私が悪役令嬢としての役割を果たすため。そう考えれば、プレッシャーは半端じゃなくなる。
なんて、今更よね。どのみち、失敗すれば妹の命を救えない。
だったら、その他のことなんてオマケみたいなものだ。
「――はい、分かりました。ではそのようにいたしますわ」
私が考え事をしているあいだに、菖蒲さんが通話を終えた。そうして私にスマフォを差し出してくる。それを受け取り、その様子から話は纏まったのだと判断する。
「問題は解決したようですね」
「はい、おかげさまで。夫が、あなたと紫月さんに、くれぐれもよろしく、と」
「ええ、お姉様にも伝えますわ」
これで、東路家の問題は解決した。後はお見合い相手に話を付けるだけだ。そう思って踵を返すと菖蒲さんに呼び止められた。
「澪さん、一つ聞いてもよろしいですか?」
「ええ、手短にお願いしますね」
「では……どうして、手を差し伸べてくださったのですか? 娘が、貴女にしたことは聞いています。それなのに……」
菖蒲さんの顔には、わずかな警戒心……というか、不安が滲んでいる。娘が喧嘩を売った相手に救われる。なにか裏があるのでは……と不安になるのは当然だ。
少し考えた私は、横で様子を見守っている明日香さんに視線を向けた。
「たしかに、彼女は過ちを犯しました。ですが、彼女はその過ちを認め、わたくしに心からの謝罪をしてくださいました。わたくしは、そんな彼女を気に入った。ただそれだけですわ」
「たったそれだけの理由で、数億もの融資を即決で決めたというのですか?」
「それがなにか?」
――と、私はなんでもないふうを装う。でも……そっか。数百万円程度ではないと思ったけど、数億円だったかぁ。さすが紫月お姉様、金銭感覚が半端ないわね。
内心では呆れながらも踵を返して立ち去った。
そうしてフロントに行くと、まるで私が来るのを知っていたかのように海翔さんが現れた。お見合い相手は秋月家の傍系の子息だって聞いてたけど……やっぱり海翔さんも来てたのね。
「キミがどうしてここにいる? なにやら、東路家の母娘と話していたようだが?」
「お察しの通り、わたくしはこのお見合いを止めるために来ました。その上で、東路家の方々には快くご快諾いただきましたわ」
私が現れた理由を察していたのだろう。海翔さんはぴくりと眉を動かしたが、それ以上は目立った反応は見せなかった。代わりに、少しだけ声のトーンを落とした。
「キミは――いや、桜坂家は我らの台頭を脅威に思っているようだな」
そう告げた彼は、自らのプライドを満たそうとしているように見えた。
ここで、彼を笑い飛ばすことは簡単だ。事実として、紫月お姉様は秋月家をあまり気にしていない。もしここで秋月家と衝突しても、彼女は私を叱ったりはしないだろう。
だけど、紫月お姉様は私に言った。
原作乙女ゲームのハッピーエンドは、ヒロインが攻略対象達を纏め上げることで、財閥が力を合わせて金融恐慌を乗り越えるのだ、と。
ゲームのフラグというのなら、攻略対象や、その実家の財閥と仲良くするだけでいいのだろう。でも、この世界はゲームを元にした世界であって、ゲームではない。
秋月家とも仲良くしておいて損はないはずだ。
だから――
「海翔さんは誤解なさっているようですわね」
「誤解、だと?」
脅威に思っているのが誤解。そう受け取った彼は少しだけ表情を険しくする。庶民の娘が、財閥の子息を敵に回す。それは想像以上の恐怖だ。
でも、いまの私は桜坂家の娘だ。
恐れる必要はないと胸を張り、それからいつものように髪を掻き上げた。
「明日香さんはわたくしのお友達なんです」
端的に告げる。私がそれ以上なにも言わないことに海翔さんは怪訝な顔をして、それからハッとするような素振りを見せた。
「まさか、政略結婚を止めたのは、それが理由だというのか?」
私はにっこりと微笑むことで応じる。
正しくは悪役令嬢の取り巻きである彼女の環境を変えられたくないから、なんだけどね。わざわざそんな内情をぶちまけるつもりはない。
「わたくし、あなたに聞いてみたいと思っていましたの。会社の立て直しを盾に、わたくしの友人に政略結婚を迫るなんて、桜坂家に対する攻撃なのかしら? ――と」
海翔さんは目を見張り、それから思案顔で口を開く。
「明日香さんの了承は得られていると聞いていたが?」
「それはある意味では事実です。明日香さんは家のためになるならと、自分を犠牲にする覚悟をしていたようですから」
了承していたこと自体は本当。
だけどそれは、決して喜んで頷いた訳ではないと補足する。
「……自分を犠牲にする覚悟、か。俺が聞いていた話と違うな。どうやら、行き違いがあったようだ。先方には、俺から事情を伝えておこう」
「そうですか。では――わたくし個人への貸し一つとしておいてください」
私が笑うと、海翔さんは意外そうな顔をした。
実際、意外だったのだろう。
秋月家の次期当主が関わっているお見合いが急遽中止になった。であれば、どのみち海翔さんはお見合い相手にフォローを入れる必要があるので、私がそれに感謝する必要はない。
にもかかわらず、私は借りだと口にした。
「どういうつもりだ?」
「わたくし個人に、秋月家と敵対する意思はない。そういうことです」
「それを俺が信じると?」
向けられた疑いの眼差しには肩をすくめることで応じる。
「別に信じずともかまいません。それに、多くを期待されても困ります。ご存じの通り、わたくしは桜坂家の養女でしかありませんから」
「そうか。まぁ……機会があれば返してもらうとしよう」
「ええ、そうしてください。それでは――ご機嫌よう」
踵を返し、明日香さんを連れて会場を後にした。
2
お見合いを阻止することには成功した。そうしてリムジンで学園へと向かう。その道中、明日香さんはずっと下を向いたままだった。
それを見かねた私は、同乗しているメイドに視線で合図を送った。
「澪お嬢様、なにか飲み物はいかがですか?」
「私はミルクティーを。明日香さんはなにがいい?」
「え、あ、それじゃあ……オレンジジュースをお願いします」
彼女が答えると、メイドがかしこまりましたと素早く飲み物を準備する。そうしてテーブルの上に並べられるグラスを横目に、私は明日香さんへと視線を向けた。
彼女は落ち込んだ様子のまま、ちびちびとオレンジジュースを飲み始めた。いつもは元気いっぱいの彼女が、こんなふうに落ち込んでいるのを見るのは胸が痛い。元気になってくれるといいのだけどと見守っていると、グラスをテーブルに置いた彼女が私を見つめた。
「澪さん、遅くなりましたが、会社に融資をしてくださってありがとうございます」
彼女は融資に対して感謝を口にする。
でも、お見合いを阻止したことへの言及はしなかった。
「まだ、お見合いを止めたことに迷いがあるのね?」
「お見通しですか」
明日香さんは力なく笑う。
桜坂家が融資をすることで、明日香さんが政略結婚をする必要はなくなった。だけど、自分がなにも出来なかった――という無力感も理解できる。私だって、雫はもう大丈夫だから、貴女はなにもしなくていいよ。なんて言われても、きっと納得できないと思うから。
だから――と考えたのは、彼女に役割を与えることだ。
「明日香さん、実は貴女に提案があるの」
「提案、ですか?」
明日香さんは背筋をただした。
「桜坂家が融資をすることになったけれど、貴女の実家が経営する会社の業績が悪化した原因はなくなっていない。このままじゃダメなのは分かっているわね?」
「それは……はい」
明日香さんは神妙な顔で頷いた。
けれど、私が言ったことは真っ赤な嘘だ。いや、会社の業績が悪化しているのは事実だし、その原因が取り除かれていないのもまた事実だ。
だけど、紫月お姉様が回収のあてもなく融資をするはずがない。融資をする以上、東路家の会社が経営を立て直すように支援をすることは絶対だ。
だから私は、明日香さんの忠誠を、その支援継続の条件に結びつける。
「私は、ある目的を持って、蒼生学園に通っているの」
「ある目的、ですか?」
「その目的についてはまだ教えられないわ。でも、あなたにはその手伝いをしてもらいたいの。それを呑んでくれるのなら、経営を立て直せるように協力してあげる」
「協力、ですか?」
「そう。桜坂家のノウハウを用いて、ね」
こんなことは言わずとも、明日香さんは私に協力してくれるだろう。それなのに、あえて交換条件にしたのは、政略結婚を辞退した明日香さんが、罪悪感を抱かずに済むようにである。
そして――
「分かりました。そういうことであれば、全力で澪さんに協力いたします」
「ええ、期待しているわ」
私の思惑通り、明日香さんの瞳に浮かんでいた罪悪感が消えた。いまこの瞬間、彼女は実家のために、悪役令嬢の取り巻きとなった。
こうして、明日香さんのアフターケアも終えて、後は学園に戻って騎馬戦に出場するだけとなったのだが、ここで予想外の事態が発生する。
学園へ向かう道の途中で事故が発生して、渋滞に巻き込まれてしまったのだ。
「申し訳ありません、澪お嬢様。このままでは間に合わないかもしれません」
インターフォン越しに運転手から連絡が入る。
「そう。……分かったわ。また変化があれば報告なさい」
私はインターフォンをオフにして、携帯で沙也香さんの番号をコールする。
「澪さんですか、明日香さんはどうなりましたか?」
沙也香さんは着信に応じるなりそう言った。
よほど明日香さんのことを心配していたのだろう。
「明日香さんのお見合いは阻止したわ。実家の問題も解決したからもう大丈夫よ」
「そう、ですか……澪さん、ありがとうございます」
「どういたしまして。ただ、帰り道が渋滞してて、わたくしと明日香さんは騎馬戦に間に合わないかもしれないの。いま、そちらの状況はどうかしら?」
「いま、私達の紅組が若干押されています。ただ、残りの競技に出場する選手の事前記録を考えると、おそらく騎馬戦の結果次第になると思います」
びっくりした。
シャノンならともかく、沙也香さんからそんな詳細な報告をもらえると思っていなかったから。そして、そんな私の驚きが伝わったのだろう。沙也香さんが電話越しに微笑んだ。
「乃々歌さんの件で、澪さんが勝敗を気にすると思い、事前に調べておいたんです」
「乃々歌の件はどうでもいいわ。でも桜坂家の娘として、騎馬戦に穴を開ける訳にはいかないわね。なんとしても間に合わせるつもりだけど……」
保険を掛けておく必要はあるだろうと、素早く考えを纏める。
「沙也香さん、まずお見合いの件は秘密よ。もしも誰かに私達の居場所を聞かれたら、わたくしが所用で明日香さんを連れ回していると答えなさい」
「どうして澪さんのせいにするんですか!」
私の意見に異を唱えたのは電話越しの沙也香さんではなく、隣にいる明日香さんだった。私は小さく首を振り、明日香さんと沙也香さん、両方に聞こえるように答えを口にする。
「お見合いを事前に阻止したのは、相手のメンツを保つためよ。だから、今日、明日香さんがお見合いに向かったことは、私達だけの秘密にする必要があるの」
もし、お見合いをした上で、明日香さんがお断りをしていたら角が立っていた。もっと言えば、秋月家のプライドを傷付ける結果になっていただろう。
でも、お見合いは阻止した。言い換えれば、お見合いは立ち消えになった。そもそも、お見合いのセッティングなんておこなわれていない。――という筋書きだ。
これなら、秋月家のプライドが損なわれることもない。
でも、そうするためには、今日の私達の行動を秘密にする必要がある。
「だから、私の所用とするのよ、いいわね?」
「……分かりました」
電話越しに沙也香さんがしぶしぶと頷き、明日香さんはきゅっと拳を握り締めて沈黙する。
「いい子ね。それじゃ、急いで帰るから大人しく待ってなさい。あぁそれと、なんとかして騎馬戦までに戻るつもりだけど、もしものときの代役は探しておいて」
「分かりました、そっちはお任せください」
沙也香さんの返事を待って通話を切る。明日香さんがなにか言いたげな顔をしているけれど、私は無視して次なる相手である紫月お姉様に電話を掛ける。
「――紫月お姉様」
「状況は聞いているわ。騎馬戦に間に合わないかもしれないそうね?」
「……はい。申し訳ありません」
「渋滞は不測の事態だけど、間に合わない可能性は想定済みよ。間に合わせるに越したことはないけれど、無理なら気にする必要はないわ」
少し予想外。
なにがなんでも出場しろと言われると思っていた。出掛けた直後には、絶対やりとげろと言われたのに……あれは、お見合いを阻止することについて、だったのかな?
