077.やよい軒 卵焼き(220円)
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「結婚式」
テーブルの木目が白い。
金曜夜のやよい軒は混んだ。家族、友人、恋人同士が入れ替わり立ち替わり。店員さんが「お後、五名様でーす」と奥に引っ込んでいく。
真理愛は贔屓のGジャンをスリーサイズもオーバーで着こなして、じゃらじゃらとストラップの揺れるスマホを繰っていた。私が注いできた水は、もう数ミリを残して飲み干されている。彼女が拭ったのだろう、飲み口には紫がかった口紅が薄く引き延ばされていた。
結婚式──そう聞こえた。
私の視線に気付いているのかいないのか、彼女の瞳はSNSのUIを白く映しだしている。すう、すう。写真。横、横、横、縦、文字。縦、写真。横、横、縦、動画。縦、写真。スマホの背面に添えられた人差し指が、私に向けられている。いつか浴衣に引っかけておじゃんになったその爪を思い出す。今日はもう、花火行かない。綺麗にラメの入った爪がこっそりと揺れている。喉の奥が古く、熱い。広くもない席の中で座り直して、急かされるように水を含んだ。自分のコップにばかり並々と残っているのが恥ずかしかった。
やっぱり、気のせい。
机の上に顔を戻す。卓上スタンドにまとめられたペーパーナプキンが目に留まった。折り重なって、それこそ、ちょっとしたウェディングドレスにも見えた。呼び出しボタン、積み重なった小皿、お漬物の瓶──私は小皿を一枚表返して大根のお漬物をよそう。醤油、七味、割り箸──一膳取り出して割る。一本は、中指と人差し指、親指の関節で挟む。もう一本は、親指の付け根と薬指に添える。
お箸を持つときほど、小指のけなげさを感じることはない。
薬指の陰につつましく隠れて、ひっそり、食事が終わるのを待っている。
私がこうやって思索家ぶると、真理愛は決まって失笑した。
小指に意思なんて無いに決まってるでしょ。
「それにあんた、ペン持ったことないの」
そんなことないと彼女の前でお箸を一本だけ握って見せてあげたら──小指もしっかり使ってあげた──二度とは指摘されなかった。
割ったばかりのお箸はささくれだって、親指のふちにチクチクとちょっかいした。一回、二回。むずがゆくて指を直す。三回。どうしてこんなこと。私のお箸が小分けになったお漬物の中へ入っていく。
真理愛は必ず、私のお箸の持ち方を笑った。
普通はクロスさせないんだよ。
「ユキの持ち方じゃ、ハサミじゃん、それ」
大根、はくさいときゅうり。少なすぎず、しょっぱすぎない塩梅。ハサミの要領でつまんで──もう一度の、「結婚式」、の声は、私の耳にだけ、届いた。
お店の喧噪が戻ってきて、また引いた。
「当たったんだけど」
真理愛の言葉に遠慮するみたいに、店中の言葉が私たちを避けていった。
私のそれも例外ではなく、普段なら出るなと言っても聞かない、やば、だの、まじ、だのはすっかり喉の奥で丸くなって、空っぽになった舌はまだ湿っていて、下手なお箸のつまんでくるお漬物を待って、酸っぱい唾液をじろじろと出し続けて。
ととん、とスマホが机に伏せられる。真理愛の瞳が深く縁取られたグレーに戻る。
真理愛にそう言ったことはなかったけれど、彼女の目許は何かの虫に似ていた。(言わなかったのは、だって、こんなこと言われたらきっと誰でも怒るから。)震える睫、一瞬で動き回る瞳、瞬きの度、再三湿らされるその球は、料理とか、日記とか、映画とかの比じゃなく、途方もなく、生きすぎていたから。その、そんな目が、私の手の中のお箸へと据えられている。見た。
見た。
その中で、過ぎた命の中で咀嚼された言葉が、真理愛の喉から、首から、そのほんのりと浮き出た鎖骨から、お腹へと下りてゆく。
「はあ」
私は最低限で返す。はと、あと。同じだけ混ぜた声。
