023.Shake Out The Snake !
Wordle 243 5/6
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◆
『蛇をあぶり出せ!』
もう何日も食っていない俺の目に、そんな量子看板が飛びこんでくる。それは見る人見る人の脳状態によって全く異なった広告を見せるという。
──まだメシの宣伝の方が幾分マシだ。
百にも迫る摩天楼が所狭しと建ち並ぶ十萬通り。国一番の繁華街にして歓楽街にして露店街は、冬でも夏でも関係無しに万単位の人々でごった返している。俺はちょっと目を上げて、ビルの隙間から覗く灰色の空を見やる。ビルからビカビカと照る明かりにやられて、ひとかけらの空が昼なのか夜なのかさえわからなかった。
件の看板では、蛇のように描かれた︿間の顔に真っ赤なバツ印がつけられ、その手前には人間どうしが笑顔で手を取りあうイラストが流れる。
小さな舌打ちと共に看板から目を降ろすと、通りの向こうに握手衛隊の姿が目に入った。
──面倒だな。
行き交う人間たちと一線を画す奴らはうつろな目を光らせながらこちらへと向かってくる。常に二人組で行動する奴らはそれとわかるように堅固な首輪型の︿間標を黄色く塗ることが許され、囚人のように隊の制服に身を包んでいる。
ときおり手を高く挙げると、奴らどうしでの握手を試み、そしてそれができないことを通行人にアピールしていた。
──こんなとこ、通るんじゃなかったぜ。
俺はさりげなく手をポケットに入れ、ヤツらの目に留まらないように目を伏せる。
季節は冬で、コートの上からでもつらぬく寒さが体中を震わせていた。けれど奴らとすれ違うその瞬間、辺りの喧噪は消えうせ、まるで一歩踏みとどまるように耳のすぐ後ろがカッと熱くなり、体のあちこちが生乾きの雑巾みたいにいやな汗を滲ませるのだ。一歩一歩が重い。急に鈍間になった世界に歯がみしながら、俺は不乱に、それでいて何気なく足を前に出す。
やっと奴らとすれ違うと、にわかに一帯の鈍重さは消えうせる。ドップラー効果のように拍子抜けの大雑踏が耳に戻ってきたときにはもう奴らの姿は通りのずっとずっと向こうに消えていて、件の握手のために挙げた手だけが俺たちに足りない一線のように人混みの中から浮いて見えた。
──ぷはっ。
俺は無意識に止めていた息を取りもどす。いい加減慣れないと仕方がない……。
こんな生活に慣れろって? 冗談じゃないぜ。
蛇な俺の重苦しいな日常。
あるいは、neavyな日常?
笑えない。
握手衛隊の影を恐れて十萬通りから目を背けるように道を逸れ、露店商店の合間を縫うように深くへと進んでいく。止むことのない十萬の喧噪が渦潮のように俺の体を掴んで離さなかった。俺はそれでも、なんとか耳を塞げやしないかと四苦八苦しながら、そんな俺に不審げな顔を向ける人々の合間を大股で何度も何度もすり抜けた。気の向くままに右へ左へとずんずん潜っていくと、俺の周りを生ゴミと使い古した油とを混ぜあわせたようなネットリとした空気が満たしはじめる。
いつの間にか耳の奥でザアザアと止まなかった喧噪は遠くに引いていた。微睡みの中にいるような静寂にあてられて、手はポケットに入れたままほんのちょっとだけ嘔吐いた。胃液だけが黒ずんだ路地裏の地面に染みこんだ。乞食ふうの男がこちらに面した扉の前でボソボソと何か呟きながら俺を見ている。まともに歳もわからないような老婆が案内人のようにジッと立ちつくしている。
──しまった、奇妙な場所に出やがったぞ。こりゃ、九十九千通りじゃないか。
思って振りむいてももう遅かった。幾度右へ、幾度左へなどと、覚えてもいない錠が、俺をこの深い路地裏から逃がさないように何重にもかけられているのだった。一つ二つと来た角を戻ってみて、やっぱり止めて、やっぱり戻ってと繰りかえす内に、とうとう俺はどちらから来たのか、どこへ行く予定だったのかさえ忘れてしまった。例の乞食ふうの男が俺のことを笑っているみたいだった。
クソ。
