002.ケレビウム
Wordle 222 5/6
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帰路に負う荷物の重さ──味気ねえ。
これが俺は嫌いだ。
老若男女、出かけるときに帰りのことは念頭にないってもんだ。それが、さあ帰ろうって段になると急に手に足にまとわりついてくるんだぜ。キャリーケースをゴロゴロ引っぱる旅行帰りの電車の中さながら、全ての帰路が無味無臭の泥の中に沈んでいると言ったっていい。
ただ今日は例外だな。そりゃあそうだ。明日は有給だし。遊びつくしてやるぜ。
家に着いてすぐ、仕事鞄をカウンターキッチンの奥に放り投げる。社用の通信端末もその中だ。電話してくんなよ。
「ご対面だ、ぁ、と」
スーツ姿もそのままに、背負っていたドでかいリュック型の梱包材を開けて、中からお楽しみを取りだしてやる。ケレビウム社の新作で、のめり込んで出てこられなくなっちまうヤツもいるってウワサの『ケレビウム-Ⅲ』だ。社名がそのまま商品名ってイかしてるよな。
パッと見は他のBMDと大差ないようだった。まあ『ブレイナー』の頃から──たしか、あれは俺が小学生くらいのときだった──どの会社も二十年以上同じ外装を使い回しだから、これが一番コストがかからないんだろう。どうせ一度着けちまえば美醜は気にならない。
鼻まで覆うゴーグル型のヘッドセットから二本のチューブが伸びていて、片方は肘まであるグローブ型の右手端末に、もう一方はペン型の左手端末に繋がっている。うなじすぐ傍の血液タンクは、今回容量を少し増やしたらしかった。タンクの表面には『洗浄済み』と書かれたシールが貼ってある。すぐに使えるらしい。『ケレビウム-Ⅰ』の頃は洗浄剤が足りないとか、買ってすぐマニュアルも読まずにプレイしたユーザーがぶっ倒れることも珍しくなかった。
とりあえずのマニュアルは、ほんの小さな紙片としてゴーグルの脇にセットされている。
『ケレビウム-Ⅲへようこそ。周りの安全を確認し、ヘッドセットをご装着ください。使用にあたってのマニュアルが表示されます。マニュアルが表示されない場合は、ケレビウム社のホームページをご確認ください。』
本用紙は再生資源を使用していますと書かれたそのマニュアルを放って──ケレビウムのバッテリーが上がっているなんてことはそうそうないのだ──俺は早速ヘッドセットを被る。ケレビウム-Ⅲはすぐに俺の体温を感知して起動した。デフォルメされた脳のアイコンを四振りの翼がゆっくりと回っている。このデザインについては前々からどうかと思っていたが、Ⅲでは少しグラフィックを変えたらしい。幾何学模様にアイコン化された脳のデザインはなかなか悪くなかった。
『ケレビウム-Ⅲへようこそ。……………………ボタンを押して進む。』
真っ暗なゴーグルの中で、薄緑色にそう表示される。俺は手探りで右手と左手端末を装着する。左手端末のボタンを押すと画面が暗転し、またメッセージが続く。耳にしたヘッドホンからは深い海の底を思わせるBGMが流れ出した。合成音声の女の声で、利用規約の読み上げが始まる。実際、アカウントやコンテンツについての細かな規約については購入時に同意していたから、流れたのはこれだけ。
『本製品はBMD、Body-Mount、Blood-Mount、Brain-Mount-Deviceです。体に障害のある方や血液疾患患者、また脳の正常動作が確認されていない方の使用は法律で禁止されています。ユーザーIDを入力してください。』
毎度お決まりの文句だ。とりあえずユーザーIDとパスワードを視線で入力すると、ケレビウム社に登録した指紋との照合が右手デバイスで始まる。毎度ご丁寧なこった。指示通り二度右手を緩く握ると、『確認しました。』と画面が切りかわる。
『本製品の設定をお客様の脳に合わせて調整します。画面上に表示される画像から最も適したものを選択してください。』
◇
「おっう、え、え」
