039.海は苦しみをたたえる
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あの日、確かに空は泣いたのだ。
それを切りさく戦闘機に驚いて。
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ざ、ざ、ざざあっ。
目に見えないバッタの大群が押し寄せたみたいに小麦たちが震えあがる。畦で寝転んでいた私とマティアスは耳をくすぐる雑草を気にもせず目を合わせて、すぐに体を起こした。ずっと南西、ブェルラの山並みのすぐ麓からこちらに向けて雨が迫ってきていた。
私たちはどちらともなく歓声をあげて、雨へ向かって駆けだした。二人の足跡は列をなし、折れた小麦たちの小道ができる(パパに知られたら大目玉だ)。息を切らす私の鼻に、むぅと張りつく小麦の匂いがやってくる。にわかに湿った喉で小さくむせる。
さあ、マティアスと踊ろう。
この雨を全身に受けとめて踊ろう。
体を閉じて、また開いて。マティアスの笑顔が右から左へ、また左から右へ移りゆく。
「雨だよ! マティアス!」
「ああ、エルダ!」
私たちの声は見渡す限りの小麦畑をゆく前に撃ちおとされて、きっと二人だけの言葉になる。特別なマティアスとの、特別な言葉。
髪が乱れるのもお構いなしに空をふり仰ぐ。
雨だ。
雨だ。
雨──。
「何──」
体を止める。マティアスが不思議そうな顔で「どうした、エルダ」とびしょ濡れの髪をかき上げた。私はうつむいて、ピリピリとした舌先の感覚に集中する。その味は、不慣れすぎていて、あるいは慣れすぎていてすぐに頭には浮かばなかった。
──あ、そうか。
雨は涙の味がした。
「ねえ、マティアス」
聡明な彼は私が言おうとしたことをすぐ察した──どころか彼は「しょっぱいね」なんていう子供みたいな感想よりもずっと先をジッと見つめていた。降りしきる雨に舌を突きだすや否や、彼は滅多に見せない真剣な顔つきになって私の手を引いた。
ダンスはおしまいみたいだった。
「マティアス、ちょっと、どうしたの」
「いいから。早くヴェルナーさんのところへ戻ろう」
言いたいことも聞きたいこともたくさんあったけれど、マティアスの言うことに間違いはない。私は口元にまとわりつくしょっぱい髪をかき上げる。
繋がれたマティアスの手。暖かなその感触よりもこちら側、汗だけでなく雨で張りついた手の平をよじる。マティアスがそれを優しく握りなおしてくれるのに私はそっぽを向いて目を閉じる。
耳を澄ましてみれば、雨音はいつもよりも少しだけ重たいような気がした。雨の緞帳が強かに私たちを閉じこめていた。こちらの声も、あちらの声も届かない音の牢獄。
あちらの声。
ずっと遠くからパパの声が聞こえたと思ったら、そこはもう私の家のすぐ目の前だった。ちょっと手を伸ばせば届くくらいの遙か彼方からパパがやってきて、私たちを抱きしめる。
「ヴェルナーさん、この雨は」
「ああ、エルダ、マティアス。無事だったか。話はあとにしよう。早く家の中に入りなさい。風邪をひくといけないからね」
マティアスは(私もそれにならって)神妙な顔つきで雨に濡れた扉を開く。パパもそれに続いた。暖炉に火が入れられていた。
パパから受け取ったタオルを手に奥の物置へと向かう。べたべただからシャワー浴びさせて、なんて言えるわけもない。私は瓶の底に残った水をコップですくい上げてタオルに染みこませる。吸い付く服を脱いで首から順に雨を拭った。
家の中でも雨はずっと私を閉じ込めていた。屋根のトタンがいつもよりもずっと波打つみたい。深く響く雨音。
畑仕事のときのボロを身に纏って暖炉の前に戻ると、パパとマティアスがさっきと同じ難しい顔をして壁に貼られた地図を指でなぞっていた。この国の地図だ。
