007.君と寝た夏
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思い出の中の夏ほど素晴らしい季節はない。
それは春よりも長閑で。
それは夏よりも涼しげで。
それは秋よりも静謐としている。
冬よりも暖かく私たちを迎えいれてくれるそれを、私はいつも求めている。
◇
青島夏来が通学路の交差点の真ん中でのび太君みたいに寝転がっていた。
「……なにしてるの?」
私は早朝ランニングの最中だった。まだ夜も明けきらない薄青の中、すわホームルームで注意された不審者か(うちの高校の周りは露出狂がよく出るのだ)、そうでなくとも捨てられたゴミかと思ったのだが、よく見るとそれはうちの学校の制服だった。
車の往来はなかった──というか、あったらこんなことしてられないだろう。高校と最寄り駅の途中のここは、昼間にはそれなりの往来がある交差点だけれど、今は一匹の烏がゴミ捨て場のあたりでクアと鳴いているだけだった。
「…………。おはよう」
「おはよう。……いやいや、おはようじゃなくて。青島さんだよね?」
「うん。いかにもその通りだ。クラスメイトの早川こころさん」
青島さんは聞き慣れない独特の口調で(というか、もしかすると喋っているのを初めて聞いたかもしれない)応じると、交差点の中心で上半身を起こした。私はまず、自分の名前を覚えられていたことに驚きつつも、ランニングで乱れた息を軽く整えながら繰り返す。
「こんな朝早くからなにしてるの?」
「見ての通り。寝ていた」
「いや……それはうん見ての通りなんだけど。そうじゃなくて。こんなところで眠るなんて危ないよ」
「眠っていたなどとは言っていない。寝ていたと言っているのだ。横になっていた」
「それはどっちでもいいけど……」
「全然違うよ」
こんな調子で、とにかく危ないよ、お布団で寝なよと何度促しても、彼女が「わかった。そうしよう」などと腰を上げることはなかった。
「ええと……うーん、と…………それじゃ……私は、塾の予習があるから。……気を付けてね」
「わかった。また会おう。早川こころさん」
◆
また会おうの言葉通り、次の日も青島さんは件の交差点の真ん中で寝そべっていた。今日は腕時計を着けてきたから──五時半の朝焼けにブレザーの昼寝少女。
「おはよう。早川こころさん」
「……おはよう。ええと」
「寝ている。ところで昨日聞きそびれたが、君は何をしているのかな?」
高校の名前がついたウィンドブレーカーに蛍光色のランニングシューズを身につけた私に、のび太君姿勢のまま彼女は尋ねる。
「ほら、私は陸上部だったから、その名残で、朝のランニング? みたいな」
「そうだったか。大義であるな」
「うん…………タイギね」
恥ずかしながら大義の意味がわからなかった私は話を逸らす。
「青島さんはなんでこんなところで寝てるの? 毎日こう?」
「夏の空気とアスファルトが好きなのだよ。由あって最近ちょっとね」
「アスファルト、が、好き? どういうこと?」
私は思ったままの言葉をそのまま彼女に向けた。
「そのままの意味だ。青島夏来はアスファルトが好きなのだ」
青島夏来……!!