……そうかもしれない。少なくとも紫月お姉様は最初から、体育祭における悪役令嬢の役割はモブだと評していた。私が出場しなくても、クラスが優勝すれば問題はないのだろう。
だけど――
「紫月お姉様にお願いがあります」
「……まぁそうよね。貴女は乃々歌のため……というか、美優ちゃんのために、騎馬戦に出場して勝ちたいのでしょう?」
「はい」
「そうね。ヘリは……近くにヘリポートがないから却下ね。そうなると……バイクを向かわせるわ。学園に乗り入れる訳にはいかないけど、近くまで運んであげる」
「ありがとうございます!」
「すぐに手配するから準備して待ってなさい」
そう言われた私は通話を切って、明日香さんにバイクの迎えが来ることを話した。最初は驚いていた彼女も、騎馬戦に間に合わせるためだと言ったら納得してくれた。
そうして車内で待っていると、二台のバイクがリムジンの横に停まった。
一台目のタンデムシートに私が、そして二台目のタンデムシートには明日香さんが座る。運転手に掴まれば、バイクは渋滞とは無縁の道を走り出した。
そのままバイクで渋滞を抜け、学園の近くで別のリムジンへと乗り換える。その車内でジャージに着替えた私達は、無事に学園へと舞い戻った。
「明日香さん、急ぎますわよ!」
明日香さんの手を引いて、学園の敷地内を全速力で駆ける。だけど、校庭にたどり着いた私達の耳に届いたのは生徒達の歓声。ちょうど騎馬戦の決着がついたところだった。
――間に合わなかったと、悔しさに唇を噛む。
だけど重要なのは結果だ。
私が不参加なのは失態だけど、ちゃんと代役は用意してもらっている。ハイスペックな六花さんと、猛練習をした沙也香さん。この二人なら、代役とだって活躍してくれているはずだ。
だから――と、私は近くにいた女生徒の腕を摑んだ。
「騎馬戦の勝敗は!? どのチームが優勝したの!?」
「え? あ、えっと……騎馬戦は紅組が勝ったみたいですよ」
「……そう、ありがとう」
私達のチームの勝利だ。そう思って安堵の溜め息を吐いた。それとほぼ同時、彼女は信じられない言葉を付け足した。
「優勝したのは青組ですけど」
「……は? どういうことよ? 騎馬戦は紅組が勝ったのでしょう?」
「はい。ただ、騎馬戦の二位は青組だったんです。だから、それまでの競技で開いた差が埋まらず、青組の逃げ切り優勝となったみたいです」
その一言でおおよその事情を理解した。
些細な違いが、想定外の変化を及ぼすこともある。たぶん、私や明日香さんの代役を立てるために選手を入れ替えたことで、二位と三位の順位が代わってしまったのだろう。
明らかな失態。
明日香さんを救いたいという私のわがままが、チームを優勝に導き、手術を控える女の子に勇気を与えるという、ヒロインのメインミッションを失敗させてしまった。
その事実を受け止めきれず、私は思わず後ずさった。
「あの、大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫よ。教えてくれてありがとう」
他人の目があるという事実を思い出して虚勢を張った。私は女生徒に礼を言ってその場を離れる。明日香さんとともに観覧席へ戻ると、そこはお通夜のように静まり返っていた。
さすがにこの状況で「ただいま!」なんて言えるはずがない。そうして空気を読んで様子をうかがっていると、すすり泣く声が聞こえてきた。
「ごめん、乃々歌、私のせいだ! 私があのとき、ちゃんと青組のはちまきを奪っていたら、青組を三位に出来てた。そうしたら総合で青組を捲ることが出来たのに!」
乃々歌ちゃんに縋って悔し涙を流すのは、乃々歌ちゃんの友人の一人だ。
その言葉から、あと一歩で優勝を逃したことは理解できる。そして事実として、彼女があと一つはちまきを奪っていたら、紅組は優勝することが出来たのだろう。
だけど――
(貴女のせいじゃないよ。悪いのは、原作ストーリーを歪めた私だから)
私がもっと上手くやっていれば、この結末にはならなかった。紅組が優勝するのが本来の歴史。よけいなことをしてその展開を変えたのはほかならぬ私だ。
そう心の中で呟くけれど、その言葉を口にすることは出来ない。
私のせいで傷付いている女の子に謝ることも、慰めることも出来ない。そうしてやるせなさに唇を噛む。私の思いを口にしてくれたのは乃々歌ちゃんだった。
「水樹ちゃんのせいじゃないよ」
その言葉に救われたのは私だった。
(……弱い私)
私が原因なのに、彼女はいまも自分を責めている。その事実を受け止めきれず、だからこそ自分の代わりに彼女を慰めている乃々歌ちゃんを見て安堵した。
私は罪悪感から逃げようとしたのだ。
そうして唇を噛む。そんな私にクラスメイトの一人が気付いた。
クラスメイト、乃々歌ちゃんの友人の一人である夏美さんが私に詰め寄ってくる。そして、夏美の行く先を見た人達も私の存在に気がつき始めた。
注目が集まる中、夏美さんが声を荒らげる。
「澪さん、どうして騎馬戦に出なかったのよ!」
とっさにいくつもの言い訳が脳裏をよぎった。
だけど、逃げちゃダメだ。
私は失態を犯した。ヒロインの重要なミッションを台無しにした。この上、悪役令嬢としての立場までむちゃくちゃにすることだけは避けなくちゃいけない。
そう覚悟を決めて、さも当然のように言い放つ。
「……代役は立てたはずよ」
「それで済むと思ってるの!? 貴女が急に欠席したから、代役を立てるのにみんな大変だったんだから! もし、貴女がちゃんと出場していたら――」
勝てたかもしれないのに――と。
そう口にしてもいいんだよ。……違う、口にしてくれた方がいいんだ。そうして罵られた方が私の心は軽くなる。なのに、彼女はその言葉を呑み込んでしまった。
だけど、クラスメイト達には正しく伝わった。
そこかしこから、私にトゲのある視線が向けられる。
沙也香さんが「澪さんは――」と弁明しようとするけれど、私はそれを「止めなさい」と遮った。絶対に、明日香さんのお見合いの件は伏せなくちゃいけない。
私は悪役令嬢だから。
それに、今回の目標はチームの優勝じゃない。
チームが優勝することで、美優ちゃんが手術を受けるように仕向けることが目的だ、ならば、クラスが優勝しなくても、美優ちゃんが手術を受ければ問題はない。
そう考えれば、これはピンチじゃなくてチャンスだ。
そう思った私は、いつものように髪を掻き上げた。
「私が体育祭を欠席した程度、なんだと言うのですか?」
「なにって……知ってるでしょ! 体育祭で紅組が優勝したら、乃々歌の大切なお友達が、手術を受ける約束をしていたって!」
「ええ、知っていますわ。ですが、わたくしには関係ありませんよね?」
さも当然のように言い放つが、ズキリと胸が痛んだ。
もしも私が聴衆なら、貴女には人の心がないのかと罵っただろう。でも、だからこそ、そうして真の悪役令嬢の地位を取り戻すチャンスを逃してはならない。
歯を食いしばって胸を張る。
そんな私を前に、夏美さんは信じられないと目を見張った。
「なによ、それ。なんなのよ! どうしてそんなに冷たいことが言えるのよ!」
「――待って、夏美ちゃん。きっと澪さんにも事情があるんだよ!」
……乃々歌ちゃん、この状況でも私を庇ってくれるんだね。さすがヒロイン、と言うべきなのかな。貴女とお友達になれたら、きっと幸せな日々が待っているんだろうね。
でもごめん、私は貴女より妹の方が大切なの。
「乃々歌はどうしてそこまでして澪さんを庇うのよ!」
私が沈黙しているあいだに、乃々歌ちゃんと夏美さんの関係にまでヒビが入りそうだ。そう感じ取った私は、すぐに悪役令嬢らしく振る舞う。
「この期に及んでわたくしを庇おうとするなんて、乃々歌は本当におめでたいわね。事情なんてない。わたくしが今回の一件で協力しなかったのは、しょせん他人事だったからよ」
それは事実だ。私にとって、貴女は大切な友人なんかじゃない。いいかげんに気付きなさいと突き放せば、乃々歌ちゃんの顔が驚きに染まった。
「嘘、ですよね?」
「わたくしがこのような嘘を吐くとでも?」
私が優しい女の子なら、こんな風に乃々歌ちゃんを突き放すはずがない。私は妹のために、心優しいクラスメイトを傷付ける酷い奴だ。だから、もう私を庇う必要なんてないんだよ。私を怨んで、罵って、そして自分の抱いた悲しみを乗り越えなさい。
私はスカートをぎゅっと握り締めて、それから乃々歌ちゃんを見下ろした。
「その子のことがそんなにも大切だったのなら、他人任せになんかせず、自分の力でなんとかするべきだったわね」
「それ、は……」
乃々歌ちゃんが唇を噛んで俯いた。
次の瞬間、私と乃々歌ちゃんのあいだに夏美さんが割って入る。
「――酷い! 乃々歌がどんな気持ちでがんばっているか知らないくせに! 本当は優しいのかもなんて一度は思ってたけど、やっぱり貴女は最低よ!」
一般生が、財閥特待生の私を公然と非難した。そのことに周囲がざわつくけれど、誰一人として止めようとはしない。みんな、私に対して蔑むような視線を向けている。
私を蔑む空気は、財閥特待生にも及んでいる。
いまの私はまさしく悪役令嬢だ。
不測の事態を乗り越え、私はようやく本来のポジションに就くことが出来た。それは、雫を救うための大きな一歩と言えるだろう。
なのに、それなのに……どうして、こんなに胸が苦しいのかな?
