058.聞こえてるんでしょ?漆川センシュ、今日こそ逃がしませんよ。……ちょっと、まだとぼけるつもりですか?あなたがテレパスだって証拠はたんまりあるんですよ!私のいる方を見てみなさい!漆川さああん!!
Wordle 278 5/6
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誰かの胸の内、知りたいと思ったことがある人は大勢いるだろう。
私に言わせれば、そんな考え捨てることをおすすめする。
──11秒96。
蛍光色のスポーツタイマーはそう告げた。
悪くない。
火照りきった体を吸った空気が巡り冷やしていく。肺のかたちがありありとわかる。染みだした冷気が胸から手から足から全身へ回る。体の熱が肌から抜けていくのにつれて、急に五月の風が寒々しく感じて、トラックの脇に置いてあったウィンドブレーカーを羽織る。
《漆川センシュ、そりゃいけませんよ》
……トラックには選手以外降りてきちゃだめなはずなんだけど。
声のした方を見ると、企み顔で私のことをためつすがめつする相葉がてこてこと歩いてきていた。
《むむっ、気配を消した私に振り向いた。やっぱりあなた、私の心が読めるんですね。そうは問屋が卸しませんよ。秘技! 寿限無寿限無五劫のすりきれいやあそれにしても海砂利水魚の水行末おめでとうございます雲来末体をしっかり汗を拭かないと風来末食とはいえ、う寝るところに住むところやぶら小路のかなりのハイスコアじゃないですかぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガンシューリ風邪でもひいたら大変ですンガンのクーリンダイクーリタオルお持ちしましたよンダイのポンポコナーの今日まで練習してきた甲斐がありましたなポンポコピーの長久命の長助!》
《ふんっ! どうです》
…………。
「……相葉、汗拭きたいんだけど、タオルとか持ってる?」
「…………はい」
私が手を出すのにタオルをかけて、彼女は自慢げに胸を張る。それを持ってきたってことにだけじゃなくて、まず間違いなく別のことでも成し遂げたりって顔。
「ありがと」
《どういたしまして!》
「…………いえ」
相葉は私のクラスメイトで、一言で表せば変人ってとこになる。
そんな変人に目を付けられたのが、私の高校生活の終わりの始まり……っていうか、なんていうか。まあ、それほど終わったってわけでもない。
ただ、うるさいってだけ。かなりね。
部活だけじゃないのよ(ていうか相葉は部員じゃない)。同じクラスだから。授業中だってこれがずーっと続くの。ほんと、口じゃ全然話さないのにね。
《さあ、今日こそお腹減ってきた正体を現しなさい。漆川雛。もうばっちりかっちりのあたりはついているんですよ。思えば去年、あの四月の『宣戦布告』から始まって、『孤独の応個室戦』トイレ、『予知の……ええと、『そう!カッサンドラの悲劇』! も、その助けてくれた他全部全部が、あなたがテレパスであることを証明しているのです! すごいじゃん! ほんとならどんな感じなのかな。さあ、こっち見ろ! ほら! ヤマ先今日チャック開いてるぞ! 見てみろ!》
その賑やかしには今度こそ反応しないと心に決めて、私は板書を取る。相葉の声でまともに聞こえない分、ノートくらいはきちんと取っておかないと後が大変なんだ。
ええと、《桶狭間の戦い! こりゃかの織田信長最大の功績との声もある超超印象深い合戦! そりゃ日本史で扱わないわけにはいきませんわなあ。はいはいはいはい……え、そうなの!? わー、今まで勘違いしてたんじゃん! 井伊直盛って、今川軍だったんだ。へーえー、あ、井伊直盛っていうのは直弼の先祖で、桜木門外の変の。あれ、桜……? 桜田か。それで、直盛ったら元々遠江の人だったんだけど、あーっちょっとまってヤマ先まだ黒板消さないでー!》
…………。
あとでお前にノート借りるぞ。こら。
悲しいことに耳も塞げないのでもう授業は全部諦めて、私はちらと空を眺める。雲一つない五月晴れで、窓ガラスを通してもなお、その先にずっと走って行けるように真っ新に透明。
五月の測定会が終わって、残すは夏の総体だけになった。
ほとんど陸上漬けだった私の高校生活だ。辛かったかって聞かれたら、そりゃ辛かったけど、じゃあ止めるかっていえば……そういうことじゃないんだよね。
引退したら、どうしよっかな。
部活は当然ないにしても、すぐに受験だ。半年もしたら卒業ってことになる。
あのうるさい声と分かれるのは少し《おおっ、やっとこっち見ましたね! さあ…………んーでも特に何か呼びかけたわけじゃないもんな、私。ううむ……漆川センシュ、一回向こう向いて! それで私が呼びかけたときに、心の中で、呼びかけたときにもう一回こっち見てくれればいいから! 今は見なくていいから! …………心の声が弱いのかな? おーい!!! 漆川さーーーーん!!!! 一回向こう向いてーーー!!!! ……違う? じゃあ一体どうすれば……ってヤバ板書!》
