072.毒を吐く
Wordle 292 6/6
⬛⬛⬛⬛⚪
⬛⬛⬜⬜⬛
⬛⚪⬛⬛⬛
⬛⚪⚪⚪⚪
⬛⬜⬛⬛⬛
⚪⚪⚪⚪⚪
「ええっと……これ、どうだったかなあ」
「…………」
お気に入りの寝間着。湯気を立てるマグカップ。キーボードを打つ手。コトコトと小気味良い打鍵音に混じる声。
「あっ、そっかあ! ……ふんふん」
「……ねえ」
手を止める。画面上で走りまわっていたカーソルはピタリとその場で次の指示を待つ。点滅するそれがまばたきとなって私に向けられる。どうしたの? 明日の資料、まだ作り終わってないよ。
うん……わかってる。
「生産者余剰が……あーっ、どっちだったっけなあ」
「あのさ」
「はい、はい。何?」
「それ、わざと?」
「ええと、何?」
私自身、『何で怒ってるかわかる?』なんて聞くガラじゃない。
ないけど、これには参る。
その何が悪いのか全く理解していない声を上から押さえつけるように──もう何回目だと思ってるのよ──「独り言よ、あんた、気付いてないの?」と語気を強めて言う。
通話口の向こうは一瞬だけ間を置いて。
「あっ、うそ。また出ちゃってた? ごめんごめん」
悪びれもせず言うのだ。
何──何? じゃあ作業中に通話するなって? いいこと。私は静かに作業したいだけなの。あなた、図書館で静かにしてる人を注意する派? 「静かに読みたいならよそにいけばいいじゃないですか」ふざけないでよ。
……何? じゃあ別の人と通話──って、ああ、はいはい。私だってそうしたいわよ。それでも仕方ないでしょ、こいつ一応私の彼氏なんだから。
通話にちょっと出ないだけで「ミヨちゃん、俺のこと嫌いになった?」。「ミヨちゃんのジャマしないからさあ、俺」。ああ、嫌い、嫌い。ジャマジャマ。その独り言さえ直してくれたら、私がどれだけ彼を愛しているか!
それなのに──だから、その独り言というのがくせ者なのだ。
「セテリス・パブリスは……なんだっけなあ」
知らない。
「利、潤、最、大、化、のためにはー、どこをいじれば……あっちゃ、しまった」
知らない。
「ここが10+40+60……で、答えが……あれえ、計算合わないなあ」
知ら、ない。
ねえ、恋人の話を聞いてあげない私が悪いって思った? もしかして。
じゃああなたは仕事しながら全く一切興味の無い重力波理論、ユスリカの生殖機能、島崎藤村の晩年の作品傾向に、国民共産党の代表演説でも聴かせてもらえばいいじゃない。
私はそんなのごめんだから。
ほんっとに……何考えてるの。
昨日の夜の通話を思いだして、またイライラしてきてしまった。ノートパソコンを叩く指につい力がこもってしまう。すぐ隣のデスクで仕事をしていた後輩の山村くんと目が合う。
山村くんはその立派な眉毛を眠そうにもたげて、ぷっくりと鼻の頭を膨らませる。それが溜息だと気付いた私は、愛想笑いでモニタに向き直ろうとした姿勢のまま固まる。一拍遅れて、紛れもなく彼の声が嘆息を告げた。
「あの、先輩」
「……うん、何か用かな」
声がうわずった。山村くんはそれにすらも不審げな視線をやる。
「お疲れですか。さっきから、かなり出てますよ」
「ええと……ごめん、何が?」
もしかしたら、だけど。
もしかしたら、この瞬間、私は彼の気持ちが手に取るようにわかったのかもしれない。一拍、二拍、気を見計らったような動悸が耳の奥に響いた。
「独り言ですよ」
ああ、私は。
悪びれもせずに謝るのだろうか。
FORAY




