008.Be to Recall
Wordle 228 4/6
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サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいない世間話にもならないようなどうでもいい話だったのだと、私は大人になってからようやく気付いた。
死生観や哲学についてちょっとかじったり、深夜にインターネットをうろうろ散策して見つけ出した雑学を嬉々として披露したりするのに似たそれは、ひねくれ盛りの高校生がかかる麻疹のようなものだ。私たちはそんな過去の記憶が浮かびあがってくる度、どうにか忘れられないかと息も絶え絶えに身悶えする。
きっと皆そうだ。
きっと皆が持っている。
去りし日の、病気のような思い出を。
◇
吹き付ける秋の雨に学校指定の革靴がクチャクチャと音を立てる。一歩一歩に余さずかかさず、クチャクチャ、クチャクチャ。
生ぬるい。
生っぽいくて、生き物みたいだ。
私は一歩一歩、生命を足蹴にしている。
降ってきそうだと突きあげた鼻にペトリコールが漂ってきたのと、ぬるい雨粒が目じりに一滴張り付いたのとがほとんど同時だった。湿った空気が体いっぱいに吸いこまれたときには、もうあたりは一面の土砂降りになっていた。
郊外の住宅地だけに雨宿りができるような場所もなく、私ともう一人──その人も私と同じく文化祭の買いだし係で、名前をアマサキさんといった──とは買ったばかりの模造紙を濡らしてしまわないように高校へと向かっていた。ホームセンターから学校までは長くなだらかな上り坂が続いている。
幸いなことにアマサキさんも私も折りたたみの傘を持っていたので、上から下までびっしょりとはならなかったけれど。強くなりだした雨はそんなことお構いなしに靴から膝からビョウビョウと吹きつけて、すぐにスカートの裾をへたらせた。ずしりと重くなった鎖はふくらはぎに絡みついた。
すぐ脇を車が走りぬけていった。手のビニール袋を持ちなおして、一歩左へと寄る。タイヤの散らす水しぶきが靴下にかかっただろう。けれど私にはもう雨とそれとの区別がつかなくなっていた。そしてそれがまた、無性に歯がゆかった。
アマサキさんとの間に会話はなかった。たまたま一緒の係になったというだけで、彼女と私が一緒にいるところなんて、この文化祭が終わったらきっと二度と見られないだろう。私と同じように雨から模造紙を庇う彼女は、私がちらと視線をやったことに気付かなかったらしい。彼女がかけている眼鏡には細かい細かい雨粒が灰のように降りつもっていた。ブレザーの袖口で眼鏡をぬぐう彼女から、私はとっさに目をそらした。
彼女がメガネをかけているというのは、私にとってある意味一番いやなことだった。いやというか、悲しいというか。難しいな。……やるせない、っていうんだろう。私がひとりぼっちなのは、全然全くメガネのせいなんかじゃないって突きつけられているみたいで。
アマサキさんはメガネで、小柄で、後ろ髪を緩いツインテールにしていて、スカートの丈をちゃんと守っていて、吹奏楽部で、嫌味なところがなくって、成績も悪くない、クラスの人気者だった。わかりやすく。私とアマサキさんとを選りわける作業なんて、きっと瞬き一つでもできただろう。
むやみに騒いだりしなくても、悪目立ちしなくても、みんなから好かれている。女子も男子も含めて、クラスの人間からの陰口を聞いたことがないのは、彼女についてだけだった。
二人きりの行軍は、いよいよ泥中で藻掻くようになってきた。ぐっしょり張りつくスカートと、じっとりべたつくシャツが鬱陶しかった。いっそのこと全て放りだして、土砂降りの中を家まで逃げだせたら良かったのに。…………。後ろからアマサキさんの視線を感じる。亀の歩になった脚を慌てて前に出した。お気持ちだけの広さしかない道路脇の歩道では、一人が止まるだけで誰も通れなくなる。
心なしか、雨がまた少し強くなった。
吐く息が白い。
歯の隙間から漏れだした息は、ほんの少し私から離れると、ときたま吹きつける雨風に細切れにされてすぐ見えなくなる。
すっかり水浸しになった靴がじゃぶじゃぶと音を吐きだす。靴の中はジメジメと梅雨のようで、指の間にかいた汗と次から次へと染みこんでくる雨水との境目もまた、もうわからなくなっていた。
「────」
「え?」
後ろから呼ばれたような気がした。私のあげた声は、すぐ傍を走りぬけていくトラックのうなりにかき消される。
…………。
頬まで跳んできた水しぶきを指で拭った頃には、どうも振りむく気力は残っていなかった。多分、何かの聞き間違い。それか独り言か。だとすれば私の返事が聞こえなくて良かっただろう。『急に話しかけてきた』なんて思われるよりはずっと。
ふっふぅっ。詰まった息を絞りだす。肺の中を空っぽにしていないと、次の息もまともに吸いこめない。私たちを覆う分厚い雨のカーテンは、じわりじわりと幅を狭めて、頼りない折りたたみ傘のすぐ外まで私に迫ってきていた。あと数分学校の正門が見えるのが遅ければ、私はきっとあの嫌な予感通り、手にした模造紙たちを全てほっぽり出していただろう。
安堵の息も、しかし降りしきる雨にすぐ粉々になって、嘆息へと変わる。