『バッテリー残量がありません。ホームページをご確認の上、充電してください。バッテリー残量がありません。ホームページをご確認の上、充電してください。バッテリー残量が──
諭すように流れ続ける音声振りはらうようにBMDを頭から取り外すと、まず一番最初にやってきたのは吐き気だった。勿論、酔ったわけじゃない。今時BMDで酔うヤツなんて赤ん坊くらいのものだ。床に倒れこんで、潰れるほど縮こまる胃を体の芯から感じとる。
なんだ? 何が起きた。
痙攣のおさまらない腹を押さえつけながらあたりを見回すが、あたりには特に何もなかった。
──ああ、特に何もなかったさ。
床に散らばっていた下着、靴下、スーツの類がなくなっていたし、昨日飲みきった酒瓶もない。洗い物の山も。勿論、社用端末が俺のことをうるさく呼びつけているってこともない。まあつまり、特にと言わず何もないってわけだ。唯一足下に転がっていたケレビウムの空き箱が俺を少しだけ安心させてくれた。
というか、どうやら俺はいつの間にか、全く誰のものとも知らないヤツの部屋に座りこんでいるらしかった。薄明かりの中で詳しいところはわからないが、こんな手触りの床にはお目にかかったことがない。なんだこれ? フローリングにしちゃ手触りがいいが。
まさか、ケレビウムで遊んでるうちに夢遊病患者よろしく歩き回っていたんじゃあるまいな。俺はケレビウムを抱えこんで、あたりを見回す。このまま誰かに見つかるのはまずい。
「おい、ミア。大きな音がしたが、なんともないか」
まるで俺がのたうつのを待ってたかのように、扉の向こうから──こっちか。薄明かりは確かにそちらの方から射していた──男の声がした。今にも部屋に入ってきそうだ。「開けるなっ!」俺が大慌てでどうにか明かりを用意できないかとじたばたしている内、ついにその扉は開かれ、俺は足下のケレビウムの空き箱で思い切りコケた。
「ミア。開けるなじゃない。ケレビウムばかり、あまり父さんたちを困らせないでくれ。もう丸二日食べていないだろう。いい加減降りてきなさい」
入ってきた男は手早く部屋の明かりを点けると、広げた腕を胸の前で組んだ。どうもへんてこな格好をした男だった。部屋着だろうか。袖が長く垂れさがり、それを背中の側で結んでいるらしかった。色合いも、派手すぎて見てられたもんじゃない。上と下がひっくり返ってるのは、俺がそうだからってことにしても。なんだこれ。いつの間にか俺はどこか知らん国にでも来ちまったか。
「やっぱりか。あのな、父さんもお前が楽しむことに口出しはあまりしたくはない。だがそれは勿論、お前が健康に幸せに育ってくれればの話だ。バッテリー切れだろう。丁度良いから降りてきてスープでも飲みなさい」
男の顔がケレビウムの空き箱の奥で優しげに微笑んだ。ケレビウム社のケレビウム-Ⅲ。ケレビウム……いや、待て。なんだこりゃ。ケレビウム-XXX? Ⅲの特別版か何かか?
俺はヒリヒリと痛む首筋を押さえてごろりと体勢を直すと、言うべきことを思い出した。ここまできて誤魔化せるヤツがどこにいる?
「すまないな、親父さん。目が不自由なのかも知れんな。俺はその、あんたの娘じゃないんだ。俺もなんだかよくわからないんだが、いつの間にかここに──「ミア」
男はしっかりと俺に目線を合わせて、残念そうに眉を顰めた。
「また忘却が出ているな。本当に、どうしようもない娘だ」
そのまま俺のもとまでやってくると、男は俺の体を軽々と抱え上げ、廊下へと連れだした。俺は勿論抵抗してやろうと腕を振り上げたが、俺の腕はいつの間にかまるで針金みたいやせっぽちになっている。
なんで。
何が。
何が?
何だって俺の腕が。
俺の。
…………?
俺の……?
まずい。
まずいまずいまずい。
何かわからんが、何よりもまずい。
消えるぞ。
早くケレビウムに戻らないと。
早く。
◇
食卓に用意されたスープをちょ、ちょとすする娘に、父親が小言を漏らす。
「ミア、何度も言ってるけどな」
「はいはーい、わかってるってパパ。ケレビウムは一日一時間!」
MOUNT