3
体育祭を終え、屋敷に帰った私はすぐに次の手を打つことにした。
チームが敗北したのは計算外の出来事だったけれど、決して悪いことばかりではない。乃々歌ちゃんやクラスメイトから、ようやく悪役令嬢として認識してもらえたからだ。
私にとって、乃々歌ちゃんやクラスメイトに悪女と認識してもらうことと比べれば、美優ちゃんに手術を受ける勇気を与えるほうが難易度は低い。
という訳で、私は美優ちゃんの情報を取り寄せた。
そして――
「うわぁあぁあぁぁあっぁあっ」
紫月お姉様とテレビ電話で会議中。
スマフォに届いた美優ちゃんの資料を目にした私は頭を抱えていた。美優ちゃんの姿が、どう見ても先日病院で会った美羽ちゃんだったからだ。
「……澪、今度はなにをやらかしたの?」
モニターの向こうから、紫月お姉様が問い掛けてくる。
「私がやらかしたことを前提で聞くのは止めてください」
「でも、なにかやらかしたんでしょう?」
「……ええ、まぁ、なんというか……先日、病院へ雫の荷物を取りに行ったんですが」
「分かった、そこで美優ちゃんと会ったんでしょう? やっぱりやらかしてるじゃない。どうせ、そのまま仲良くなったりしたんでしょ?」
「いえ、まあ、そうなんですが……」
ずばり言い当てられて反論の余地がない。私が苦虫を噛みつぶしたような顔をしていると、モニターに映った紫月お姉様がクスクスと笑い始めた。
「ほんと、一級フラグ建築士よね」
「紫月お姉様、待ってください。私だってちゃんと考えて、名前を確認したんですよ? そしたら、美優じゃなくて、美羽だって言うから、安心したのに……」
発音が似ているけど、絶対に聞き間違いじゃない。ちゃんと確認だってした。理由は分からないけれど、彼女が意図的に偽名を名乗ったのだ。
「ふぅん? まあ、警戒心が強い子なら、そういうこともあるかもしれないわね。といっても、彼女は警戒心の強いタイプじゃなかったと思うんだけど……」
紫月お姉様はそう言うけれど、美優ちゃんが偽名を名乗ったのは事実だ。偽名を名乗った理由は分からないけれど、私がやらかした訳ではないと主張したい。
「最近の乃々歌ちゃんはがんばっているみたいだから、彼女が入れ知恵したのかも――」
そこまで口にして、そういえばチャラ男くんに絡まれていた乃々歌ちゃんを見かねて、そんな入れ知恵をしたなと思いだした。
いや、でも、まさか、それが巡り巡って、美優ちゃんが私に偽名を名乗る原因になるなんてことは……ないない、さすがに、そんな偶然はないはずだ。
「澪?」
「いえ、なんでもありません。よくよく考えれば、私が美優ちゃんと知り合っているのは悪いことじゃありません。私が直接会って、彼女が手術を受けるように説得します」
「……そうね、それがいいと思うわ。それに――」
紫月お姉様は一呼吸開けて、美優ちゃんがたったいま手術を拒んだ――と教えてくれた。どうやら、美優ちゃんは蒼生学園の体育祭を見に来ていたらしい。
それで、乃々歌ちゃんの説得を拒んだようだ。
「じゃあ、やはり私が説得します」
「それはいいのだけど……説得するあてはあるの?」
「それはいまから考えます」
あっけらかんと言い放つ私。モニターの向こうにいる紫月お姉様は一瞬だけ呆れた顔をして、これ見よがしに肩をすくめた。
「まあ、貴女ならなんとか出来るでしょう。だけど……澪、貴女、無理をしていない?」
「え? 無理なんて別にしていませんが……」
「その無自覚に無理をするところ、貴女の悪いクセよ」
小首をかしげると、モニター越しに指を突き付けられた。
「澪、悪役令嬢の立場を確立することを優先した判断は間違ってない。でも、目的のために正しいことをしたからといって、貴女の心が傷付かない訳ではないのよ?」
「そんなことは……」
「分かっているのなら、そうやって平然を装うのは止めなさい」
「でも、私は……」
乃々歌ちゃんに、クラスのみんなに蔑むような視線を向けられた。それが辛くないと言ったら嘘になる。でもそれは、他でもない私が、雫を助けるために望んだ結果だ。
どんなに悲しくたって、受け入れなくちゃいけない現実だ。
「……澪、私を責めていいのよ?」
「なにを、言っているんですか?」
「貴女に辛い選択をさせているのは私よ。だから、貴女には私を責める権利がある。そんなふうに自分を責める必要なんてないの」
「……止めて、止めてください!」
私は思わず声を荒らげた。
「そう、それでいいの。そうやって、嫌な気持ちは全部私にぶつけなさい」
「違います! 私はこれっぽっちも、紫月お姉様のせいだなんて思っていません。だからそうやって、私の罪悪感を肩代わりしようとするのは止めてください!」
私がもう一度叫べば、紫月お姉様は目をまん丸に見開いた。
「澪、なにを言っているの? 貴女が苦しんでいるのは、私が……」
「紫月お姉様が道を示してくれたから、私は希望を抱けたんです! だから、いまこうして苦しんでいるのは私が選択した結果で、紫月お姉様を怨むなんて絶対にありえません!」
一気に捲し立てて、それから一息吐いて紫月お姉様に向かって微笑みかける。
「先日、雫が私に言ったんです。自分はもうすぐ死んじゃうから、もうお姉ちゃんは無理をしなくていいよ……って」
「それは……」
言葉を失ったかのように、紫月お姉様が沈黙する。
「だけど、そんなあの子に、希望はあるって。病気を治せる可能性があるって言ってあげられた。妹はそれを信じて、生きたいと願ってくれた」
もしもあのとき、その希望がなければ、雫はきっと壊れていただろう。
もうすぐ死んじゃう私のために、無理をしなくていいよ。そんな言葉を口にして、泣きそうな顔で笑う。大切な妹のために私が出来たのはきっと、一緒に泣くことだけだ。
そうしたら、私も壊れていただろう。
でも、そうはならなかった。
「全部、紫月お姉様が、私に未来を示してくれたからです!」
「だけど……澪。私は貴女に……」
「紫月お姉様、本音を言えば辛いです。乃々歌ちゃんに酷いことを言うのも、クラスメイトに蔑まれた視線を向けられるのも、平気だって言えば嘘になります。でも、だけど……っ」
私はスカートをきゅっと握り締めて、カメラのレンズをまっすぐに見つめた。
「これは私が望んだお仕事です。だから、私に手を差し伸べてくれた、希望を与えてくれた紫月お姉様に当たり散らすなんて絶対にあり得ません!」
辛いとき、誰かに当たり散らせば楽になるのかもしれない。だけど、それでも、恩人の紫月お姉様に当たることだけはあり得ない。
「……そう、ね。貴女はそういう子だった。ごめんなさい、余計なことを言ったわね」
「いえ。私こそ、生意気を言ってすみません」
「いいのよ。貴女の言っていることは間違ってない。だから私もやり方を変えるわ。貴女が努力したご褒美をあげる」
「……ご褒美、ですか?」
私が小首を傾げると、紫月お姉様は楽しみにしておきなさいと悪戯っぽく笑った。
ちなみに、紫月お姉様から届いたご褒美は、私と雫、おそろいのお洋服だった。それをもらった私は、すぐに雫のお見舞いに行った。