私たちの高校は普通の県立高校で、偏差値は中の上程度だった。すごく頭がいいってわけでもないし、すごく治安が悪いってわけでもない。普通の高校。閉めきられた南門を過ぎて、右手に校庭を眺めながら数十メートルほど行くと、正門が見えてくる。校庭と道路との間には松の木がまばらに植えつけられていて、一応目隠しの役を負っているらしい。道路にせり出した松の葉が、時折、傘の代わりにこのとげとげしい雨を引きうけてくれる。
ほんの少し目を閉じて音だけの世界に入ると、私の世界はずっとずっと小さくなる。
ぎゅうっと縮こまって、卵の中にいるみたい。
──ばちり。思い切り水たまりを踏んでしまって、辺りに水しぶきが舞う。けれどもう構うもんか。どうせ上から下までびしょびしょなんだから。
校門をくぐって昇降口へ。文化祭準備の生徒は誰も残っていないらしい。いつも最終下校時刻の五時半までぼんやりと灯りを湛えている昇降口も、今はこの雨に押さえつけられるようにじっと息を潜めている。というのも当然で、見ればもう十八時を回っていた。引き戸を開けて下駄箱の並ぶ中へ入る。中の空気は廃墟のように乾いていた。私とアマサキさんとが傘をたたんで扉を閉めると、篠突く雨の音は耳の奥の方から聞こえはじめる。
どろりと殻から取りだされて、今度は何か、お皿に出して冷蔵庫の中にしまわれたような気分だった。
「ちょっと雨宿りしていこうよ。この中を帰るのは流石にね。それの他に置き傘もないでしょ」
アマサキさんは折りたたみ傘を下駄箱に立てかけると、眼鏡を外してそう提案した。
「……ん」
私はちょっぴり頷いて彼女と同じように折りたたみ傘を足下に放った。ローファーから上履きに履きかえると、耳の奥から染みだす雨音が昇降口の乾いた空気を満たしだした。短くふっと息をついて、垂れこめた沈黙から逃げるように正面の階段に脚を向けた。
文化祭の準備期間中は各クラスの前の廊下に材料を置いて良いことになっている。私たちは買ってきた模造紙をロッカーの上に放ってクラスの中に入った。自然、それぞれが自分の席に向かう。
電気は点けなかった。窓からさしこむ薄青白い光を頼りに歩く。
私の席は後ろの方で、窓から校庭を一望できるベストポジションだった。暇なときに寝たふりをしなくても、変な目で見られることがないからだ。アマサキさんは中央の前から三列目。すぐ脇にクラス一の目立ちたがり男子を据えて、その飼育係って感じの席。今日はその彼ももう帰ってしまって、相変わらず降りやまない雨だけが教室を包みこんでいた。
右肘をついて外を眺める。晩秋の日はすぐどこかへ行ってしまう。暗闇の中、冷えだした袖が、スカートが、靴下が、首筋がぶるぶると震えだした。
「ねえカヤドリさん」
びくりと肩を強ばらせて目をやると、アマサキさんがぐっしょり濡れた靴下を脚から抜きとるところだった。
「風邪ひいちゃうよ。靴下だけでも脱いだらどうかな」
私とは大違いの引きしまった脚を惜しげなくさらして、彼女はもう片方の靴下も取りさる。私がそっけなく顔を背けるのに、彼女はお構いなしに踏みこんでくる。ぺたぺたと教室の床を鳴らしながら遂には私の前の席までやってきて、そこに腰を下ろして続けるのだ。
「こうやって話すのって、実は初めてかもね、カヤドリさん」
私は、こうやって優しいのが一番嫌いだった。その優しさの理由は、きっと私にないから。
私に向けられる作り物の笑顔が、私を一番みじめな気持ちにさせてくれる。
「……ん」
私は窓の景色から目を離さず、たったそれだけを応える。
これは雨だ。
「カヤドリさんって、部活どこだったっけ。あ、美術部だ。演劇の背景とか描いてくれてるもんね。あれすっごく上手だよ」
吹き付ける雨に、身を縮める。
ああ、息苦しいなあ。
「……ありがとう」
「ほんと、貴重な人材だ」
これは、雨だ。私が私だから降っているわけじゃない。
アマサキさんは一糸まとわぬ足先をトントンと床にぶつけながら、教室の後ろに立てかけてある件の背景を眺める。ちらとその瞳を盗み見て、また視線を外へと戻す。やっぱりだ。彼女は私のことなど見ていなかった。いつも通り。みんな通り。
「いやー、それにしても急に降りだしたよねえ」
彼女のことを悪く言うつもりはない。きっと皆もそうだから。興味の無い相手を真摯に見つめるほど、私たちは暇じゃない。その興味の無い相手と仲良くするフリができるってだけで、アマサキさんはとても優秀だ。
「天気予報ではこんなになるなんて言ってなかったよね。おっきい傘この前買ったばかりだったのに」
優秀で、素敵。本当にそう思う。だからこそ彼女は人気者で、そのフリが下手くそな私はひとりぼっちなんだ。だから、これはわがままだ。さみしがりの子供のわがまま。私を見てよって。認めてよって。
「あれも、今思えばすごかったよね。むわーって。カヤドリさんも気付いてたみたいだけど」
私から塞ぎこんでいるくせに、よく言うよと思う。『私は自分を見せないよ、でもあなたは見せて』? あは、そんな馬鹿な。…………そんな自分に嫌気がさして、なお一層、自分を見せることなんてできやしない。
ああ、生き苦しい、な。
でも仕方ない。今は傘をじっとさして、止むのを待つ。
「雨の匂いっていうのかな、アスファルトの匂いっていうのかな」
じっと。
「ペ、ペトリコール!」
じっと…………え?