青島さんって、自分のことそう呼ぶんだ。
「早川こころさんも、良かったらどうかな」
「どうかなって?」
「一緒に寝てみないかということだ。無論ね」
青島さんはあまりあり余る交差点の余白を指し示すと(というか、適当に手を広げているだけだ)、ほうっと息を吐いた。ブレザーが呼吸と一緒に上下する。
「寝るって、道路だよ?」
「なんだ。そうだよ。知らなかったのか?」
「ここが道路か否かということなら勿論知ってるんだけど……」
驚きに開かれた目には悪いけれど、私は流石にそんなマネをするつもりはなかったので右手でその表面を触るだけに留める。勿論、特に変わったところのない、普通のアスファルトだった。グラウンドからやってきたのか、白っぽい砂粒がザラリと指先を転がっていった。
「それじゃ意味がない。ダイビングしようっていうときに指先だけで済ませるヤツがいるか?」
「初心者講習もなくダイビングする人もいないと思うんだけど……」
「…………それもそうか。わかった」
青島さんはスカートが翻るのも気にせず(道路に寝ているくらいだから、最早そんなことは本当に気にしていないんだろう)足を組み直すと、「では、青島夏来の姿を見て学ぶといい。また明日だね」
一言二言──いやさ言うべきことはもっとあっただろうけれど、彼女の促す通り、つけてきた腕時計が六時半を告げていたので私は帰路を走りだす。遠ざかっていく彼女の姿が朝の薄霧に隠れて消えた。
◆
「なんだって?」
「だから、青島さんがアスファルトの良さを説明してよ」
「なんだそれは。そんなこと、寝てみればわかることじゃないか」
「説明してくれなきゃわかんないよ。……なんか、軽犯罪っぽいし」
「早川こころさん。生まれる前の赤子に生の楽しみを説くのと同じだね、それは」
同じなのか? 青島さんはこれまでよりずっと自信ありげに私を見下ろす。……いや、今まで通り寝ているだけで、寝ているから見下ろすような視線になっているだけなんだけど。
「まあ早川こころさんの言い分もわかるよ。青島夏来がいるから気恥ずかしいのだろう。いいよ、わかった。明日は来るのをちょっと遅らせようじゃないか。青島夏来が来る前に早川こころさんは存分にアスファルトを堪能してくれていて構わない」
「お気遣いはありがたいけど……」
そこまで良いものなんだろうか? アスファルト。
私は夏なのに、サンタクロースを待つ子供のような気持ちにとらわれていた。いないことはわかっているのに。
◆
「おはよう。早川こころさん」
「…………おはよう」
断じて。
断じて交差点に寝転がりたかったからではないけれど。
五時過ぎに着いた交差点には、もうすでに青島さんがのび太君ポーズで陣取っていた。
「早いんだね。青島さん」
「青島夏来は変わらないさ。早いとすれば君が来るのが早いだけだね」
「遅らせるって言ったのに!」
「ちょっとね」
「それじゃ意味ないでしょ!」
「わかったよ。それじゃあ帰るのを早めよう」
青島さんは突然立ち上がると、にやりと笑う。
「早川こころさんは青島夏来が帰った後のアスファルトを堪能するといい。青島夏来はこれで帰るから」
「え、ちょっと」
引き留める私の声を無視して青島さんはスタスタと歩いていってしまう。……急になんだ? なんでだ?
混乱する頭をふりふり、私は地面に手を触れ──勿論、寝転がるためではないけどね──「えい」──そのまま体をアスファルトの上に預けた。
おっ。
おおお、おおお。
体を横たえると、そうしてすぐには気付けないアスファルトの返事が少しずつ私の中に流れこんでくるような感じがした。
大の字に体を広げると、夏の朝の空が視界いっぱいに広がった。夜の青が段々と白み始めて、透明なブルーが空を覆いつくしていく。
「あは、はっ」
アスファルトの返事は多様だった。普段その上を歩いているだけのときとは全く違う特別なもの。──それを知っているのは青島さんと私だけなんじゃないかと、私はガラにもなく本気でそう思ってしまった。
アスファルトは長閑だった。それはじわりとした首筋の汗を受け止めて柔らかく輝いた。
アスファルトは涼しげだった。それは耳元を吹いていく風と一緒になって私を抱きしめた。
アスファルトは静謐だった。それは遠く遠くの地鳴りを集めて、集めて、低く優しげな唸り声に変えた。
アスファルトは、私を暖かく迎え入れてくれた。
「……なにしてるんですか、早川こころさん」
びくりと目を開くと、青島さんが歪んだ笑顔のまま私を見下ろしている。さっきの顔をそのまま貼り付けているんじゃないだろうか、本当に。
ぶわりと一気に熱くなった顔を誤魔化すために私は呟く。
「…………。おはよう」
THOSE