という訳で、ノックをして病室に入ると、雫がファッション誌を眺めていた。
「最近、よくファッション誌を眺めてるわね。もしかして、ファッションに興味を抱く年頃になったのかしら?」
「いらっしゃい、お姉ちゃん。ファッションというか……モデルがお姉ちゃんだから?」
「あ、あぁ~」
桜坂家のお嬢様が実際に身に付けているコーディネートということで、販売促進に繋がっているらしい。そんな事情で、モデルのお仕事はわりと増えている。ただ、それを受けていたのは、乃々歌ちゃんがファッションに興味を持つようにするため、だった。
いままでは、乃々歌ちゃんが私を慕っていたから。でも、今度こそ、乃々歌ちゃんは私を嫌うことだろう。そうなると、モデルのお仕事を続ける意味はなくなる。
……まあ、そのことは後で考えよう。
いまはそれよりも――と、紙袋を雫の前に差し出した。瞬間、雫の顔が驚きに染まった。
「え、それ、SIDUKIブランドの紙袋だよね?」
「……よく知ってるわね」
「それは知ってるよ! お嬢様系の洋服を中心に、ハイブランドから、アクセシブルブランドまで幅広く扱う、女の子の憧れだもん!」
いや、だもんと言われても。私、最近まで知らなかったんだけど……なんて言ったら呆れられそうなので黙っておくけど。
「気付いていると思うけど、そのブランドは名前の通り、紫月さんが経営しているブランドなの。それで、私と雫、おそろいでお洋服をもらっちゃった」
「もらっちゃったって……そんな簡単に。うわぁ、これ、一式揃ってるじゃない!」
袋を覗き込んだ雫がちょっと興奮している。
なにをそんなに……って、よくよく考えれば当たり前か。ハイブランドは一着数十万円くらいするし、アクセシブルブランドだって一着数万円はする。それらを取り扱うブランドから、二人分の洋服をプレゼント。それに掛かる金額を考えれば……まあ普通は驚くよね。
「雫、気に入ってくれた?」
「もちろん! ……だけど、こんな高価な服、本当にもらっちゃっていいの? 私の誕生日はもう少し先だよ? お姉ちゃん、自分の誕生日とごっちゃになってない?」
「そんな訳ないでしょ」
「でもこれ、ものすごく高価だよね? お姉ちゃん、やっぱり怪しいバイトとかしてない?」
「してないしてない。っていうか、プレゼントだって言ったでしょ?」
「プレゼント……っ。まさか澪お姉ちゃん、その人の愛人に!?」
「――っ」
咽せた。
でも、悪役令嬢の代役で、義理の妹という関係であることを考えると、雫の予想は全くの的外れとも言えない、かもしれない。
いや、ぜんぜん違うんだけどね。
「紫月さんに親しくしてもらってるだけよ」
「……ふぅん、本当に?」
「ええ、もちろん本当」
「じゃあ、紫月さんの義妹になった訳でもないんだね?」
「――っ!?」
壮絶に咽せた。
「な、なななっ、なんのこと?」
「ふぅん、あくまでシラを切るんだ?」
「シラを切るもなにも、私にはなんのことだか……」
「じゃあ、これはどう説明するの?」
雫がファッション誌を突き付けてきた。開かれたページは私の特集で、プロフィールには私のフルネームが……桜坂 澪って書いてあるううううううっ!?
「ち、違うの、これはええっと……ほら、芸名よ、芸名」
「そう言うと思って……次はこっち」
今度はノートパソコンを突き付けてくる。
なにやら、掲示板のページのようだ。
「ええっと、なになに? 澪たそ可愛い? なにこれ」
「それじゃなくて、その上の書き込みだよ!」
言われて、すぐ下にある書き込みを見る。
そこには、この桜坂 澪って何者? 桜坂グループの関係者? みたいな書き込みがあって、そのレスに桜坂家の養女になった娘らしい、といった感じで私の素性が書かれていた。というか、私が実際に桜坂家の血を引いていることまで書かれているんだけど。
え、やだ、ネット怖い。
「……いつから気付いていたの?」
「怪しいと思ったのは最初からだよ。でも特に怪しんだのは、このノートパソコンが安かったって、お姉ちゃんが言ったとき、かな?」
「え、このパソコン? でも、レシートを見せたよね」
「見たけど、あのレシート、偽装だよね?」
「え、してない、してないよ!?」
あのパソコンは桜坂グループのお店で見繕ってもらったものだ。ちゃんと予算を伝えた上で購入したから、そんなに高いパソコンは買っていない。
そう伝えたら、雫はジト目になって、再びノートパソコンを操作した。すると、何処かのショップサイトで売られているパソコンのページを見せられた。
「これが、澪お姉ちゃんがおそろいで買ってくれたパソコンの正規の値段だよ」
「……四万円? なら、私が買ったときの値段と大差ないよね?」
少しは割り引いてくれたみたいだけど――と呟けば、雫が半眼になった。
「お姉ちゃん、桁数、間違ってる」
「……え? 一、十、百、千、万、よんじゅ……っ」
桁を数え直した私は思わず息を呑んだ。
もしかして、社員割引というか、財閥令嬢への特別価格的な感じだったのかな? それに気付いたのなら、たしかに雫が疑うのも無理はないね。
「えっと……その、ごめんね。実は、その……」
「澪お姉ちゃん、言いたくなければ言わなくていいよ」
「え、そうなの?」
絶対問い詰められると思っていた私は、その予想外の答えに戸惑った。
「お姉ちゃんが私に内緒で色々してるのは寂しいけど、それが私のためだっていうのは分かるから、言いたくないのなら言わなくていいよ」
「雫……」
本当に、雫は出来た妹だ。
「でもね、その代わり一つだけ教えて欲しいの」
「うん?」
「お姉ちゃん、本当に危ないことはしてない?」
「してないよ」
私が本心でそう答えると、雫は真偽をたしかめるように目を覗き込んでくる。その視線を無言で受け止めていると、雫は少しだけ表情を和らげた。
「……分かった、信じるよ。ところで……もしかして、私にも桜坂家の血が流れているの?」
「え? あぁ……そうだね。雫も養女になりたかった?」
「ん~、興味はあるけど、なりたくはないかな。お父さんとお母さんが悲しむもの」
「そう、だね……」
私が養女になると言ったときの二人の様子を思い出して唇を噛む。
「あ、あ、違うよ。お姉ちゃんを責めてる訳じゃないからね?」
「大丈夫、分かってるよ」
私は笑って「それよりその服を着てみたら?」と話題を変える。雫もそれに乗って、「じゃあ着替えてみるね」と笑顔で応じてくれる。
そうして雫が着替えたのは、いまの私とおそろいのデザイン。肩紐で吊るした、オフショルダーのサマーセーターに、ティアードスカートのミニ。それにガーターで吊ったニーハイソックスという、私が普段から好んで身に付けているお嬢様風のファッションだ。
「うわぁ……この服、着心地がいいね」
「たしかに、最初は驚くわよね」
雫が背中越しに自分を見下ろしてクルリと回るのを微笑ましく思いながら答える。正直、私も最初はむちゃくちゃ驚いた。
けど、着心地は生地だけじゃなくて、個人の体型に合わせてあるのが大きいみたい。……って、どうして紫月お姉様が、雫の体型を知ってるんだろう?