円形の大陸の北東半分はコージア大総国。南西のもう半分を二つの国が占めている。
私たちの住むソールクス。円形の大陸の中心をたすきのように分断している。
もう一つが海を背にするスリア。北西から南東へ向けて真っ直ぐに走るブェルラ山脈の向こう。
マティアスはブェルラの山の一つを指さすと、そのまま地図をなぞって私たちの住む地点を示した。
「父さんから聞いた造雲施設から……こう。ブェルラ山を越える海風にのってここまで雲がやってきたんでしょう」
「塩水を降らせる雲だな」
「……ええ」
外で降り続く雨とは違った重い空気に自然足を忍ばせて、私は二人の後ろまでやってくる。
「話には聞いてたが、こんなとこまで飛んでくるとは。ブェルラまで相当な距離があるぞ」
「以前までの雲では含まれる造結核が重すぎて飛んできても精々数キロ。軍部が発表した通りでした。……今回は造結核を上空から散布することでそれを回避した」
空を驚かせたあの音を思う。
「もしかするとソールクス全土がこの雨の射程範囲に入った可能性も」
「…………そうか」
パパはすぐ後ろの私にさえ気付かないみたいに、細く長い息を吐きだした。こちらをちらと見たマティアスの目には、ついさっき私と踊っていた頃のマティアスさえ見いだすことはできなかった。じっとりと曇った、鈍色の目。
倦む沈黙の後、パパはか細く呟いた。
「お前たち二人は逃げろ」
私を振り向いたパパはマティアスと同じ目をしていた。
「エルダ、運転は大丈夫だな。まだ雨に晒されていない車がある。二番機だ。俺は雨の止み次第街へ向かう」
「……ねえ、ちょっと待ってよ」
「エルダ」
「マティアスは黙ってて」
弱々しく顔を上げたマティアスを制してパパの曇り眼を見る。
「まだ収穫も済んでないのよ。パパが街に出るにしたって、私とマティアスだけじゃ間に合わない」
「……それは、いいんだ」
「いいって? いいって何がよ、ねえ、国のための燃料なんでしょ、私たちのための起爆剤なんでしょ、何がいいっていうの」
「もう小麦は作れない」
「……なによ。何言ってんの? 馬鹿。ここはソールの誇る大穀倉地帯なんでしょ。ねえ。ここで小麦が作れないって言うんなら、もうソールは」
私の次ぐ先を否定してほしかった。
私は机の上に置かれていたお酒の瓶を床に向けてぶちまけた。
「耄碌してんじゃないわよ! 『今年はずっとずっと働くぞ』って、『ここが踏ん張りどころだ』って。お酒飲んで忘れちゃったわけ?」
「このまま放っておいたら畑全部を無駄にしちゃうのよ? ……ねえ、さっき私とマティアスで七番ブロックを駄目にしちゃったの。ねえ、このままパパが出て行くって言うんなら私たちで全部踏み荒らしちゃうから」
「逃げるって何よ。何が楽しいっていうの。パパは昔からずっと変わらないんだ。だからママだって──」
パパの目は最期まで晴れなかった。
◇
「だから、海辺の建物っていうのは痛みやすいんだ。建物だけじゃない。車や農具だってそうさ」
耕耘収穫機が畑を行く。しなび折れた小麦がその後に続いた。私は視線を前に戻してハンドルを握り直す。
マティアスは運転席の後ろの農具入れに縮こまったまま空を眺めていた。家を出てからの三日間、雲間すら覗く気配はない。
「……ん」
「こいつももう何度も雨に降られたら危ないかもしれない。屋根もないしね。できるだけ早く海に出ないと」
「……うん」
「僕は、下手だけど、真っ直ぐ進むくらいならできるから。疲れたらいつでも言って」
「大丈夫」
パパもマティアスも、逃げるとか海に出るとかばかりで、その先に何が待ってるのかとか、その後どうするのかとかそういったことには触れなかった。
──私の轢いてきた小麦たちを思う。それを食べるはずだった人たちのことを思う。
もう使い物にならないという畑を思う。
「ねえ、マティアス」
「何、エルダ」
