029.『自我像』についての諸事実
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怪盗トゥロウヴは全てを啓く。
これまでにいくつの絵画が、彫刻が、工芸品が、古美術品が、彼によって啓かれてきたか、知る者はいない。
彼の宝物庫は、一切合切、全ての誰にでも啓かれている。
【城田基尚『なぜ稀代の画商は怪盗と呼ばれたか』山波書房,1988年.】
『十八世紀を代表する画家、オドワルド・キャンバーの遺作が公開か。ルーヴルで』
アトリエの床はまだらに色づいている。沈みこむ床板からこっそりと安全靴をあげて、僕は息をつく。むっと香る絵の具にカビの色が溶けている。昇りきった日が、ちらちらと舞う埃を映し出す。立て付けの悪い窓を開けて、木造の丸椅子に腰を下ろした。
放った新聞は塵を吐きだし続けていた。
語るのは、世紀の大発見に見せかけた英雄譚。
怪盗トゥロウヴは現代の義賊だ。
未だ見ぬ誰かの宝物庫に眠るお宝を蒐集し、名のある美術館で公開する。時代の狭間に眠っていた美術品たちはたちまち息を吹きかえす。
そして彼は怪盗ではあっても指名手配を受けているわけではなかった。──今となれば、それも理解できる気がした。
僕の目の前に置かれたキャンバスには、僕と、その背後のアトリエが映りこんでいる。
さえない顔だ。
「さえない顔をしているね」
アトリエの扉にまた彼の姿が見えた気がして、僕はすぐに振りかえる。煤の積もったように薄暗い視線の先には、しかし彼の姿はない。
…………。
さえない顔をしているね。怪盗トゥロウヴは僕にそう言った。
「……誰です」
「どうも。こちらアンナ・ハンセンのアトリエと伺ったんだが」
今思えば、その姿はさえなくもなんともなく、いかにも怪盗然としていた。僕よりも二回りほど歳を食った顔に彫刻のような笑みが浮かんでいたのを覚えている。刻まれた皺をそのままに男はふんふんと辺りの臭いを嗅いでいた。真っ黒な外套の裾を気にしながら、散乱した画材を眺めている。
「彼女はもう五年も前に亡くなりましたよ。流行病で」
「勿論、知っているとも」
パレットに絵の具をのばしていた僕は、虚を突かれて顔を上げた。男は相変わらず足下の画材を眺めていた。
「ここに彼女の遺作があるはずなんだがね。君は知らないのか」
「…………そもそも、あなたは誰です」
──確かに、彼女の最後の作品はこのアトリエの奥にしまってあった。それは僕と彼女との、最後の記憶だった。
アンナは僕の叔母で、生前は画家だった。あまり売れた方じゃなかったけれど、時偶、彼女を偲んでと弔問客が訪れることがある。こんな山間の田舎にだ。
専門としていたのは抽象風景画。僕の故郷でもあるこのあたりは山ばかりで、特段風景画の題材として面白いもんじゃないけど、叔母さんの描く絵にそんな退屈の陰はない。あの山、あの川。全ての山と全ての風と、全ての川と全ての空とがハッキリと区別されてキャンバスを流れる。
少年時代からこのアトリエを遊び場にしていた僕にとって、絵筆が作りあげていく抽象風景は、自分の抱くそれとピッタリ符合していた。叔母さんは、まるで僕の心を見てきたかのように絵を描いた。
どうやら弔問客でも取材でもないらしいと、僕は机に筆を置いた。
「人を呼びますよ。あなた」
「おっと、待ちたまえよ。私は……そうだな、画商といったところだ。アンナ・ハンセンの遺作はこんなところにしまっておくべきじゃない。多くの人が彼女の作品を望んでいる。違うかね?」
立ちあがりかけた僕を真っ黒い革手袋が制した。僕は気圧されながらも、じっとりと湿った襟元を拭って反駁した。
「仮にそんなものがあったとして……誰とも知らないあんたに、はいどうぞと渡すとでも?」
