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WordraW  作者:
5/77

005.染みわたれ、一雫

Wordle 225 4/6


⬜⬛⬛⬜⬛

⬛⬜⬛⚪⬛

⬜⚪⚪⚪⬛

⚪⚪⚪⚪⚪




 僕の一番古い記憶は、母さんの手だ。

 地下へと続く大きな大きな道を、母さんに手を引かれて降りてゆく。僕たちと同じように真っ黒な雨具を纏った人たちが列をなす。雨暗に沈んだ顔。顔。顔。

 振りむくと、入り口から外が見えた。鈍色の空。生まれたときから、ずっと変わらない。

 

「ユタ。ちゃんと前見なさい」


 言われて前に向き直る。雨具の黒の中、萎れた母さんの手がいやに青白く浮かぶ。雨に湿った手の平だけが僕と母さんを繋いでいた。手持ち無沙汰の僕は、母さんの手をなぞりながらずっと、雨のことを考えていた。

 パ。チャ。

 僕の指が触れたその瞬間、太陽が設えられた母さんの指輪は湿った音を立ててこぼれ落ちた。

 

 ◇

 

 ごうごうと僕たちの頭の上を川のうねりが通り抜けていく。ツカサが言うには『地下坑道のような』河川路を抜けて、僕と彼とは外を目指して歩いていた。すれ違う人はいない。もうほとんど打ちすてられた河川路だった。電気も通っておらず、僕たちが手にしている明かり以外、この河川路は川の音のみに閉ざされていた。

 時計をちらと見て、僕はリュックを背負いなおした。そろそろ朽雨(くちさめ)が振りはじめる。

 小さい体で僕を追いかけるツカサは、ゴーグルを外すと切らした息で苦言を呈した。

 

「ユタ、ホントにやるのかよ」

「ああ。嫌なら先に帰っててくれ」

「……なあ、そんなこと言うなよ。別に俺は雨に降られるのが嫌だから言ってるんじゃないんだぜ。ゴーグルは?」

「勿論持ってる。ツカサは?」


 ツカサはいつものあきれ顔で、防雨ゴーグルを着けなおした。さらにその上から二重、三重に布合羽を巻いて体全体を覆うと、残りを僕に渡す。

 

「いいよ。僕は自分のがある」

「お前が軽装だから代わりに持ってきたんだぜ。着けとけよ。意地張るところじゃねえだろ。ほれ」


 …………。

 ツカサは丸めた布合羽を放る。

 お、とと。

 受け止めようと出した右手を嫌うように、布合羽はそのまま地面に落ちた。

 

「わ、悪い!」


 ツカサは慌てて走ってきてそれを拾い上げると、今度は僕の左手にしっかりと押しつける。巻くの手伝ってやろうか、という申し出に僕は首を振る。気まずそうにそっぽを向いてしまった彼の背中に「別に気にするなよ」と声をかけた。

 絞魃(こうばつ)の起きた僕の右手は、人差し指から小指まで、それぞれが勝手な方向を向いている。左手で作る拳と比べてみれば一目瞭然だ。右手で作る拳はフナムシのように横長で平べったい。あまり力を入れて握りすぎると皮膚にも骨にも無理な力がかかって良くないらしく、この右手はスカスカの板同然だった。

 懐中電灯と荷物を置く。左手だけで器用に(と最初に見た人は必ず言う。それから僕の右手を見て顔を伏せる)布合羽を巻いて、留め具を確かめる。これで朽雨の中でも二十秒くらいなら好きに動ける。あとは折りたたみの朽雨傘がどれくらいもってくれるか。

 河川路をさらに五分ほど進むと出口が見えてきた。今まで僕たちのすぐ上を流れていた川が小さい滝のようにに流れおちて出口を塞いでいる。

 

「やっと着いたな」

「急ごう、もう朽雨が降りだすかもしれない」

「へいへい」


 小さな滝のすぐ傍に腰を下ろすと、ツカサは我関せずとばかりに河川路の壁にもたれかかって鼻歌なんか歌いはじめる。この前の実験のときに叱りつけたのを根に持っているんだろう。ふん、僕一人だって問題ないさ。試料をおじゃんにされるより幾分マシだね。