──早く卒業したい。
そういえば、そんな話を実際にしたことがあった。六月に入って雨続きで、陸上部の練習もほとんどなくなっちゃったときだ。私はそれでも練習するって校庭に出て、(だって、総体の予選までもう三日もなかったんだよ)トラックの脇で傘を差した相葉がちょっとだけ寒そうに震えていたのを覚えている。
《大学とか、国公立は大変だなー、私。私立もお金厳しそうだし……》
「漆川さんは大学とか、もう決めてるの?」
……あは、ちょっと笑えるでしょ。授業中はあんなにうるさいのに二人っきりのときは借りてきた猫みたいに黙ーっちゃうの。可愛いとこもあんのよね。……たまに。
「うーん、そうだね。まだ決めてない」
もうほんと、言うまでもないことだけど、ていうかあるあるっていうか、どんな大学でも周りの受験生からの声が聞こえるから、実は私受験自体は苦じゃなかったんだ。……ま、受験会場に相葉みたいなやつがいなければの話だけどね。
だから私が決めてなかったのは、陸上部を止めて、次に何をするか。
一体どうすればこのうるさい(相葉だけじゃなくってね、これはホントに)世界から逃げ出せるか。
そういうことだった。
心を読んだこと、ある? ないよね。私もまだそんな人に会ったことないもん。だから誰にも共感してもらえない。心を読むのって──すっごく、うるさいんだ。頭に耳があればいいのにって(あるんだけどね? 心の耳ってこと)何度考えたかわからない。相葉がいてもいなくても、授業中も、電車の中も、家も、外も、どんな誰と話すときも、わんわんわんわん混じり合って、でもたまにいやに鮮明に、心の声は響く。
少し休もうかな。そんなことを思っても、この現代に人のいない場所なんてほとんどない。休日に山にハイキング、なんてのんびりしたことを考える平日の五日間は、ずっと声に晒され続ける。
唯一そこから救い出してくれたのが陸上だった。
走っている間だけ、(それも私がぶっちぎりの独走の時)私は私だけになれる。
独りになれる。
だから私は陸上を始めたし、これまで続けてきた。
そんな不純な動機でも、ここまで続ければ情も湧くし、走るからには記録だって残したい。他の部員とはちょっと折り合いが悪いときもあるけれど、独りになるための部活だ、私はそれでもいいと思っていた。
「だけど部活が終わったら、もうすぐに卒業しちゃいたいかな。後のことは、わかんないけどさ」
私は雨のトラックを走りだした。
それで、風邪を引いた。
相葉がね。
総体の予選会の前日に寝込んだ彼女をお見舞いに行った。
《あーんもう、なんでこんな風邪なんてひいちまったんでしょう。私のバカバカ! だってそれは、漆川センシュがあんな雨の中三時間も走り通すからでしょ? ねえ、そうだよね? 私悪くないよね!》
「……わざわざすみません」
「うん。私が無理に練習付きあわせちゃったから。ごめんね」
私が何も言えないのをいいことに、聞こえている(見こみの)心の声で相葉は私を非難した。私も、今回ばかりはその通りだと返す。
「相葉が付きあってくれた分までさ。明日頑張るから。ゆっくり寝てなよね」
《ううーっ………… 春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎわ、すこしあかりて、紫っだち、たる雲のほそくたなびきたる。…………えーと夏は夜。月のころはさらなり。やみもなお、蛍の多く飛びちちちがいたる。がいたる。また、一匹が……一つ? ん。夏の、雨。雨だ。雨など降るもおかし》
「……応援してます」
……。
なんでここで枕草子?
首をひねりそうになったけれど、そう聞くわけにもいかない。
《秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行く──とて、三つ四つ、五つ六つなど、飛びいそぐのもあわれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとおかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいうべきにあらず。冬は……》
わかったよ。帰るよ。
「じゃあまたね」
《……心配です》
「…………はい」
◇
六月二十六日の日曜日。
私の最後の夏が始まる日。
ちょっと雲はかかるけれど、それでも少し涼しくて、走るのには良い季候だった。
他の陸上部員たちと同じバスに揺られながら競技場まで向かう。乗客のほとんどが予選会に向かうようで、バスはほとんど貸し切り状態だった。久しぶりに会うような他校の生徒たちどうしで会話が盛り上がっている。
《──────》
「漆川さん、いつもの子今日いないんだね」
……あっ?
