075.その黒に最も近い
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2022年7月7日の夜半は、その年としては初めて、暦通りの静けさと冷ややかさをもって過ぎゆこうとしていた。
ここには──どこでもいい──湿ったような芝生の上では、僕と秋川だけが何かを待っていた。すぐ目の前に座る彼女の寂しげな肩が夜風に震えた。僕はその肩の温度を思いだして、伸ばしかけた手を再び自分の膝の上に戻した。
「帰ろうか」
「ううん」
風もない。ずっと遠くの方から山なりに、新聞配達のバイクが鳴っている。日が出るまでにはまだまだ時間があった。どこか白んだような夜の濃紺は、僕たちを見ようもせずに、それでいて今のこの場の半分をジッと埋め尽くしていた。
漆黒の夜空などというが、この地球大気のもとで、そんなことはけしてありえない。
それは、今の僕にとってはなぜか耐えがたい現実のように思えた。例えばそう、慈悲もなく募った夜の闇が、夜の闇それ自身さえ流し去ってくれたなら、それはどれほどの救いだったろうか。
沈黙と共に垂れ込めた灰紺の帳を鬱陶しがるように、秋川は冬を思わせる澄んだ声で「あー、もう」と呟いた。
「星、全然見えない」
僕は秋川と同じく三角座りに顔を軽く埋めたまま「そうだね」、再三再度の返事を呟きかえした。それは、つい数時間前から十回もくり返された会話だった。すでに幾度も飲みこんだ言葉たちが僕の胃の中で軽く寝返りを打った。
「なあ、アキ」
僕の呼びかけにも、彼女は軽く身をよじるだけだった。昨日の期末テストから着たままのワイシャツが暗く濡れ細ったように夜の青に照らされていた。
「織姫と彦星ってさ」
「いい」
「……なに?」
「カイの話、つまんないから、いい」
「そうか……よ」
秋川にさえ伝わらないほど弱々しく言葉尻を強めて、僕は言い捨てた。
僕は腹が立ってきていた。
しかしそれは彼女に向けられたものでも、この気温に向けたものではない。うたた寝に興じる織姫と彦星に向けたものでもない。──ものではない。違う。自分に言い聞かせるのは、それがそうでないからでなくてなんだろう?
いい逃げ道を探して、「巡り合わせ」と草の揺れるのよりも小さく囁いた。
「何? カイ」
「なんでも」
この場の何も(そう言ったら、秋川は怒るだろうか)、ただそこにあるだけで責められるようなものではなかった。
雲も星も夜も、相変わらずそこにあるだけだった。
不機嫌そうに縮こまった秋川の肩。十七になってもまだ七夕を楽しみにしている彼女のことが、僕は好きだった。
膝を抱く腕に力がこもる。
彼女はどう思って──考えかけて、やめた。
七夕だった。
織姫と彦星。
夜の薄闇に穿たれた二つの星にさえ情愛を持ちこんだ僕たちの先祖は、果たしてそれを自覚していただろうか。
真の静けさに満ちた宙の黒は、情愛の熱などものの一瞬で取りさってしまうはずだった。
「アキ」
「……なに」
「もう少し」
「ん」
その黒に最も近い地球の夜は、しかしこうして僕の熱を伝えてしまう。
それが僕には、無性に。
薄くなり始めた東の空に、僕は目を細めた。
BLACK