 リュックサックからお年玉をはたいた何種類かの試料片を取りだす。ケヤキとブナの間伐材に、対雨ガラス、布合羽の素材であるタフタとポリルの合成繊維。最後に金紙片だ。

 まずケヤキの木片を手に空の様子を伺う。出口の滝にはすぐ横に細い迂回路があって、気を付ければ濡れることなく外に顔を出すことができる。いつもと変わらない鈍色の空が重く重く沈黙を返した。川は滝の後もまだ続いていて、脇にはうっそうとした山林が茂る。前に来たときよりも木の数が減っている気がしたが、どうやら木がぐねぐねと曲がり落ちているからそう錯覚したようだった。見たことのない山々が、倒れた木々の合間から顔をのぞかせる。

 湿った風が耳元を通り抜けて、河川路の中でうなり声が生まれる。ゆおおお。ゆおおお。ツカサはちらりと僕の方に視線を向けてから寒さに震えるように自分の体を抱きこんだ。確かに冷える。四六時中空を覆っている雲が原因なのは明らかだった。おかげで僕たちは危険を冒して火山のすぐ傍に住むほかない。

 

『朽雨が予想されます。住民は直ちに河川路に非難してください。朽雨が予想されます。住民は直ちに河川路に非難してください。屋外にいる住民は、朽雨宿りのできる場所を探し、非難してください。』


 川縁の壁に身をもたれて空を見ていると、河川路に通っている伝声管から、朽雨予報が流れてきた。明かりのための電気は通っていなかったのに。どうやら伝声管は別回路で給電されているらしい。朽雨が降る前にここまで来たのはそういえば初めてだった。

 

「来るぜ、ユタ」

「わかってる」


 僕は壁からそっと身を離して朽雨を待った。そうしている内に、川の流れる音とは違う、細かなさああという音が木々の向こうから走りよってくる。全てに染みわたる、崩壊の雨。

 体に深く息を吸いこみ終えるのと、雨足があたりを踏みならし始めたのが同時だった。籠もったような音が体中を包みこむ。こんな土砂降りになるなんて。今日は外まで出るのはやめておこう。僕は手にした木片を鉄製のトングで挟んで朽雨の下へ差しだす。淡い黄色をしていたそれは一瞬の間に焦げ茶色に変わって、トングで持っていられないほどに重量を増していく。僕は慌ててすぐそばの地面にびしょ濡れになった木材を放った。早く次を。もう一つの木材も雨に浸し終えて、次は対雨ガラスだ。この段になるとトングもかなり重みを増してきて、最初のように手を伸ばして朽雨の下に晒すのが難しくなってくる。左腕の布合羽を確かめてからトングを持ち直して、ガラスを雨にかざす。最初はパチパチと朽雨を弾いていたガラスだったが、いざこちらへ戻そうとすると、まるで元々そうであったかのようにドロリとかたちを変えてトングの先からこぼれ落ちた。高かったけどしかたない。布合羽はこれまでどおり、十秒もしないうちにしなしなと形を保っていられなくなる。ガラスみたいに朽ち落ちないだけいいけど、これじゃ体を守るには全く不十分だ。最後の金紙片はトングで掴むには薄すぎたので(それに、トングもかなりの朽雨を吸っていて、もう片手で扱うのは無理だった)、紙片は一度地面に置いて、持ってきた升で朽雨をかけてやることにした。

 

「おい、それじゃお前手が晒されるぞ」

「わかってるよ。すぐ終える」

 

 いつから見ていたのか、ツカサの心配をよそに僕は五秒だけ朽雨の元に左手を差しだす。一、二、三、四、五。すぐに汲んだ朽雨を金に振りかけて、布合羽を腕の部分だけ切り離した。じわりと染みこんできた朽雨の感覚があったが絞魃が起きるほどではない。切り離した布合羽はどうせ使いものにならないので川に放る。

 

「あーあ、しらねえ」


 嘆息するツカサは腰に手を当てていつの間にか僕のすぐ横にまでやってきている。

 

「お前左手までおじゃんにするつもりかよ」

「これくらいなら大丈夫だよ。浸食は一平方あたり一リットルくらいなら絞魃の影響はあまりないんだ。これならコンマ一ミリリットルもないだろうから」

「朽雨に詳しいのは結構だけどよお」


 僕と彼は一緒になって金紙片を見つめる。

 

「何回も言ってるけど、一般人の朽雨所持は違法なんだぜ。テロとか、そういうのに使われたら困るってんで」

「一個人に所持なんてできないよ。国でさえ持て余してるんだから。あんな新降雨法の怠慢法令なんて気にする必要ない。見てたでしょ? ビーカーに入れて実験なんてしようにも、そのビーカー毎溶け落ちちゃうんだから」