なんて、今更かな。
「ねぇ、雫。今度お天気がいい日に、おそろいの服でお出掛けしてみる?」
「え、いいの?」
「うん、先生に許可を取っておくわね」
私が養女になったとバレたのは計算外だったけど、いまにして思えば悪いことじゃない。堂々と、お嬢様になった財力にものを言わせて、雫を可愛がることが出来る。
たとえば身体が弱い雫でも、リムジンでなら長距離の移動が可能なはずだ。
「じゃあ今度、おそろのコーデでデートしようね」
「うんっ、楽しみにしておく!」
雫が笑顔になるのを見て、美優ちゃんもこんなふうに生きる希望を抱いてくれれば、手術を受ける勇気を持ってくれるのかな? と、彼女のことを思い出す。
「ねぇ、雫。実は相談があるんだけど」
「……澪お姉ちゃんが、私に?」
「ダメ?」
私が問い掛けると、雫はふるふると首を横に振った。それからにかっと笑って、「それじゃ、この雫さんがなんでも答えてあげるよ」と笑った。
なんか、雫のキャラがブレている。
私に頼られて嬉しいのかな? それとも、新しいお洋服が嬉しいのかな? あんまり浮かれて体調を崩すようなら止めなきゃだけど、いまのところ顔色はよさそうだ。
そう判断して相談事を口にする。
「実はね、友達の妹……みたいな子が、手術を拒んでるんだって」
「その手術、難しいの?」
「うぅん。手術は必要だけど、難しくはないみたい」
そう前置きを入れ、資料で確認した内容を伝える。その上で、乃々歌ちゃん――クラスメイトが色々と説得したんだけど上手くいっていない、という補足を交えて。
「手術が怖いってことだよね?」
「うん。失敗の可能性はないに等しいんだけど絶対じゃないし、小さな女の子だから手術を恐がるのは無理はないと思う。でも、手術を受けないと危険なの。だから、どうやったら、手術を受けてもらえるかなって思って……」
「うぅん……」
私の問いに、雫は沈黙してしまった。
もしかして、自分の病気には治療法がないのに、って思っちゃったのかな? 雫も三年待てば治療を受けられるから、大丈夫だと思ったんだけど……無神経だったかも。
「あのね、雫――」
「――ねえ、澪お姉ちゃん」
私と雫の声が被る。
私が先にどうぞと譲ると、雫はそれならと口を開く。
「その子、どうして手術を受けるのが怖いんだと思う?」
「え? それは、失敗するかもしれないから、でしょ?」
「そうだね。でも、手術を嫌がる理由が、お姉ちゃんの思っている理由とは違うかもだよ」
「……ええっと、どういうこと?」
私は頭の上に疑問符をたくさん飛ばした。
「たとえば、私が手術を受けろって言われたら、きっと同じように怯えると思うんだよね」
「それは、自分で選択するのが怖いって話じゃないの?」
人間というのは、自ら引き金を引くことをためらう生き物だ。
たとえばトロッコ問題。
あなたがなにもしなければ五人が死ぬ。だけど、あなたがレールを切り替えればその人達が助かり、代わりに別の三人を殺すことになる。
そういう選択を迫られると、なにもしない人が多いと言われている。五人を見殺しにするより、自分の行動で三人を殺すことの方が嫌だから。
でもって、自分の命が懸かっている場合にも似たような感情の働きかけがある。
なにもしなければ数日中に20%で死に、ボタンを押せばそれで死ぬ可能性はなくなる。ただし、押した瞬間に10%の確率で死ぬ。
そんなボタンを押すかどうか、とか。
これが、50%と5%とかなら、迷わず押すかもしれない。でも、確率にあまり違いがないのなら、運を天に任せる人が増えてくる。それらを口にして、手術を恐れるのはそういうことでしょう? と、問い掛けると、雫がジト目になった。
「澪お姉ちゃんって、ズレたことを言うよね?」
「雫に呆れられた!?」
うぅ、ここ最近で一番のショックだよ。
「あのね、澪お姉ちゃん。私が言っているのは、どうして恐れるかじゃなくて、なにを恐れるか、という話だよ」
「え、それは……手術の失敗による、死……だよね?」
「そうじゃなくて。あのね、私……死ぬのは怖いよ。だから、五分五分だったとしても、病気が治る手術があるって言われたら、迷わず受けたいって思う」
「……うん」
雫なら、きっとそう言ってくれると思ってた。
そう考える私に向かって、雫は「だけど――」と儚げに微笑む。
「もし、澪お姉ちゃんに手術を勧められたとしたら……私は拒絶するかも」
「ど、どうして?」
まさか、私の信用ってそこまでないの!? と、思わず動揺してしまった。でも、雫の続けた言葉に、私は別の意味でショックを受ける。
「だって、もしその手術で私が死んだら……澪お姉ちゃんが後悔するでしょ?」
「――っ」
私の脳裏に浮かんだのは、雫の亡骸にしがみついて泣いている自分の姿だった。
もし、私が勧めた手術で雫が帰らぬ人になったのなら、私は間違いなく後悔する。そうして、あのとき手術を勧めなければ、雫はいまも生きていたはずなのにって泣きじゃくる。
たとえその一ヶ月後に雫が死ぬのだとしても。
「たしかに、そう考えるとすごく怖いね」
「うん、私も怖いよ。私の死をずっと引きずるお姉ちゃんを想像したらすごく怖い」
「それ、は……」
その気持ちがありありと分かってしまった。
私も逆の立場なら、雫にそんな想いを背負わせたくはないと思う。
というか、これ、雫がいま実際に抱いている恐怖だ。
だって私は、雫に三年待てば、最新医療を受けさせてあげられるって伝えた。だから、あと三年がんばってって、そう伝えたんだ。
でも、もし雫が三年持たずに死んでしまったら、私は間違いなく後悔する。どうして、もう少し早く、治療を受けさせてあげられなかったんだろうって……必ず悔やむ。
雫は、そうして私を絶望させることを恐れている。
「雫……私は」
なにか言わなくちゃと焦って口を開いた私に、雫は透明感のある笑みを浮かべた。まるで、全ての感情を押し殺したような、私を気遣うような、そんな笑顔。
「分かってる。澪お姉ちゃんが私のために全力なのは誰よりも知ってる。だから、私も絶対に諦めない。お姉ちゃんを後悔させたりしたくないから」
「私も、雫を後悔させたりしない。必ず間に合わせるよ」
「……うん。お姉ちゃん、大好き」
雫の透明な微笑みに、少しだけ感情が滲んだ。
私は雫を抱きしめ、必ず雫を救うとあらためて誓う。悪役令嬢として破滅して、絶対に妹の病気が治る未来を掴み取ってみせる、と。
でも、同時にこうも思ってしまった。私が破滅することで自分の命が助かったと知ったとき、雫はどれだけ自分を責めるんだろう……って。
……雫は、その悲しみを乗り越えて、くれるかな?
うぅん、そうじゃない。雫に、そんな悲しみを背負わせる訳にはいかない。私が雫を救うために破滅したと、悟らせないための準備が必要だ。
そうしてぎゅっと抱きしめる腕に力を入れると、雫が吐息を零した。
「澪お姉ちゃん、苦しいよ」
「あ、ごめん」
慌てて雫を解放して、いまは美優ちゃんの件だと気持ちを切り替える。
「ねぇ、雫。あなたはともかく、その子はまだ小学生なんだよ? なのに、そこまで考えるかな? それに、最初に手術を勧めたのは、病院の先生のはずだし……」
「そうだね。私の予想は間違ってるかもしれない。でも、その二人は姉妹のように仲がいいんだよね? だとしたら、私と同じように思ってもおかしくはないんじゃないかな?」
「……そっか、そうかもね」
たとえば、先生に勧められたときはただ怖かっただけで、乃々歌ちゃんに勧められたときに初めて、雫が言うような恐怖を抱いた――って可能性も零じゃない。
というか、そんな気がしてきたよ。なんて言ったって、ヒロインとその妹みたいな女の子のエピソードだからね。後で美優ちゃんに会って、直接たしかめてみよう。
「ありがとう、雫。とても参考になったよ」
「えへへ、どういたしまして」
満面の笑みで微笑む、雫はやっぱり天使だと思う。
4
雫のお見舞いを終えた私は、その足で美優ちゃんのいる病院へと向かった。ロビーで美優ちゃんの病室を尋ねると、いまの時間なら中庭にいると教えてもらえた。
そうして中庭に足を運んだ私は、ベンチで本を読んでいる美優ちゃんを発見する。
「美羽ちゃん、久しぶりだね」
私はそう言いながら、彼女の隣に腰掛けた。
「え? あ……澪お姉ちゃん」
「うんうん。覚えててくれて嬉しいよ。元気にしてたかな?」
横顔を見ながら問い掛ければ、美優ちゃんはその表情を曇らせた。
「元気ないね。もしかして、体調がよくないの?」
「うぅん、そういう訳じゃないんだけど……お姉ちゃんと喧嘩しちゃったの。あ、お姉ちゃんって言うのは、澪お姉ちゃんのことじゃなくて」
「うん。美羽ちゃんのお姉ちゃんだね」
「うん。その、本当のお姉ちゃんじゃないんだけど……」
「仲良しのお姉ちゃん?」
「うん、すっごく仲良しのお姉ちゃん!」
美優ちゃんはそう言って表情を輝かせ、またすぐにしょんぼりと俯いた。乃々歌ちゃんと喧嘩したことを思い出してしまったのだろう。
というか、喧嘩、ねぇ? そんな報告は聞いてないんだけど……もしかして、手術の件で、乃々歌ちゃんの説得を突っぱねたことを、喧嘩って言ってるのかな?
もしそうなら、雫の予想が正解、なのかな。
「ねぇ、どうして喧嘩をしたの? よかったらお姉ちゃんに話してみない?」
「……聞いて、くれるの?」
「うん、もちろん」
優しく微笑んで、美優ちゃんが自分から話し始めるのを待つ。そうしてしばらく待っていると、実は――と、美優ちゃんが口を開いた。
「私、手術を受けないとダメなの」
「手術って……何処か悪いの?」
私は知らないフリをして問い掛ける。
「うん。このまま放っておくと大変なことになるんだって。でも、手術をしたら大丈夫って言われてるんだけど……」
「分かる。手術って怖いよね」
美優ちゃんが最後まで口にするより早く賛同する。これで彼女の恐れていることが手術自体だったのなら、そうだよねと乗ってくるはずだ。
だけど、もしそうじゃないのならと、相手の出方をうかがった。
「手術自体は、簡単な内容なんだけどね」
美優ちゃんはちょっと困った顔で笑った。
……これは、どっちかな? 紫月お姉様のように相手の心を読むの、私にはまだ難しいみたい。仕方ない。もう少しストレートに聞いてみよう。
「美羽ちゃんは、その仲良しのお姉ちゃんのことが心配なの?」
その言葉による彼女の反応は劇的だった。目を見張って、どうしてそのことを? とでも言いたげに私に視線を向けてくる。
……どうやら、雫の予想が正解だったみたいだね。
「どうして?」
美優ちゃんが詰め寄ってくる。
「えっと……どうして分かったのかってこと? 私もね、妹に同じようなことを言われたの。自分が死んじゃうことより、そのことでお姉ちゃんを傷付けることのほうが怖いって」
「え、それって……」
「私の妹も病気なの。ここだけの秘密よ?」
美優ちゃんは目を見張って、それから少しだけ俯いた。
「……私、すごくすごく辛い時期があったの。ひとりぼっちで、誰にも理解されないと思い込んでいて。でも、そんな私に、乃々歌お姉ちゃんは優しくしてくれた」
「そのお姉ちゃんのこと、本当のお姉さんみたいに思っているんだね」
「うん」
「だから、そのお姉ちゃんが、自分のせいで傷付くかもしれないのが怖いんだね」
「うん。うん……っ」
姉を想う美優ちゃんを愛おしく想う。でも同時に姉である私は、そんな理由なら、迷わず手術を受けて欲しいと思わずにいられない。
「ねぇ美羽ちゃん、私が美羽ちゃんのお姉ちゃんなら、手術を受けるように勧めたせいで美羽ちゃんになにかあったら、私は一生後悔するよ」
「そう、だよね……」
美優ちゃんは膝の上に置いていた本をきゅっと握り締める。私はそんな美優ちゃんの手に、自分の手をそっと重ねた。
「それでも、私は美羽ちゃんに手術を勧める」
「……え? ど、どうして?」
「決まってるじゃない。そっちの方が、美羽ちゃんの助かる可能性が大きいからだよ」
「で、でも、それで、自分が傷付くかもしれないんだよ?」
「そんなの、関係ないよ。だって、私は……うぅん、美羽ちゃんのお姉ちゃんは、美羽ちゃんのことが好きだから。自分が傷付くかもしれないなんて恐れて、助けないなんてあり得ない」
先日のトロッコ問題を覚えているだろうか?