殴りかかる気も起きず、ベッタリと黒い油煙の染みこんだ壁に身をもたれて、俺はビルの合間から微かに覗く灰色の空を見上げ──いや、九十九千じゃまともに空も見えやしなかった。九十九千通りの全ては、十萬通りに向けて何十棟と建てられた超高層ビルたちに挟まれて、罪をおっかぶせられた冤罪人が如くしわしわに縮こまっているしかなかった。そうなりゃ自然、そういう奴が集まることになる。
酸っぱい臭いの残る溜息を吐いて足下を見ると、カビやサビに混じってタバコの吸い殻が落ちている。何もかもが朽ちたようになっているそこで、それは白雪のように澄んで見えた。俺はさっきから実印手形のように厳重にしまっていた右手をポケットから出して、その吸い殻を拾いあげる。冬の空気にあてられて、カラリと乾いている。
──なんだ、まだ吸えそうじゃねえか。
左のポケットからライターを取りだして火を点ける。先の方で黒く燃えなずんでいた巻紙がチリチリと赤くその身を散らした。何か冷たい感触が左手に触れた気がした。それは優しげに俺の指の間をなぞって、
バチッ。
火花が散ったのは、右手の燃えさしからではなかった。
左手からだ。
ライターを持って、そのまま放っておいた左手から。
適当に拾ってきたライターが爆発した? 違うのだ。
俺のすぐ左隣で一人の少女が右手を押さえながら(かなり痛かったはずだぜ。手の皮膚が剥がれたんじゃねえかってくらい)、それでも高揚したふうの顔で俺のことを見上げていた。
──蛇千だ。
そう思うが早いか、俺は体を翻して九十九千通りの闇へ向かって走りだした。すぐに山積みにされたゴミやガレキに行く手を塞がれる。それをかき分けてひた走る。
──マズい。マズい、マズいぞ。一体どこでバレた?
ジンジンと痛む左手で、まともに考えることもできない。途中ですれ違った九十九千の住人は何を考えて俺たちのことを見ていただろう。ああ、俺たちさ。足を休めずに後ろの様子をうかがうと、件の少女がゴミとガレキの山を軽々飛びうつりながら、今にも俺に追いつきそうにやってくる。その首に︿間標は無い。
やたらめったらに角を右へ左へと走ってきて、お察しの通りついに袋小路に追いつめられた俺は、まだ口にくわえっぱなしだった吸い殻を吐きすてる。たっぷり一秒、二秒と余生を味わうようにしてから振りかえると、丁度少女の方も道端のガレキ山から降りたったところだった。
ボロキレに身を包み、顔のほとんどをぶかぶかの帽子で隠すように覆っている。袖から覗く白々とした肘先だけが、ゴミ溜めの九十九千通りに少女の彩りを与えていた。
辺りはゴミ溜めの奥のさらに奥地といった様相で、九十九千の住民すら目に付かなかった。黒ずんだ猫の死体が腹をパッカリと開けて、まるで俺を飲みこもうとしているように見えた。
俺は観念して少女に向かって手の平を晒す。
「わかったよ。降参だ。一旦捕まろう」
「もー、おじさん早いんだから、ラン疲れちゃった」
「…………」
どうせここから俺一人で逃げおおせるとは思えなかった。息を落ち着けるランとやらを待って、俺は再び口を開く。
「手衛隊から雇われたんだろ? 一人頭いくらで取引した? 額によっちゃ俺でも工面できるかもしれん」
「うーん、そういうのじゃないんだけど」
「……俺程度じゃ払えない金額ってことか? 別に俺は︿間ってだけで他になにもしちゃおらんぜ」
「いやだから、そうじゃなくって」
ランは、まだ痛むのだろう、さっき俺の左手と蛇千した右手をさすりながら「ラン、別に雇われてないから」と笑顔を作った。俺の顔が渋く歪んだのを見てとってか、ランは驚いたように続けて口を開く。
「ちょっと、おじさん九十九千来るのはじめて? 手衛隊とか警邏団とか、そういうのが入ってきて一番困るのはランたち。連中と協力なんてしたら、ランから真っ先にゴミ箱行きだよ。
──ここじゃ、ゴミ箱に捨ててもらえるだけでも幸せかもしれないけどね」
◇
「ここにいるからってね、別に誰も彼もが︿間ってわけじゃないの。表で悪いことして働けない人とか、お金がなくて住む場所がない人とか、他にもずっと色んな希望の断たれた人が住んでる」