「畑が使えなくなるっていうのはほんとなの」
ごとごとと進む車よりずっと足の速い南風が顔に吹きつけた。ずっと曇りつづきで、風は季節にそぐわず冷たかった。
「本当だよ」
体がシンと冷えたのは、そんな風だけのせいじゃなかっただろう。
「そうでなきゃ、ヴェルナーさんが畑を捨てて逃げろなんて言うはずない」
「……それもそうだね」
どうしてなの、って。
聞いてもよかったのかもしれないけれど。
マティアスはそんな私の質問に答えてくれたのかもしれないけれど。
他でもないマティアスの言葉でつきつけられてしまったら、パパの瞳も、この晴れない空も、私自身で押しつぶしてきた小麦の列も、ときどき降る空の涙も、全部本当だって認めさせられてしまいそうで。
だから私は、黙っている。
◇
一週間ぶりに差した日の光が合図だった。ブェルラの山が途切れて、ついに私たちは海へたどり着いた。
海。
嘘みたいな場所。地面全部が小麦になったみたいな。あれだけ貴重に思えた水が、太陽を浴びてこれでもかってくらい光っていた。
「……スリア軍もソール軍もほとんどが前線に招集されているんだろうね。国土の両端には人手を割けないんだ」
海までずっと続く白い土(砂っていうらしい)で動けなくなってしまった車を置いて、私たちは海へ向けて歩きはじめた。砂は思っていたよりもずっとバラバラで、一歩一歩歩く度に私の足を避けるみたいにさささと離れていった。
転びそうになった私の手をマティアスが引く。
「少し休もうか」
私たちは手を繋いだまま砂の上に横になって、体一杯に太陽を浴びた。閉じた瞼の奥にざらざらとした青が滲む。不安定に揺れて、交わって、消えていく。
ここは、私たちの居場所ではないけれど。
けれどほんの少しだけ、今ここだけが世界でないことが悲しかった。
夜が来て、朝が来た。
空を震わす音がした。
私たちは二人きりで話をした。
「マティアスのパパってどんな人?」
「変な人。人のことより宇宙のことばっかり考えてる」
「……ふふ」
「何?」
「それって、マティアスそっくり」
「ヴェルナーさんは……」
「…………」
「ふふ」
「何よ」
「エルダそっくりだよ」
「ママは」「母さんは」
どんな人だったのかな。
きっと綺麗な人だったんだろうな。
きっと素敵な人だったんだろう。
私とマティアスを産んで死んでしまったママ。
痛かっただろうか。苦しかっただろうか。
死んじゃうくらいだもん。苦しかったに決まってる。
「あなたたちを産んでよかった」って。
こんな不似合いな遺言もないだろう。
苦しいのに、良かったわけない。
──空が震えた。ずっと遠くで。
家を出て、これで五回目だった。
きっとまた空は泣く。私たちの家の上。その度に、もっとずっと多くの涙が流されるのだ。人が死ぬ。土地が死ぬ。……私たちには、もう帰る場所なんて残されていなかった。
「エルダ」
私を呼んだのはマティアスだったけれど、それだけだった。私たちはどちらからともなく体を起こし、寄せては返す海の方へ歩きだす。
さりさりとした砂がだんだんと固くなってきて、まただんだんと柔らかくなっていった。夏の海は温く、私たちのくるぶしを濡らした。膝の辺りはすうすうと涼しいのに、浸かった足先は泥の中みたいだった。それが体を覆っていく。
マティアスと繋ぐ手を握り直した。
視界が狭まっていって、すぐに世界は真っ二つになる。
跳ねた海の水が口に入った。しょっぱい。
なんだ。マティアスの言ったとおりじゃないか。
海は涙の味がした。
泣く空と、涙の海。
私は空に別れを告げる。
──ああ、苦しいなあ。
私の吐いた空気は白くゆらめきながら空へ向かって上がっていく。その度に胸をつく苦しさが私をしめつけた。
苦しい。
きっと海は、涙でできているから苦しいんだ。
私は最期、この苦しみの先を願っていた。
BRINE