自分がなにもしなければ五人が死ぬ。でも自分がレールを切り替えればその五人は助かり、その代わりに三人を殺すことになる。さて、どうする? といった問題。
それらの問題において、なにもしないと答える人は少なくない。私もきっと、同じ選択肢を与えられたらためらうと思う。でも、その五人の中に雫がいるとしたら、レールを切り替えて死ぬ三人の中に自分がいたとしても、私はレールを切り替えることを迷わない。
乃々歌ちゃんも、きっとそういう人間だ。
そして、美優ちゃんを心配する彼女を見て、琉煌さんが恋心を抱くというストーリーもよく分かる。私も、美優ちゃんを大切に思う乃々歌ちゃんを見て、好意を抱いているから。
「……あのね、美羽ちゃん。この世界には不条理なことがたくさんあるの。だから、絶対に大丈夫だなんて言えない。もしかしたら、って不安があるのは当然だよ」
私は、乙女ゲームのストーリーを聞かされている。そのストーリー通りなら、美優ちゃんの手術はびっくりするくらいあっさりと終わる。
でも、それは原作ストーリーであって現実ではない。既に原作ストーリーとは違う結果がいくつも出始めている。美優ちゃんが死んじゃう結末が絶対にないとは言えない。
だけど、一つだけ確実なことがある。
「美羽ちゃんが手術を拒み続ければ、そのお姉ちゃんは必ず傷付くよ」
正確に言えば、いまこの瞬間も乃々歌ちゃんは傷付いているはずだ。自分の力不足で美優ちゃんに、手術を受ける勇気をあげられない――って。
「私が、お姉ちゃんを傷付ける、の?」
私はその問いに、首を横に振ることで応じた。
「美羽ちゃんが傷付けるんじゃない。そのお姉ちゃんが勝手に傷付くの。……まあでも、美羽ちゃんにとっては同じことだよね」
「……うん。私、乃々歌お姉ちゃんに傷付いて欲しくない」
やっぱり優しい子だ。もちろん、自分が死ぬかもしれないという恐怖もあるのだろう。そもそも、最初に手術を拒んだのはそういう理由だったはずだ。
でも、いまの彼女がなにより恐れているのは、大切なお姉ちゃんを傷付けること。
私は、そんな彼女の不安を取り除いてあげたい。
「美羽ちゃん、私が約束してあげる。もしも美羽ちゃんになにかあって、そのお姉ちゃんが悔やむことになったら、私がそのお姉ちゃんを助けてあげる」
普通なら、自分の手術が失敗すると思っているの? と怒るかもしれない。でも、美優ちゃんは怒らない。それどころか「……本当?」と縋るような目を向けてきた。
「本当よ。体育祭でクラスが優勝したら、手術を受けるって約束をしてたんだよね? その運命に委ねれば、乃々歌が傷付かないと思ったのかしら?」
手術を受けるのは体育祭の結果によるもので、乃々歌ちゃんのせいではないという保険。それにより、万が一のときに乃々歌ちゃんが少しでも傷付かないようにしたのでは?
そんな予想を口にすれば、美優ちゃんは驚きに目を見張った。
「どうして、澪お姉ちゃんがそれを知ってるの?」
「ここだけの話だけど、乃々歌と私、同じクラスなの」
悪戯っぽく笑ってみせる。
美優ちゃんはやっぱり目を丸くして、それから縋るような目を向けてきた。
「……本当?」
「クラスメイトのこと? 本当よ」
「そうじゃなくて、乃々歌お姉ちゃんが傷付いたら、本当に慰めてくれる?」
「……ええ。なにがあっても、絶対に立ち直らせてあげるわ。だから、美羽ちゃんはなにも心配せず、ちゃんと手術を受けなさい」
美優ちゃんのためだけじゃない。それは、雫を助けるために必要なプロセスだ。だから、どんな手を使っても乃々歌ちゃんを元気にすると誓うことが出来る。
「じゃあ……約束してくれる?」
「ええ。その代わり、ちゃんと手術を受けるのよ? それともう一つ、私のこと、乃々歌には内緒にしてくれる?」
「……内緒に?」
「うん。私が説得したことや、私とお話したことは内緒、約束出来る?」
「私が約束したら、澪お姉ちゃんも約束してくれるの?」
「ええ、約束するわ」
「分かった、じゃあ……約束!」
美優ちゃんが小指を差し出してくる。私はその小指に自分の小指を絡めて、なにかあれば絶対に乃々歌ちゃんを助けると約束した。
「よし、それじゃあ、私はもう行くわね」
そう言って立ち上がり、スカートの埃をパタパタと払う。そうして三歩ほどその場から離れた私は、不意に思い出したかのように振り向いてみせた。
そうして両手を広げ、美優ちゃんが手術を受けるのに必要な魔法の言葉を口にする。
「美羽ちゃんに一つだけ教えておいてあげる。実は私、未来を知っているの。美羽ちゃんの手術が成功する未来をね。だから――‘私を信じて手術を受けなさい’」
月曜日、私はいつものように学園に登校した。桜坂家の娘に無遠慮な視線を向ける人はいないけれど、ちらちらと盗み見られている。
先日の一件で、私が悪女であるという認識が広まっているのだろう。実際、あれから乃々歌ちゃんはもちろん、六花さんや琉煌さんとも喋っていない。
騎馬戦をサボってしまったのは事実だから仕方ないけど、六花さん達にまで嫌われてしまったのだとしたら……やっぱり少し寂しいなぁ。
でも、それは私が望んだことだ。雫を助けるために私が自ら進んだ道。どんなに寂しくたって、私はその道を進む。だって、雫を失うより哀しいことは他にないから。
幸い、明日香さんと沙也香さんが仲良くしてくれるようになったので、クラスで寂しい思いをしたり、体育の授業でグループにあぶれると言うことはなかった。
だから――と、堂々と胸を張って授業を受ける。
そうして一日を過ごしていると、休み時間になって乃々歌ちゃんの声が聞こえてきた。美優ちゃんが手術を受ける気になったと報告して、みんなにお礼を言っているようだ。
「協力してくれてありがとうございました」
「体育祭には負けてしまいましたが、大丈夫だったのですか?」
六花さんが小首を傾げる。
「はい。その……最初はやっぱり負けたからって嫌がったんですが、でも気が変わったらしくて、昨日いきなり手術を受けるって言ってくれたんです」
「そうですか、それは安心いたしました」
六花さんが微笑んで、クラスメイト達が「よかった」と声を掛ける。
その直後――
「誰かが騎馬戦をサボらなければ、そもそもなんの問題もなかったのにね」
乃々歌ちゃんの友達、夏美さんの声が教室に響いた。決して大きな声じゃなかったんだけど、周囲がちょうど静まった瞬間で、思いのほか声が響いてしまったみたいだ。
「貴女、それはどういう意味ですか?」
真っ先に口を開いたのは明日香さんだった。彼女が私の前に立つと、沙也香さんがその後に続いて、「澪さんのことを言っているなら許しませんわ」と前に出る。
だけど私は「――止めなさい」と、彼女達の言葉を遮った。私が騎馬戦に出なかった理由を知っている二人が不満気な顔を向けてくるけれど、私は首を横に振って取り合わない。
だけど、そんな私達のやりとりが、それ以上は財閥特待生として黙っていない――という脅しに映ったのだろう。夏美さんが不満を露わにした。
「なによ。都合が悪くなったら権力を振りかざすの?」
「夏美ちゃん!」
「……なによ、事実でしょ?」
乃々歌ちゃんがたしなめるけど、夏美さんは言葉を撤回しなかった。後に引けなくなっただけ、という気がしないでもないけれど、とにかく夏美さんは私を睨みつけてくる。
「どうして騎馬戦をサボったんですか?」
「理由が必要かしら? 以前にも言ったはずですわ。乃々歌のお友達がどうとか、わたくしには関係のないことだって」
「……っ。どうして……」
いま説明したでしょうと口にしようとした私は、けれどその言葉を呑み込んだ。私を見る夏美さんの瞳に、怒り以外の感情が滲んでいたからだ。
そうして彼女の出方をうかがっていると、彼女は一呼吸置いてから言葉を続けた。
「私は、あなたが最初から意地悪だって思ってました」
「なら……」
どうして、そんなに裏切られたみたいな顔をしているの?