外から見聞きしていたよりもずっと、九十九千の擁するならず者の数は莫大だった。百の摩天楼のその隙間だけでなく、うち捨てられた数棟のビルに入りこんで、そちらでも独自のコミュニティが形成されているらしい。九十九千全体を加味すれば、小さな県(州でも省でもかまわんがね)くらいにはなるだろう。国としても、九十九千への大々的な介入にはリスクが伴う──世界に誇る十萬の商売を止めてまでしなきゃいけないことがこの世にいくつあるのかって話だ。
俺がゴミもガレキもかき分けて進むその山の上から、ランが声をひそめて話を続ける。どうやら他の住人に聞かれちゃまずいことらしい。ランも︿間であることを隠しているのかもしれない。
「そ。一斉捜査は無くっても、一人ここの誰々が︿間ですってことがバレちゃうとね」
「……用心にこしたことはねえ」
国は俺たち︿間の存在が世界に露見することをどうしても看過できないらしい。一般人の国外との通信は、遙か昔に遮断されたままになっていた。
そりゃそうだ。染色体組み換え人間なんて、国一つ亡くなる大スキャンダルだぜ。
「ここの人たちも警邏団の介入は嬉しくないから、握手衛隊を雇って︿間検査をすることもない……それはそれで法律違反なんだけど、ランたちにしたらウィンウィンってわけ」
「ルーズルーズじゃなけりゃいいけどな」
国に捕まった(奴らは『保護』って姿勢を一度たりとも崩さねえが)︿間には、二つの道が用意されている。
一つに︿間検査の握手衛隊として一生を過ごすか。
一つに終了されるか。
どちらにしても死ぬようなもんだ。
俺は痺れの残る左手を軽く握って、再びガレキの山に手をかける。ランは目ざとくそれに気付くと、俺のすぐ後ろに降りたって今までよりもさらに小声で「蛇千、初めてだった?」と囁いた。
「……ああ」
「やっぱり。すごく驚いた顔してたから、ランちょっと笑っちゃった」
「……お前はどうなんだ」
すぐ、聞かなければ良かったと思った。
「ランは二回くらい? 一回目は、手衛隊に見つかったとき」
……俺たち︿間どうしは握手することができない。例の生体実験の影響だ。
古典力学に縛られない上位存在(所謂『超人』って奴だな)として科学者が思い浮かべたのは、自身の存在確率をその個を保ったまま書き換え、読み替えのできる、世界を揺るがす人間兵器だった。そんな人間が──大間が一人でもいれば、世界の情勢は大きく揺らぐ。国は国家予算の五割を充ててその開発を強く支持した。
大間計画として始まった一連の実験は、そこに向けられていた期待とは裏腹にひどく難航した──結果から言えば、失敗に終わった。
人類の叡智に一画付け加えようってのも、過ぎた望みだったってわけだ。
当然の話だ。量子書き換えにあたっては体を構成する穣にさえ匹敵する原子どうしの結合を(ナノ秒スケールで構わないとはいえ)全て一旦バラバラに解かなければならない。それは理想化された頭の中でさえ不可能で、ましてや恣意性の大きい生物分野からそれを操作することなど、自然進化で大間が生まれることと同じくらいあり得ないことだった。
ごく単純化された単細胞生物でやっと成果が出るまでに数十年。これを人間に応用するなど人間史を十度二十度繰りかえしても時間が足りないことは、きっと科学者には瞭然に判っていただろうと思う。
こういうとき、いつも最も足を引っ張るのは国家だ。
科学者たちの申し入れにも耳を貸さず、実験は続けられた。国は、人の努力というものに信頼を置きすぎている。自分たちがそうやってできてきたから。
そして。
そうしてできたのが、︿間だった。
無理な継ぎ接ぎによって頭のネジはボロボロに抜け落ち、そのほとんどが致命的に人間とは違ってしまっている。人間に必要な倫理観をポロポロと零しながら俺たちは生まれてきた。
一時期、国の犯罪は三割以上が︿間によって引き起こされたという。施設から脱走した︿間が少なからずいたのだ。世に茂るにはまだ早い初期段階についてさえそうなのだから、破格の数字だろう。政府の規制も間に合わぬまま、︿間は交配し、増えてゆく。一番多い時期で、国内の︿間は二万人を越えたとされている。