「へ?」
「………………ペトリコールって、いうんですよ。…………あの……雨の匂い」
…………。
もうすっかり日も沈んで教室の中は暗くなっていたから、真っ赤に火照った私の顔はアマサキさんからは見えなかっただろう。手持ち無沙汰の私はもう何がなんだかわからなくなって、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、アマサキさんと同じように裸足になる。足先に最後までしがみついていた靴下は、さながら着衣泳を思わせた。絞り出された残り水が肌にこびりついてだらしない跡になる。生ぬるく汚れた靴下は鞄から取りだしたビニール袋にまとめる。足は座っている椅子の裏面にぐっと近づけて、床に触れないように。
「……カヤドリさん」
そんな私のごまかしなんて何とも思っていないように、アマサキさんはその先を次いだ──。
◇
──詳しいんだ、そういうの。
あの日、その後のことは後にも先にも、一切合切全てが全て、全てを全て、何度だって思い出せる。
彼女の笑み。
他の誰でもない私に向けてくれた笑み。
いつの間にか降りてしまっていた足先に触れる教室の床──木造の床は、サラリと暖かく私のことを受けいれてくれた。
例えば。
『サンタクロースをいつまで覚えていたか。』
人はそれを馬鹿な質問と笑うだろう。
冬になれば雪が降り、梅雨になれば雨が降る。ジングルベルの歌が聞こえてくればサンタクロースを思いうかべるし、子供だった頃、十二月二十五日の朝に嬉々として枕元を探ったことを想起する。
それらは、決してそのときまで忘れられていたわけじゃない。覚えているとか、いないとか、最早その次元にないものだ。それらは、ずっと私たちの心の中にある。
この記憶も、だからそれと同じ。
私は別に、だからって、誰に対しても明るく自分をさらけ出して接するのが正しいことだなんてこれっぽっちも信じちゃいない。
あのとき、確かに私に向けて笑いかけてくれたアマサキさんが、本当は誰にでもその笑顔を向けていたのかもしれないことを、私はとうとう無視してしまった。
──その点で、あの日、あのときに、私はアマサキさんに変えられてしまったのだ。
人は変わらない、とよく人は言う。私たちは、自身が明日も明後日も変わらない自分であり続けると心の底から信じきっている。
けれど、そんなのは大嘘だ。言いも言ったりの真っ赤な嘘だ。
人は変わっていく。それは気付かないほど穏やかで、それは残酷なほどあっという間だ。
これを読んでくれている皆に負けないくらいひねくれものだった私も、今ではすっかり普通の大人になってしまった。儀礼を重んじ、慣習に縛りつけられている、つまらない大人。ひねくれもので、塞ぎこんでばかりのさみしがり屋だった頃の私は、もういない。
けれど私には、変わらない拠り所がある。
彼女との思い出だけでどんな困難にも立ちむかえる──そんな大仰なことを言うつもりはないけれど。けれど、この思い出は変わらないまま、私の一部分であり続けるだろう。私を作りあげた、かけがえのない一ページ。
ひょっとすると、人気者の彼ら彼女らは私たちのことを気持ち悪いと蔑むのかもしれない。『勝手に私たちを慰み者にするなんて』。
けれど、どうか許してほしい。
もうこの思い出は、私のものなのだ。何かの間違いだったとしても、もう失われたよすがだったとしても。私が私のままで良いと思えた、この世界との鎹。
病気のような思い出で、私たちは生きていく。
私は何度でも思い出す。
雨が降ったら? ──ううん。
あのちょっぴり生意気な名前の香りが、漂ってきたら。
MOIST