そんなふうに戸惑う私に、彼女は語気を強めて続ける。
「でも、乃々歌はあなたのことをずっと信じてた! 本当は優しい人なんだって、ずっと。だから、私も、そうだったらいいなって……そう思っていたのにっ!」
あぁ……そっか、彼女は乃々歌ちゃんのために怒ってるんだね。乃々歌ちゃんの信頼を、私が裏切ったから。夏美さんは、友達思いの女の子、なんだね。
そのまま変わらず、乃々歌ちゃんの側にいてあげてね? と、彼女の行動を肯定してあげたいと思ってる。でも、悪役令嬢である私にそれは出来ない。
とはいえ、ここで彼女を許さない――みたいな発言をしたら、彼女は沙也香さん達の二の舞だ。桜坂グループに属する財閥特待生が、夏美さんに辛く当たるようになる可能性が高い。
六花さんが止めてくれればいいのだけど……と、彼女を盗み見る。だけど、彼女は険しい表情を浮かべながらも沈黙を守っている。いままでの彼女なら中立的な立場で仲裁してくれたと思う。だからこれは、私が愛想を尽かされた結果、なのだろう。
琉煌さんも同じだ。彼は不機嫌そうな顔で、だけど我関せずといった面持ちでそっぽを向いている。少なくとも、この件で仲裁をするつもりはないだろう。
そして陸さんに至っては……私にあからさまな侮蔑の視線を向けていた。
なら、ここは乃々歌ちゃんにがんばってもらうしかない――と、彼女に視線を向けた。彼女はハッとした顔をして、夏美さんの腕にしがみつき「やめて!」と叫んだ。
「乃々歌、この期に及んでも、まだ澪さんを庇うつもりなの?」
「それは……」
乃々歌ちゃんが視線を彷徨わせる。それは迷っている証拠だ。この状況でも、まだ私を信じようとしてくれるんだと申し訳ない気持ちになる。
だけど――
乙女ゲームをハッピーエンドに導き、雫の命を救う。
そのためには、乃々歌ちゃんと決別する必要がある。
だから――
「この期に及んでもわたくしを信じようとするなんて本当におめでたい人ね」
私は扇を広げて口元を隠し、乃々歌ちゃんを嘲笑っているかのように振る舞った。
本当は、最初からこんなふうに突き放すべきだった。色々と予定が狂ったせいで親しげに振る舞う時期もあったけれど、いつかはこうなる運命だったのだ。
なのに、私が悪に徹しきれなかったせいで宙ぶらりんになっていただけ。
悲しくないなんて絶対に言えない。
雫のためにバイトを始め、人付き合いを止めた私の周りからは、友人が一人、また一人と消えていった。だから、この学園で知り合った彼女達は私にとって大切な友人だ。
その友人達に嫌われて平気だなんて絶対に言えない。
でも、美優ちゃんのときに思い浮かべたトロッコ問題と一緒だ。
レールの先には雫がいる。
たとえレールを切り替えた先に誰がいようと、何人いようと関係ない。たとえ私を含めた世界中の人々がいるのだとしても、私は歯を食いしばってレールを切り替える。
それが、私が選ぶ未来。
だから――と、私は髪を掻き上げて再び意識を切り替える。罪悪感を抱くのは仕方ない。だけど、泣き言なんて口にする資格はない。それでも私は、雫を救うと決めたんだ。
だから笑え、いまの私は悪役令嬢だ!
「あなた方が、乃々歌の手伝いをするのは自由よ。だけど、その善意の押し付けに、わたくしを巻き込まないでいただけるかしら?」
冷たくあしらう私に対し、蔑むような視線が集まる。
いまの私は、上手く笑えているかしら?
それすらも分からぬまま、私はその場から立ち去った。
5
私が築き上げた信頼は、たった一つの行動で崩れ去った。
だけど、これは私が望んだことだ。遠巻きに眉をひそめられるけれど、私が周囲を罠に掛けたという前例があるから直接的な被害を受けることはない。
それに、沙也香さんと明日香さんが側にいる。
だから、私は大丈夫。
だけど……悪役令嬢はどうして、こんな状況でも意地を張るんだろう?
私のように、誰かのためにがんばるのなら分かる。でも本来の悪役令嬢はそうじゃない。一人で意地を張って世界を敵に回し、最後はなにも成し遂げられずに破滅する。
そんなの、私には耐えられない。
悪役令嬢の気持ちが分からない。だけど……幸か不幸か、私は悪役令嬢の気持ちを知る必要がない。だって私は、破滅することで目的を果たせるから。
だから迷うことはない。雫を救うため、私はこの道を突き進む。
そんなふうに考えていると、不意にスマフォに着信が入った。着信があったのは佐藤 澪の回線だ。そこに表示されているママの名前を目にした瞬間、すぐに応答をタップした。
「もしもし、ママ?」
「こんばんは、澪。いまは大丈夫?」
「うん。いまは大丈夫だよ」
私の戸籍については既にオープンになっている。
ゆえに、私がママの娘であることを隠す理由はない。それはママも知っている。だからいまの確認は、電話をする時間があるかどうか? という問い掛けだろう。
この時間は大抵、私が家にいることは知っているはずなんだけど……そう言えば、ママから私に電話を掛けてくることは滅多にない。
「もしかして、なにかあった?」
「うぅん、なにもないわよ。ただ、私が澪の声を聞きたくなっただけ。私の可愛い可愛い娘が、どうしてるかなって思って」
「……ママ。私も、ママの声が聞きたかったよ」
養子縁組をしたときは、もう二度とパパとママのことを呼べなくなると思ってた。だから、堂々とママと呼べることがすごく嬉しい。
思わず甘えそうになってしまうけれど、ここで弱音を吐く訳にはいかない。
そう思っているのに――
「ねぇ澪、なにか辛いことがあったの?」
「……どうして?」
思わず、といった感じで問い返した。
私は悪役令嬢として日々訓練をしている。演技だってたくさん練習した。もちろん完璧にはほど遠いけれど、少し落ち込んでいる程度なら隠し通せるはずだ。
そうして驚く私に、ママは茶目っ気たっぷりに笑う。
「私は貴女のお母さんなのよ? 貴女の様子がおかしいことくらい、すぐに分かるに決まってるじゃない。なんて、本当は紫月さんから連絡をいただいたんだけどね」
最後の一言で台無しだよ。
――って、
「お姉様から?」
「ええ。澪が落ち込んでいるから、慰めてあげてください、って。……あぁでも、紫月さんからは、私が教えたことは秘密にしておいてくださいって頼まれてるからここだけの話ね」
「……ちょっと、ママ? なんで秘密って言われたことを、あっさり教えちゃっているの?」
紫月お姉様はたぶん、ママを信頼して教えてくれたんだと思うよ? と、半眼になる。だけど、返ってきたのは、朗らかな笑い声だった。
「なにを言っているのよ。私にとって一番大切なのは澪、貴女よ。その貴女が喜ぶことを、貴女に教えないはずないじゃない。紫月さんもきっと、分かってて言ったはずよ?」
「……そう、かなぁ?」
紫月お姉様なら、信頼関係を重要視しそうな気がする。あぁでもそれは、財閥の関係者だから、かな。人との繋がりは情が大切だけど、仕事だと情を挟んじゃダメだもんね。
でも、ほんと、気遣いが出来るお姉様だ。
最近思うんだけど、紫月お姉様が悪役令嬢だっていうのが信じられない。乃々歌ちゃんとは違うタイプだけど、紫月お姉様もどっちかというとヒロインタイプだと思う。
「それで、なにがあったの?」
「……それは」
現実に引き戻され、思わず言葉を濁した。雫のために無理をしているなんて思われたくないから。だけど、そうして私が沈黙するあいだに、ママは勝手に勘違いをしてくれる。
「なにか落ち込んでるんでしょ? お嬢様学校で馴染めてない、とかかしら?」
「ん~それは大丈夫、かな? クラスメイトはみんな、優しい人ばっかりだから」
「そっか。なら、澪なら仲良くなれるわね」
「……うん、そうだね」
私が悪役令嬢じゃなければ――というセリフは呑み込む。そして追及されるより早く、「そういえば、ママは自分の父が桜坂家の人間だって知ってたの?」と話題を変える。
「もちろん知らなかったわ。というか知っていたら、貴女を養女にするとき、あそこまで心配しなかったわよ」
「まぁ……そうだよね」
戸籍を改竄するから、親子であることを秘密に――という項目が契約にあった。だから、もう二度と、家族として接することが出来なくなると落ち込んだ。
それは私だけじゃなくて、パパとママも悲しんでいた。
あれが演技とは思えない。
「でも、ぜんぜん知らなかったの?」
「ん~、少し訳ありだってことは聞いていたわよ? でもそれ以上は知らないわ」
「そっか……」
じゃあ、本当に紫月お姉様だけが知ってた感じなんだね。紫月お姉様がどのタイミングで知ったのか気になるんだけど……まあ、聞いても教えてくれないよね、たぶん。
そんなことを考えながら、ママとしばらくおしゃべりを楽しんだ。
それからしばらくは、特になにもない日々が続いた。もちろん、私は悪役令嬢のポジションを確立したままで、学校では遠巻きに噂される日々が続いている。
そうして、期末試験が近付いてきた。
スマフォに届いた成績は、私が前回取った順位よりも少し上程度。
ここまで成績を上げるのは苦労したけれど、悪役令嬢は決して勤勉じゃない。一度追いついてしまえば、悪役令嬢と同じペースで順位を上げるのはわりと簡単だ。
悪役令嬢はハイスペックでも、決して努力家ではなかったみたい。だから私は試験勉強をする傍ら、雫とビデオ通話を楽しむ余裕があった。
ただ、学校では明日香さんや沙也香さんと一緒に勉強をする。悪役令嬢としては、あまり人前で努力を見せたくないのだけれど、二人に請われて仕方なく、といった感じである。
昼休み。
カフェで食事をしていると、周囲からヒソヒソと噂する声が聞こえてきた。主語が巧妙に伏せられているけれど、端的に言ってしまえば私に対する悪口だ。
ついにここまで来たのか――と、私は感慨深い気持ちになった。
乃々歌ちゃんや六花さん、それに琉煌さんや陸さんに失望されるのは悲しい。だけど、私のことをよく知りもしない、噂に流されるだけの人達がなにを言っても気にならない。
私は素知らぬ顔でショートケーキを食べていたのだけれど、いつからか沙也香さんと明日香さんの手が止まって、いまにも立ち上がりそうな面持ちをしていた。
私はショートケーキをこくんと嚥下して、「気にする必要はありませんよ」と呟く。
「ですが、澪さん……」
明日香さんが訴えるような視線を向けてくる。
沙也香さんと明日香さん。二人セットで悪役令嬢の取り巻きという認識だったのだけれど、こうして友達になってみれば二人の性格は一緒じゃない。内向的な沙也香さんに、社交的な明日香さん。明日香さんの方が、こういった場面では感情的になりやすい。
「わたくしは気にしませんわ」
だから、貴女も気にしなくていいのよと視線で訴えかける。明日香さんはしぶしぶといった感じで頷き、ノートに視線を落とした。
だけど――
「それにしても、あの二人はなに考えていらっしゃるのかしら?」
「ほんとですわね。自分を貶めた相手にすり寄ったりして、恥ずかしくないのかしら?」
へぇ……ここで私の取り巻きを揶揄するんだ?