それでいて見た目には普通の人間と一切変わらないっていうのがタチが悪い。蛇千によって以外、︿間を見分ける方法は見つかっていない。
︿間は量子書き換えを希求した名残として、体表を構成する原子のエネルギー状態が極めて不安定だ。例えば異なる個体で指紋や掌紋といった細かな皺が集中する箇所同士を接触させると、すさまじい音とともに互いが退けあう。蛇千だ。いち早くこれを発見した政府は︿間自身によって︿間をあぶり出す握手衛隊を結成し、
「ちょっと、もういいってば」
いつの間にか俺たちは九十九千から十萬へ浮上してきたようだった。闇に閉ざした通りに違いは無いが、うるさいくらいの十萬の熱気が、淀んだ空気に乗って伝わってくる。
俺はランを振りかえって、「案内してくれたのか」
「そ。おじさんずーっと沈んだ顔してブツブツ言ってるんだもん。おかしくなっちゃったかと思ったよ」
「……そんなこと」
──いや、おかしいのだ。
︿間として生まれてきた俺には、あるべき一線が無い。
それがなんなのかさえ、俺自身にはわかっていないけれど。
「……おじさんがいいなら、ここでランと一緒に働くっていうのはどう?」
九十九千の澱を背に、ランは尋ねる。
「おじさん、外に戻っても行くところないんでしょ」
──もしかしなくても、俺はどうやら『沈んだ顔してブツブツ言ってる』間に下らない身の上話まで会ったばかりの少女にしてしまったらしかった。
初めて︿間どうし知りあえたから、と言い訳はすまい。
俺は震える両手をポケットに深くしまいこむ
「…………よろしく頼む」
「うんっ。……思ったより素直なんだね、おじさん」
「……まだ二十代だよ」
◇
九十九千では時間の感覚がおかしくなるようだった。ランと仕事を始めてどれくらいが経っただろう。一ヶ月? 二ヶ月? ──半年や一年と言われても違和感はなかった。
ランの言う仕事とはゴミ漁りだった。九十九千を埋めつくさんとするゴミ山の中から使い物になるものを探しだして、十萬のジャンクショップに売りつけるのだ。
他にも同じような仕事をしているのが何グループもあって、ときたま仕事場がかちあうと、ランが間を取りもって穏便に済ませてくれた。そのほとんどがランと同い歳くらいの少年少女で、最初は半ば死んだような出で立ちで睨みつけてくるのだが、ランの姿を見るとその目にだけは生気が吹きかえすのだった。
俺がやめるように言うのも無視して、ランはとかく住民の手に触れたがった。もし︿間が紛れこんでいたらすぐにラン共々そうとバレることになる。彼女が言うようにすぐ誰かが握手衛隊に通報するようなことはなかったろうけれど、俺が九十九千を出るその日まで、なぜ彼女がやたらに握手を求めていたのかはわからなかった。
一方の俺はその度、ジッとポケットに沈めた両手を震わせながらランの後ろに隠れているのだった。
──情けないったらねえな。
「私、良いゴミを探すのは得意なんだけど、掘りかえすのは苦手でさ。おじさんが力自慢で助かったよ」
これまで自分が特に力仕事に向いているという実感はなかったが、ランをはじめとした九十九千の子供を見ているとそれもそうかと気付かされる。ラン以外は骨しかないような四肢を黒ずませているし、唯一ランにしたって健康そうなのは肌の色くらいだ。
「ああ。これくらいなら、俺にもできるさ」
生ゴミの山に手を突っこむと、辺りを満たしていた酸い臭いがより一層濃くなる。今では少し慣れたものだったが、爪を剥がしながら漁るガレキゴミの方が幾分マシだと思わざるをえなかった。ガレキゴミを漁っているときは逆に生ゴミを望んでいた。
めぼしいのは携帯端末やまだ着られる衣服、食える食料。十萬通りの情勢にも寄るが、全く使えないものが捨てられていることはほとんどない。摩天楼を隔てた向こう側は物で溢れかえっていた。そうでなくても、アルミなどの金属片も集めれば夕飯代くらいにはなった。そこもランの腕の見せ所で、ときには表でさえ食べられないような食い物にありつけることもあった。