「口の減らねえヤツ」


 言っていると、乾き始めたのだろう、金紙片は蝶のようにひらひらとうねり出す。ただの金属がまるで生きているみたいだ。しばらくそうして蠢いてから、紙片はパキリと割れた。朽雨にかき消されて音はしなかった。

 僕は金紙片をそのままにして(まだ触らない方が良い)、今度は最初に晒した木片の観察に移る。やはり体積があるだけに絞魃はまだ始まっていなかった。しかし次第に水分がとび始めると、さっき目にした木々のように、あちらで縮み、こちらで伸びとぐねぐね曲がりだす。最後には元の形を想像できない程に折れ曲がり、乾ききった木片だけが残る。


「……なあ」


 指先で木片をつつく僕に、ツカサが改まって声をかけた。

 

「お前、なんでこんなに朽雨にこだわるわけ?」

「言ったでしょ。太陽が見たいからだよ。一回くらいさ」

「それなら前も聞いたけどよ、ほんとにそれだけ?」

「本当にそれだけ」


 ツカサは煮えきらないように首を傾げるけれど、それはきっと太陽を軽んじているからではなかった。

 彼も僕と同じくらい太陽に憧れているから、その願いがどれほど無謀かを心からわかっているから、僕の気持ちがわからないんだ。僕自身でさえ、たまにわからなくなるときがある。おとぎ話でしか知らない太陽に、あの分厚い鈍色の空の向こうの太陽に、本当にたどり着けるのか。けれど、わからないならわからないなりに、できることはある。朽雨を知り、絞魃を乗り越え、僕らはきっといつか太陽に到達するだろう。

 その光はきっと、何よりも心を満たしてくれる。

 

 ◇

 

 降りだした朽雨は容赦なく機体に降りそそいだ。

 けれどもう引き返すことはできなかった。これほど長い間朽雨が降らないことは当分ないだろう。用意した対雨素材もこれきりだった。

 機体はグングンと高度を上げ、僕は今まで見たこともない周りの山々のさらに向こう、朽雨に晒されて崩壊した都市を眺めた。

 不協和音を鳴らし始めたプロペラを取りかえてさらに機体は高度を上げる。太陽を拝むためにはどうしてもこの雲を突っ切る必要がある。ぶるうんとうなりを上げるエンジンは、そろそろ絞魃を始めそうだった。

 運転席に取りつけた改良型の対雨ガラスもそろそろ限界だ。朽雨が表面にまとわりついて、染みこんで、すぐに乾く。ガラスの非晶相構造が解けはじめ、ついには液体になってさらに内側のガラスを溶かしはじめる。絞魃の一種だ。構造密度をどれだけ上げてもついには解決しなかった。

 そうこうしている間に機体は雲の中に入る。中は朽雨が嵐のように渦巻いていて、上から下から絞魃の雫が押しよせる。機体は安定性を失い、がたがたと震えはじめる。部品どうしをつなぎ止めるリベットがイかれたかもしれない。

 それでも止まるわけにはいかない。

 機体は垂直に、ただそれだけを目指して昇っていく。

 ついには前面のガラスが解け、僕の顔に溢れんばかりの朽雨が吹きつけた。一平方とか何リットルとか言ってられる状況じゃなかった。乱暴に酸素マスクを着けて、その先を見据える。

 エンジンが悲鳴を上げた。

 翼がいつの間にかあらぬ方向へ曲がっている。

 朽雨に塗れた頬が鋭い痛みをうったえていたが、それもいつの間にか感じなくなっていた。

 ──操縦桿を握る右手がパキリと乾いた音を立てた。



 雲を抜けた。

 

 

 あれほど暗く沈んでいた雲は、銀色に光り輝いていた。

 見たこともない、青い空が見える。

 

 真っ白に僕を照らしだす──太陽が見える。

 

 あまり見つめすぎると絞魃が早まるだろう。けれど、柔らかで暖かなその日射しは目をそらすにはあまりに勿体なかった。

 

 じう。

 目の表面で朽雨が蒸発する。

 それは即ち、目が絞魃を始めるということだ。ガラスと同じように水晶体が解けはじめ、世界は溶けて、僕の内側へと流れこんでくる。

 

 視力を失ってもなお、太陽は僕に降りそそいでいた。

 

 その光の一雫一雫が僕に染みわたる。

 何より深く、染みわたる。




WRUNG

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