主語を口にしていないから大丈夫と油断しているのね。いいじゃない。そんなに破滅したいのなら、私が悪役令嬢であるとみなに知らしめるための生贄にしてあげる。
私はポケットから取り出した扇で口元を隠し、目元だけで笑ってみせた。
「明日香さん、沙也香さん。貴女達、権力を持つわたくしにすり寄っているの?」
前置きを挟まずに尋ねる。
その声が聞こえたのだろう。カフェが一瞬で静まり返った。
「なにをおっしゃるのですか? そのようなことありませんわ」
「そうですわ。私達は自らの過ちを反省しただけです」
明日香さんと沙也香さんが続けざまに答えた。
「ええ、そうね。よく知っているわ。でも……もしも、貴女達が桜坂家の娘であるわたくしに取り入ろうとしているだけだとしてもかまわないの」
「「そんなことは――っ!」」
二人揃って否定しようとする。だから私は、手のひらを差し出して遮った。
「そうじゃないことは知っているわ。でも、そうだったとしても、それは正しい行為よ。だって、そうじゃない? 親の勤める会社が、何処の下請けかも知らずに火遊びをしたり――」
私はパチンと音を鳴らして扇を閉じて、悪口を言っていた娘の一人に視線を合わせる。
彼女は専務の娘だ。桜坂グループの下請けをしている会社の。
ちなみに、桜坂がその会社を下請けにしているのは、紫月お姉様と同世代の娘がいるという程度のよしみでしかない。私と不仲だと知れば、下請けの話はなくなるだろう。
そのことを思い出したのか、はたまた雰囲気に呑まれただけか、彼女はびくりと身を震わせた。私はそんな彼女から視線を外し、続いて悪口を言っていた二人目へと視線を向ける。
「親の会社がどこから融資を受けているか知らずにやんちゃをしたり――」
私は口の端を吊り上げて笑いかけた。
こちらは中小企業の社長令嬢だ。新たな事業に参入するという名目で桜坂グループの融資を受けているが、中々成果を上げられずにいる。
既に微妙な状況だから、私の機嫌一つで融資が打ち切られることだってあるだろう。
「無知を晒しているだけか、はたまた破滅願望があるだけか。そんなお嬢様方より、わたくしに媚びを売る貴女がたの方が、よほど賢明だと思いませんか?」
「たしかに、澪さんに喧嘩を売るのは愚かなことですものね」
「私も、もう二度と澪さんには逆らおうと思いませんわ」
私の問い掛けに明日香さんが笑って答えれば、沙也香さんも笑って応じた。結構ヤバいことを言ってるはずなんだけど、二人ともノリノリね。
私が冗談を言っているとでも思っているのだろう。
でも、本気に受け取った者達もいる。私の悪口を言っていた二人に視線を向ければ、彼女達は青ざめた様子で立ち上がり、逃げるように去っていった。
そうして、私達を揶揄する声が消えた。代わりに畏怖の視線が向けられる。
これこそ、私が望んだ通りの展開だ。私が悪役令嬢として振る舞うための生贄になってくれてありがとう。そんな思いを込めて、彼女達の後ろ姿を見送る。そうして視線を戻せば、なぜか明日香さんと沙也香さんにキラキラとした瞳で見つめられていた。
……って、どうしたのよ? 彼女達をやり込めるためとはいえ、わりと酷い扱いをしたと思うのだけど、どうしてそんな目で見るのよ? そう思っていたら「私達のために怒って下さってありがとうございます」と二人が頭を下げる。
「なにを言っているの?」
「隠さなくてもいいではありませんか。わたくし達のために怒って下さったのでしょう?」
沙也香さんがそう言って、明日香さんがこくこくと頷く。
あぁ、そういうふうに解釈したのね。
……この子達、なんか第二、第三の乃々歌ちゃんになってたりしない? もっとも、悪役令嬢の取り巻きだから、悪役令嬢の信者でも問題ないのかもしれないけど。
そんなことを考えながら、私はショートケーキを口に運んだ。
放課後。
ホームルームを終えた後、担任の先生から生徒指導室へ行くように指示される。悪役令嬢街道を邁進中の私が呼び出しを受けたことで、クラスメイトの視線が私に集まった。
陸さんは私を見ようとせず、乃々歌ちゃんは私をちらりと見て目を伏せた。六花さんと琉煌さんはなにか言いたげな顔で私を見ている。
だけど、そんな彼らの視線を遮るように、明日香さんが私の前に立つ。
「澪さん、やはり私が――」
人差し指を突き付け、明日香さんのセリフを遮った。彼女がなにを口にしようとしたか分かってしまったからだ。明日香さんは、私が騎馬戦を休んだ理由を話そうとしている。
それで秋月家の不興を買って、自分の家が不利になることを承知の上で。
だから、そんなことはさせないと彼女の頬に手を添える。
建前は、秋月家のプライドを保つためだけど、その実は私が悪女であると人々に示すために他ならない。私が明日香さんを庇っていたなんて、そんな美談にされてはたまらない。
だから――
「明日香さん、せっかく丸く収まった話を蒸し返す必要はないでしょう? あの件は、私達だけの秘密よ。……約束、出来るわね?」
彼女の目を覗き込み、強い口調で言い放った。
明日香さんは私に感謝している。だからこそ、私の指示に逆らうことはない。沙也香さんも、明日香さんの許可なく、明日香さんの実家に迷惑を掛けるような選択はしないだろう。
だから、これで心配はない――と、私は彼女達を置いて生徒指導室へと向かった。
やってきた生徒指導室の前。ノックの返事を待ってから扉を開けて部屋に入る。
ローテーブルの向こう側に座っていたのは、体育を担当する千秋先生だった。彼女はこの学園で唯一、私が乃々歌ちゃんのために悪女を演じていると気付いている人間である。
もっとも、その件は紫月お姉様が手を打ったので問題ない――はずだったのだけど。
「千秋先生がわたくしを呼び出したのですか?」
どういうつもりですかと睨みつければ、彼女はびくりと身を震わせた。
「体育祭の件で、あなたに聞きたいことがあります」
「まさか、乃々歌に協力してあげなかったのが悪いことだ、とでも言うつもりですか」
「いいえ。協調性に欠けるのは事実ですが、貴女の言動が間違いだと決めつけることは出来ません。それに、なにか事情があったのではありませんか?」
「乃々歌に似て、おめでたい人ね」
呆れたように言い放つけれど、千秋先生はなにかを見透かすように私を見つめている。ここで私が動揺したり、なにを根拠に――なんて聞けば進んで自白するようなものだ。
それでも、ここまで確信めいた態度をとられている以上、その理由を問わずにはいられない。やっぱり、蒼生学園の先生だけあって手強いわね。
「……なにを根拠に、そう思うのですか?」
「あの日、東路さんから欠席の連絡があったの。だけど……貴女がクラスメイトと口論になったとき、貴女の側には東路さんがいたそうね?」
「……好奇心は猫をも殺す。ご存じありませんか?」
ストレートに警告するけれど、千秋先生はふっと微笑んだ。
「もちろん知っているわ。貴女に逆らったらどうなるかくらい、ね。だけど、私はこれでも教師だから。生徒のことを理解するのが先生の務めなのよ」
「……いまどきはやらないと思いますが。先生に打ち明けてみろ、と言うつもりですか?」
「いいえ、聞いても話してくれないのは分かっているわ」
「……では、わたくしを呼び出した理由はなんですか?」
千秋先生の思惑が分からなくて、私は声のトーンを落とした。
「決まっているわ。この状況で、誰も貴女を呼び出さなければ不自然だから、よ」
「……それは、もしや、話を合わせてくださる、と?」
ハッキリ言って、予想外の答えだった。
そうして戸惑う私に、千秋先生は深刻な顔をした。
「ローンが払えなくなったら困るのよ」
私はパチクリと瞬いて、その意図を察してくすりと笑う。
「……そこで悪役ぶる必要、ありますか?」
私を敵に回せば職を失うと脅したことはあるけれど、味方をしろと脅したことはない。だから、本当にトラブルに巻き込まれたくないだけなら、そもそも私を呼び出す必要はない。
あえてそんなふうに振る舞うのは、私に気を遣わせないためだろう。そう指摘すれば、彼女は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「貴女には言われたくないわね」
「私は悪役ぶってる訳じゃなく、根っからの悪女ですから」
「本物の悪女はそんなふうに言わないのよ」
そう言って立ち上がった彼女は、私にコーヒーを淹れてくれた。
「……どういう風の吹き回しですか?」
「すぐに戻ったら、お説教されていたという信憑性がないでしょう? それを飲んで、時間を潰してから教室に戻りなさい」
「……先生、少し変わりましたか?」
「私は最初から、生徒達の味方よ」
言われてみればそうかも。
そんなふうに考えながら、先生が淹れてくれたコーヒーを口にした。
ほどよく時間を潰して生徒指導室を後にすると、走り去る生徒達の後ろ姿が目に入った。おそらく、私が呼び出しを受けたと知った生徒達が、様子をうかがっていたのだろう。
悪女として孤立しつつあるいまが悲しくないと言えば嘘になる。
でも、これは私が望んだこと。
だから私は笑う。
雫を助けるためになら、紫月お姉様以外の全てを敵に回したってかまわない。
そうして悠然と微笑んで教室へと向かう。廊下を歩く私の前に、一人の男子生徒が立ちはだかった。新しい生贄の登場かしら――と顔を上げた私はピシリと固まった。
そこに、ある意味ラスボスがたたずんでいたからだ。
「きょ、恭介さん、どうしてここに?」
「どうして? 以前、俺はこう言ったはずだ。おまえが紫月の評価を下げるような真似をすれば、俺はどんな手を使ってもおまえを排除する、と」
お読みいただきありがとうございます。面白かった、続きが気になるなど思っていただけましたら、ブックマークや評価を押していただけると嬉しいです。
また、新作2シリーズも連載中です。下にリンクがあるので、よろしくお願いします。