その日も朝から晩まで駆けずり回って二日分の食料を調達した俺たちは塒にしているゴミ山へと戻った。そこは十萬通りにほど近く、廃棄となった衣服のゴミが集められる場所で、九十九千の他の場所よりはずっとマシな臭いがした。
俺はカビかかったパンを頬張ってゴミ布団に寄りかかる。
息を吸って、吐く。
最近出はじめた気味の悪い咳も、ここならかなり楽になる。
こん。軽く息を吐くと、ランと目が合った。取り分の食料に手も付けずに俺のことをジッと眺めていた。
「どうした? 食えよ」
「……うん。……ううん、ラン、いらないや。おじさんが食べて」
「お前な……ただでさえガラス人形みてえな体なんだぜ。食っとかねえといつか砕けちまうぞ」
ランは「うん」と気のない返事をしただけで、結局何も口にしなかった。
空の見えない九十九千では、寝れば夜だし、起きれば朝だ。眠気まなこを擦って体を起こす。俺のすぐ横で、ランは無防備に体を横たえていた。眠っている間だけ、彼女はいつも帽子を脱ぐ。初めて見たときは驚いたものだ、その顔はまるでどこか良家のお嬢様のように整っていて、首筋の辺りで切りそろえられた黒髪は九十九千の何もかもと相反して艶立つようだった。けしていやらしい意味じゃなく、その頭に手を載せる。載せてしまってから後悔した。まるで洗い立てのように黒く澄んだ髪を俺が穢してしまったように感じたからだ。
それに俺たちは──
「おい。そこのお前たち」
聞き覚えのない声に俺は体を跳ねおこした。ランもパッチリと目を開けて、すぐに帽子を深々と被る
声は見覚えのある姿から出ていた。あれだ、初めて九十九千に迷いこんだときに見た乞食ふうの男だった。男は仲間と思しき男たちを連れ、こちらに向けて拳銃を構えていた。
俺はランの肩に手を回して後ろにやる。
「やあ。おはよう。でいいのかな」
「なんだ、お前ら」
「そういきり立たないでくれ。私たちも仕事でね。︿間がこのあたりに紛れこんでいると通報があったのだ」
男の言葉に従うように、さらに後ろで待機していた男たちも銃を構える。
「信じて来てみて良かったよ。やっと探しだせたというわけだ。お前たちを」
──どうして。
そうだ、どうして今まで気付かなかったのだろう。
あの日、九十九千に迷いこんだ日。初めて蛇千を起こしたあの日。
俺はこいつに、それを見られていたんだ。
「おいおい、まさか忘れていたんじゃあるまいな。……いや、あるいは︿間ならば考えられるな。大切な大切な頭のネジが足りてないとウワサのお前らなら、覚えていて当たり前のことを忘れているということもあるだろう。見えていて当たり前のことが見えていないこともあるだろう」
男は銃口を定めて、笑いを漏らす。
「悪いが、お話をしている暇はない。モタモタしているとここのならず者たちが集まってきてしまうのでね。握手衛隊の検査も不要だ。私がこの目で蛇千を見ている。……平時ならその握手衛隊への勧誘も行うところだが、それも今回はやむなしだ省略しようか。ここで終了させる」
男は勝手にそれだけ言い終えると、他には何もなしというふうに後ろの仲間に指示を出す。さらに奥のゴミ山から十人ほど物騒な奴らが顔を覗かせる。
俺はやっと冴えてきた頭を振りしぼりながら、ランを後ろ手にジリジリと後退する。けれどそれも限界で、十萬と九十九千を隔てる大壁が俺たちの退路を塞いだ。
「おじさん……」
「ラン、おい、いいか。俺が奴らの隙をつく……なんて、つけやしないだろうがな。お前はその塵みてえな隙に逃げな」
何か言おうとするランを黙らせるように、俺は小声で続ける。
「いいか。身軽なお前なら助かるかもしれねえ。連中がズブの撃ち手ならな。……俺は無理だよ。弾当ててくださいって図体してんだぜ。それに──」
それに──。
その先は言わなかった。
それを次いでしまえば、ランと過ごしたほんのちょっとの時間さえ、全部馬鹿にしているみたいになっていただろう。
例え死にゆく身でも、︿と︿とが手を取りあうことを諦めたくはなかった。
俺はランから手を離し、銃口へ向けて走りだす。ほんの少しでも長く、ランから銃口が逸れているように。ほんの少しでも長く──う。う、うあああああ!!!!
