044.散りさしの君
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「どうぞ」
ガラス細工のような声が、今日も僕を迎え入れてくれる。
染井さんは窓際のベッドで体を起こし、朝日に向けて目を細めていた。わかるのだろう。それでも喜びの陽が。
「良い匂いですね。毎日ありがとうございます」
「……いえ」
ベッドのすぐ横に腰掛けて、朝食の乗った盆を置く。彼女の食べやすいよう人肌の野菜スープと、八等分にしたトースト、食後のために氷で冷やしたイチゴ。
「いただきます」
日差しのように白い肌。染井さんは控えめに口を開けた。僕の差しだすスプーンを待つ舌。ほんの少しの唾液に濡れて、桜色にしなった。
「……日向さん?」
「あ、すみません」
宝石のような目が僕を確かに捉えた。
ごくりと唾を飲んで深呼吸する。大丈夫。ばれやしないさ。ゆっくりとスプーンを口元へ運ぶ。
「ん……」
彼女は桜の舞うようなスピードで咀嚼する。
艶やかな口から顎から頬から、どれも大理石のように白を湛える。それなのに、本当は生きている。生物のように駆動し鼓動することさえ不自然に思えるほど、彼女はまるで彫像だった。
イタリアのサン・セヴェーロで見た彫刻を思いだす。
流れるシルクのヴェールで、染井さんは包まれている。
「ごちそうさまでした」
りん、と。
鈴のような声で、食事は終わる。
「では、またお昼頃、昼食を持ってきますね」
「ありがとうございます。日向さん」
「何か用事があったら呼んでください」
「ええ」
染井さんの瞳はゆらゆらと、僕のいる辺りをさまよって、さまよって、そうしてから、また日差しに向かう。
◇
『醜男なれば盲を娶れ』というのだそうで。
僕を揶揄するための作り話とはわかっていても。それでもその言葉が頭にこびりついて離れないのは、きっと僕が心のどこかで当てはまっていると感じているから。
染井さんの使ったスプーンを懇切丁寧に洗いながら、その泡をきれいさっぱり流し終えるまで見つめる。
──たしかにそうでもなければ、僕があの染井さんと一つ屋根の下で生活することなんてできやしなかっただろう。
高嶺の花だった彼女を思う。
風に吹かれ、根こそぎに。僕の足下まで落ちてきた彼女を思う。
──それをすくい上げて植え直してやるのは、僕のエゴだろうか?
この五年間数え切れないほどぐるぐると回った思考がまた転がる。転がって、終着点はない。転がり続ける。一人きりで。
元々友達の多い方じゃなかった。僕は勿論、彼女だって。
──だから、これでいいっていうのだろうか。僕に縋るしかない彼女をこうやって閉じこめていることが、果たして許されるだろうか。
むっとした台所の空気に、当然答えはない。
◇
「どうぞ」
彼女の声に導かれて部屋に入る。
春とはいえ、まだ夜は冷える。カーテンは閉めきられ、室内は暖色の明かりで満たされていた。電灯くらいでは明暗を感じとれないらしいけれど。
『いくら目が見えないからって、暗闇の中でただじっとしているだなんて考えられません』
勿論、僕はそれに従うだけ。
「ありがとうございます。ポトフですか」
「よくわかりますね」
「好物ですから」
「いただきます」
スプーンに載せたソーセージをやる。食べやすいように五分割して。
「ん……おいひいれす」
「良かったです」
産毛もないような滑らかな肌を見つめる。すぐに折れてしまいそうな四肢を見つめる。薄く浮いた胸骨を見つめる。
ゆっくりとスプーンを口元へと運ぶ。
転がる思考は、なぜか出て行ってくれなかった。
例えば僕は、彼女に触れたいだろうか?
止めよう。
その細く伸びる指先に僕の醜い指先を重ねたい?
止めろ。
仮に唇を重ねてみたいと──
「…………」
僕を呼ばない彼女の声にはっとして、またスプーンを口元へと運ぶ。
動悸の収まらない胸に手を当てて、彼女に気付かれないようにゆっくりと深呼吸する。水よりもずっと透明な彼女の香りが体を満たしていく。
────。
首を振るう。
スプーンをまた運ぶ。
「ごちそうさまでした。美味しかったです、日向さん」
「作った甲斐があります。それではまた明日。おやすみなさい」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
◇
彼女の体を拭ったタオルに、着替えた肌着。部屋から持ってきたそれらを洗濯機に入れていく。中には勿論下着もあるけれど、彼女だって了解しているだろう。できるだけ目をやらないようにする。
それらからさえまた香る。彼女の透明が。
…………。
チン。
二階からベルの音が鳴る。彼女が呼んでいるのだ。僕は洗濯カゴを床に置いて階段を駆け上がった。
「どうしました」
「ああ、日向さん」
寝るところだったのだろう。就寝灯だけの部屋はうす橙色に煙る。彼女はベッドの上で体を起こして手招きをした。
「飲み物でも」
「いえ」
それきり黙ってしまったので、僕は招かれるままベッドのすぐ脇までやってくる。僕の落とした陰がそっくりそのまま彼女にかかった。それでも彼女の肌は白っぽく明滅さえしそうだった。
「かけて」
「電気を」
「いいの」
突然手を取られ、僕は固まったままぎごちなくベッドに座った。二重になった掛け布団の向こう、僕の腰のすぐ後ろあたりで彼女が身じろぎするのを感じる。
すぐに嫌な予感がして立ちあがろうとしたけれど、暗闇の中は彼女の方がずっと上手だった。その細腕は飛びかかるように僕の首に回され、ベッドの上で抱きとめられる。
力ずくで行ってしまうこともできたけれど、耳元にかかる彼女の息がそうさせてくれなかった。「ねぇ……」温い吐息。
「……なんです」
僕は精一杯の気丈な声で、そう返した。
彼女は何も返さず、左手を僕の体に伝わせる。腕から、脇から、腹から。確かにその手は行き先を決めていた。
その猫のような手つきが僕の股ぐらにたどり着く前に、僕はなんとか一言だけ絞り出す。
「やめてください」
彼女の手は一瞬だけひるんだように止まる。僕のへそをなぞるようにぐるぐると回る。彼女の吐息はもう温く感じなくなっていた。頭が上気していくのを感じる。あの思考がまた駆け回る。
再び降り始めた彼女の手を、精一杯振りはらう。
「やめて、ください」
彼女は震えて、左手を引いた。首を回って鎖骨に添えられていた右手も、名残惜しげに離れていく。
腕に挟まれて汗ばんでいだ首筋に部屋の空気が冷たくかかる。袖口で頬を拭った。
彼女の方を向くと、目が合う。
──目なんてあっちゃいなかった。
彼女は光のないその目からこぼれ落ちる涙をおさえながら嗚咽を零した。
「ごめんなさい」
彼女は首を振る。ごめんなさい、違うの。首を振る。
「私、不安で」
それは本心だったろうか。
──勿論そうだろう。ゆがめられた彼女の本心。
伝えられやしない僕の本心と一緒に、それはこの部屋に燻る。
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