017.独夜行
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──こっちは夜でも明るいんだ。
病院から出ると、ジッとした寒さが辺りを満たしているのがわかった。夜の街を深深とした灰色の雪が覆いつくしていく。
それまではボウっと体全体を包みこんでいた熱は、じわじわと夜の空気に向かって溶けだした。最後には頭の奥の奥に一滴を垂らして、つかの間だけ消えた。あの熱はすぐに戻ってくるだろう。けれどそれまでは、私は全てから自由になれる気がした。
誰もおかまいなしに降りつづく雪は、雨とは違って一枚のフィルタのように世界にかかる。わかるかな。テレビにかかるプツプツとしたちらつきみたいに、眼鏡についたキズみたいに、世界とずっとの距離を隔てて、雪は降る。
……わからなくてもいいよ。
病院を抜けだすことを、お母さんも、お父さんも、先生も認めてくれた。認めてくれただろうと、思う。
どうせ私は助からないんだから。
湿った雪がうっすらと積もった病院の駐車場を行く。雪は一時間ほど前に降りはじめたばかりで、例えば足が滑ったり、埋もれたりということはなかった。もしそうだったら、潰瘍の方よりも先に凍傷で動けなくなっていただろう。ありあわせの突っかけで出てきた私はひどく不格好だっただろう。それを笑う人すらいない雪の夜。私はちょっと寂しくて、でもずっともっとの安堵をお腹のあたりに感じてから、ちょっとだけ鼻をすすった。
芯の方からジンジンと熱を帯びだした頭に、軽い舌打ちが漏れる。『脳潰瘍』なんて聞いたこともなかった。先生も、他の色んな先生と相談して、やっとそう判断したみたいだった。ウイルス性だとか細菌性だとか、古典型だ、局所型だ、転移はどうで、治療薬の見こみはこう。懇切丁寧に説明してくれた先生も、私が『治るんですか』と一言尋ねたその後は何も言わなくなった。
病院の敷地を抜けて、私は気の向くままにサンダルを向ける。時間は深夜の一時を回っていた。けれど周りの景色は地元の夜よりもずっと明るい。
「都会だもんな」
呟く息が灰色に、雪と混ざりあう。
あたりは明るいけど、ビカビカと明るいってわけじゃない。病院の周りだからかな。あるのはコンビニと、あとはうつむいた街灯くらいだった。雪を降らせる街灯は、その足下でだけ灰色の雪を白く照らしだす。温かみの無い白色光が今夜だけは優しく感じた。うつむいてるクセして私のことを見てもいないってとこが一番イカしてる。
灰から白へ、白から灰へ。
ちょっとだけ、小学校のころを思いだした。
朝の教室でストーブに手をかざしていた記憶だ。私のクラスには二十人くらいしか生徒がいなくって、その中でも朝早くから学校に来ていたのは五人くらいだった。『おはよう』とだけ挨拶を交わして、あとはチャイムが鳴るまで皆でストーブを囲む。顔なじみだけれど、おしゃべりはしなかった。昼休みにするようなおしゃべりをあそこへ持ちこむのを、その場の誰も望んではいなかった。
揺らめくストーブの火。
低い低い笛の音を思わせるそれに、私は手を伸ばす──
「あちッ!」
とっさに私は、頭に手をやる。
頭が熱い。脳潰瘍の炎症だ。
溶けてるんだ。今も。──脳に痛覚は無いって? 知らないよ。私だって。現に熱いんだ。頭が、頭の中が、焼けるように熱い。
私の脳は、次の夜明けを見られない。
幾重もの鉄のリングを巻きつけたように感覚を失いだした裸足が、どこか遠くへ行ってしまう。街灯も無い灰色の雪道を、私は誰の意思でもなく歩き続ける。それは最早自分の意思とも呼びがたい夜行だった。
ついに私はうまく歩けなくなって道端の植えこみに仰向けに倒れる。誰も手を引いて助けてはくれなかった。それで良い。それで。
右手首のあたりでドクドクとうるさい私の脈拍。最後の脈拍。
植えこみに積もった雪から染みあがってくる凍てつく冷たさではもう私の頭を冷やすことはできなくなっていた。
熱い。熱い。熱い……。
こみ上げてくる吐き気も、空っぽの胃をむち打つだけだった。
溶けだした脳が、耳から、口から、あふれ出てくる錯覚に襲われる。……それが本当に錯覚かどうかすら、私にはわからない。
うめき声。汚いうめき声に耳を澄ませる。
それは私のうめき声。
もう誰にも届かない。
それで良い……それで。
天に向けて開きっぱなしになった目に、一片の雪が降る。雪の結晶。一瞬だけだったけれど網膜に映りこんだそれは、これまでに見た中で一番キレイだった。
じゅ。
雪は私に触れる前に溶けて、一粒の雨になる。
それは子供だった。雪と私の子供。
私は終わる。
ここで終わる。
たった一人で、夜半の雪端で。
これで良かった。……こうで良かった。
この命は、私と世界だけのものなのだから。
暖かな一粒が、息絶えた私を見下ろしていた。
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