情けない声──絞り出した。
真理愛の目は私のお箸から離れて、お漬物や、ペーパーナプキン、最後に、テーブルの木目の上で留まった。私の言葉を待っている。
「急にどした」
「当たったの」
間髪入れずに応えた真理愛は、ハガキを一枚、机の上に置いた。薄く「当たり」と書かれている。そのすぐ下に「十円玉でこすってください。二人の愛がカギ!?」とグレーの文字が並んでいる。手に取って、大見出しに目を通す。
「えー、結婚式をプレゼント。ウェディングドレス二十五万円分、タキシード、十万円分」
「全部で百万円相当だよ。当たった」
ハガキにはトイレットペーパみたいなドレスの新婦と髪型の気に入らない新郎が腕を組んで描かれている。ちょっと顔小さすぎだ。真理愛は私の手元のあたりに視線をさまよわせて、「やばくない」と付け足した。
「やばい、かも」
ハガキの裏には宛名が印刷されている。某県某市、株式会社ブライダル プレゼントキャンペーン様。「行」の字がぐちぐちと消されている。すぐ下に真理愛の名前。
「どしたの、これ」
「帰ったら入ってた」
「そうじゃなくて。応募するの」
「うんだって、百万円だよ」
「百万円だけどさ」
お箸を置いて水を飲む。「あたし取ってくるよ」と言って立ち上がった真理愛に「私はいいから」と手を振ってハガキに視線を落とす。席に戻ってきた真理愛は、急かすようにコップを置いた。
「どう、ユキ」
「どうって」
つまらない冗談が浮かんだ。私と。代わりに、「なくない」と背もたれを確かめる。あっ。
「わかった。式場代が入ってないんだよ」
「何、ユキ」
「式場代。端にちっちゃく書いてるでしょ。しかもほら、披露宴に八十人以上呼ばなきゃいけないんだって。そんなに呼ぶ人いる、真理愛」
「違うよ、ユキ」
「違うって、何が」
顔を上げる。真理愛は、暑いのか、じっとりとメイクを滲ませていた。首を振る。「違うよ」。 丸くて小さい顔。自分でコンプレックスだと言っていたその小鼻のかたちを、私はじっくりと確かめる。視線を上げる。下げる。かたちの悪い髪の毛が二本だけ、その頭の上で揺れている。
「ユキはどうって、聞いてるの」
「どうって、だから」
私を見つめる真理愛は、こう言って正しいのか、それまで、彼女と付き合ってきた中で一番、可愛くなかった。
小鼻。汗が小さく玉になって浮いている。
前髪。ひっついて、野暮ったく曲がりくねっている。
失敗した失敗したと繰り返していたアイライナーの尻尾。よく見える。
今日下ろしたばかりのファンデーションは乗りが悪くって、ところどころ、地の肌が透けて見えた。ニキビの跡が点々と浮き上がって。
何? どうって。どうって、真理愛。
──私と。
口の中まで上がってきた言葉を必死で抑え込む。二十八本の歯々で細切れに、細切れに。
やよい軒は、どんな香りもしなかった。
「勿論、呼んでくれたら行くよ」
私の答えに真理愛は目を細めた。
くっきりと描いた眉が目許に寄って、くちゃっと潰れた。
「ごめんユキ、忘れて」
「お待たせいたしました」
顔を上げると、髪をさっぱり切り上げた店員さんが湯気立ち上るお盆を持ってニッコリしている。
「サバの味噌煮定食に、卵焼きですね。以上でご注文よろしいでしょうか」
その細まる目を見る。元々大きくはないのだろう。狐のように伸びる目尻には小さなほくろと、濃すぎないアイラインが伸びている。
「はい」
「ご飯とおだしは後ろのお代わり処をご利用ください。ごゆっくりどうぞ」
「どうも」
私はお箸を割って、小指のことを思う。一口目と決めているお漬物を机の上に落としてしまって、慌ててペーパーナプキンを一枚取る。無造作に織り込まれたうちの何枚かがひらと抜けて机に下りる。
昔、真理愛がよく言っていた。
やよい軒で一番美味しいのは卵焼き。
ちょっと苦いけどね。
ROYAL