「いやはや、いやはやいやはやそうだね。その通りだ。ブライト・ハンセン君」
男は名乗ってもいない僕の名を呼んだ。
「それなら別に私が買い取らなくてもいい。君が、その手で、その足で、そこいらの美術館まで運んでくれたら、それで私は構わないんだ。きっと快く受けいれてくれるだろうね」
「ご助言どうも」
このときの僕は、男がアトリエを荒らしはじめたらどうしようかと考えていた。若さでだけは僕に分がありそうだったけれど、武器を隠し持っていないとも限らない。声を上げようにも、隣の家まではちょっと歩かないと助けも呼べない。その間男から目を離すことになる。
引き出しの奥にしまいこんだ彫刻刀を思い出したが、力尽くの相手にそれでどうにかなるはずもない。僕は奥の部屋に続く扉をちらと眺めて…………それから、しまったと思った。
男は息を吐くように笑って、「やはりあるのだな」
「……あんたには、わからねえよ」
「わからない?」
男はその先を言わず、アトリエの奥に続く扉の前まですいすいと歩いて行った。僕ものっそりと立ちあがってそれに続く。どうしようもなかった。年中キャンバスに向かいっきりの僕では、暴漢に抗うビジョンすら見えなかった。
扉の向こうは半ば物置のようになっていて、アトリエよりもさらに重たい空気が僕たちを絡めとった。
「これはいかんな」
覆った口でそう零す男。
「年中しまいっぱなしじゃねえよ」
僕はそう返す。
未使用のキャンバスの上にその絵は置いてあった。すぐにそうとはわからない、無地の布張り箱。すぐ背後に控える男を振りかえってから、僕はそれを開けた。
絵を包む布を取りさると、男はさと目を通す。
「……ふむ、これは」
絵について、僕の口から事細かな説明はすまい。男にも、これを読んでいる誰にも。
男は筆致を追い、色を追い、最後に確かにこう言った。
「君は、返事を描いているんだね」
そして今、僕の目の前にはたしかにその返事があった。
そしてその返事は、このアトリエのかたちをしていた。
窓際に放った新聞紙はやっと塵を吐きだすのをやめた。夜を背景に、窓ガラスにはすっかり年老いた僕の姿が映った。見比べるように、キャンバスに映った世界に目を戻す。あの頃の僕。そして今の僕。あの頃のあの頃。今の今。
それは今この世界では僕にしかわからない言語だった。
ここまで書いてきた全てを足し合わせても表しきれない僕の気持ちだった。
絵は、そういう力を持っている。
「さえない顔をしているね。相変わらず」
それは聞き間違いではなかった。
一体あんた何歳だよ。
そんな冗談をこめて、僕は振り向いた。
【甲田海谷『ブライト・ハンセンの手記』行文社,1991年.】
濃いブラウンに統一されたエリアを抜け、厳かな雰囲気に耳を澄ませていると、私たちの目に二枚の絵画が飛びこんでくる。
十九世紀から二十世紀に描かれた、二人の人物の自画像だ。
右手に、『腕』、『野となれ、山』で知られるアンナ・ハンセン。左手に、その甥であるブライト・ハンセンが並ぶ。
自画像? 初めて訪れる人はそう疑問に思うかも知れない。それもそのはずで、それらは全く人のかたちを成していない。しかしそれでもけして、それらが人を表していないわけではないことに注意されたい。
アンナの絵に唯一見てとれる人と思しき五角形が、どうやらブライトではないかとされている。ブライトの手記から、二人は親子のように愛し合っていたとされている。そのため、彼に対する愛情が絵にこめられていると思われるが、その表現方法も数度目にするだけではとても理解に至るものではない。
この二人の閉じた関係こそが、この『自我像』を形作っているとも言えるだろう。
【山上・城田『ルーヴルの歩き方──閉じた世界を往くために』ディスカバー社,1999年.】
TROVE