「うん。そう。風邪引いちゃったらしくて」
ちょっとだけ遅れて返事をする。
何、何だ?
今、声が聞こえなかった。
思えば、これだけ人がいるのに、口からの声しかほとんど聞こえてこない。
なんで──。
ツ。
耳を澄ますと、砂嵐のような耳鳴りのずっと奥に、細切れではあるが声が聞こえている気がした。バスのエンジン音に混じって、大きくなったり、はたまた揺れて結んで、ひどく不安定に感じる。
相葉の声にあわせていたからかとすぐに思い当たるけれど、どうもそれだけではない不明瞭な澱が心の底に溜まっていく。
なんだ?
これ。
濁った空気はバスを降りてもついて回った。確かな声は聞こえないのに、何かを言われている。何かが告げられている。
喉の奥に引っかかった小骨を気にするようにウェアに着替える。シューズに履き替える。準備運動を終える。チームメイトから自分の出走順を聞いておく。
濃霧のような不快感を避けて、私はトラックの奥に設えられた芝生の方へとジョグをする。基本的に、出走時間までにトラックに戻っていれば、予選会中はどこにいても自由だ。
段々と頭の霧が晴れてきて、私は立ち止まって大きく深呼吸をする。
トラックの方で乾いたスターターの音が鳴る。
走順、一から十五まで。
規則的にスターターが鳴る。
聞いている。
澄ます耳にふと影が差す。《──────》
人が来たのだ。競技場の外。聞こえてくる声には聞き覚えがあった。さっき出走順を教えてくれた子だ。
心に降りる黒。
耳を澄ます。
《──ね────》
《──ねえ》
《ねえ、見た? あいつほんとバカ。かっこつけすぎなのよ》
《それね。ミヤが言ったのそのまま鵜呑みにしてんの。笑いそうになっちゃった》
《ま、別になんでもどうでもいいですーって顔してるからいいんじゃない。あれくらいで》
《あとで、私の出走順は? とか言って運営に聞いてたらおもろいよね。終わってるっての!》
ああ。
私は走りだす。
トラックに向かって走りだす。
声は聞こえなくなる。一瞬だけ。
一度聞いたその声は、グルグルと私の中で回り続けていた。
思いだした。この影を。この声を。
人の声。
友達の声。
友達、達、達、達々の、暗くて陰険な、ねばっこい声。
これから逃げるために、私は陸上を始めたんだ。
にじみ出す涙ごと噛み締めるように歯を食いしばる。これから走るというのに、もう腕を全力で振っていた。走れるだろうか。私の出走順はいつなんだろうか。自分で確認するべきだった。でも、だって、なんであんなこと。
ああ、嫌でも思いだしてしまう。
心が読めたって何の意味もないということ。
私たちが決定的に違うということを突きつけられるだけ。
嫌だ。
走る。
逃げる。
どこへ?
トラックが視界の中で大きくなる。
声のトラック。
そこへ私は行こうというのだ。
行きたくない。
逃げ出したい。
今でも逃げている。
のに。
「はッ、はッ、はッ。漆川、です」
《なんだ、この子は。時間くらい守ったらどうかな》
「もう出走ですよ。すぐにスタートラインについてください」
出走には、間に合った。
他の選手はもうスターティングブロックを調整しおえて、最後の柔軟に入っていた。私は彼女たちの声すら聞こえないほど息を荒げて自分のレーンにつく。かち、カタン。スターティングブロックを調整する。これでいいだろうか。うん。練習通り。練習通りだ。
こんなので、練習通りに走れるわけない。
出走が近づく。
息が落ちつくにつれて、《────》声は近づく。
逃げ切れない。咄嗟に耳を塞ぐ。《……何? 何してんのこいつ》
いやだ。
オンユアマーク。
やだ。
なんでこんな──
「漆川ッ! 雛あああーーーー!!!!」
聞こえた。
心の声じゃない。
「がんばれええええええーーーー!!!!」
喉もガラガラで、慣れてない大声に引きつったその声は、でも私の世界をあっという間に静寂にしてくれる。
うるさいうるさい。
ほんとにうるさい静寂に。
スターターが鳴る。
私たちは走りだす。
CHEST