情けなく吐きだされた叫び声は、俺の色をしていた。
黒く沈んだ九十九千で最期に響く。
引き金がひかれた。
世界が白く破裂した。
白く。
白く。
白く。
◇
「ねえ、おじさん。ちょ、助けてよ」
ランが呼んでいる。
俺はどうなった? 記憶がない。
「助けろったってお前、手出しても意味ねえだろ。どうせ掴めねえんだから。いてえ思いするだけだ」
走馬灯ってやつか? いつだったか、こんなやりとりをした記憶がある。そうだ、確かランはこれにこう答えるんだ。
「じゃあ、ランが︿間じゃないって言ったら助けてくれる?」
馬鹿な奴。バッチリバチバチに蛇千が起きたのを忘れたのかよ。
「どうだかな。馬鹿なこと言ってねえで早く上がってこい」
ランはガレキに挟まった服をどうにか外そうと四苦八苦している。俺は一つ欠伸をして一歩下がる。
「じゃあ…………もうおじさんは︿間じゃないって言ったら、助けてくれる?」
あ……? なんだよそりゃ。
走馬灯じゃなかったのか? 聞き覚えのない言葉に、俺は首を傾げる。
「何言ってんだ、お前。……俺が︿間かどうかなんて」
「良い機会だから、前から聞きたかったこと聞いていい?」
おじさん。
どうして蛇千が初めてなのに、自分が︿間だなんて思ったの?
ねえ、おじさん。
本当の蛇って、一体どこにいるの?
◆
「あの──あの!」
聞き覚えのある声に引き上げられるように、俺は目を開ける。真っ白い世界が尾を引いて過ぎ去っていく。
……何をしていたのか、いまいち思いだせなかった。
辺りを見回すと、大通りから少しだけ入った路地裏で、座りこんでしまっていたようだ。うげ。俺の座るすぐ傍にゲロ溜まりがある。着ていたスーツをかばうように左に後ずさる。
「あの、大丈夫ですか?」
やっと声に顔を上げると、制服姿の少女が俺のことを見下ろしている。おいおい、すげえな。どこか良家のお嬢様かって見まごうほどだった。俺の頭の中だけの美少女って感じの彼女は俺が顔を上げると安心したように胸に手を当てた。
「どうも。大丈夫だよ。酔っ払ってたみたいだ」
「そうですか……私、死んじゃってたらどうしようって、ほら、立てますか」
おいおい嘘だろ。こんなくたびれた酔っ払いに手差しだす奴があるかよ。最近のガキは警戒心がねえっつか…………そんなもんなくても立てるっての。
断る文句はいくらでも思いついた。
ゲロのすぐ傍で気失ってたんだぜ。
実は酔っ払ったフリでお前さんを狙ってるんだぜ。
小娘なんかの助けは要らねえぜ。
頭のネジが外れたド変人かもしんねえぜ。
いくらでもだ。
でも、どうしてかな。このときの俺は、その手を取りたいって思ったんだ。
ほら。
取ってみりゃ、なんてことはねえ。
手と手とは、拍子抜けするほどたやすく握手った。
SHAKE




